2015年8・9月号

■安倍政権の「戦後70年談話」の欺瞞
2015年8月15日   日本宗教者平和協議会 事務局長 森 修覚

 安倍晋三首相が14日に閣議決定し発表した戦後70年にあたっての談話は、安倍首相自らの言葉として語らない欺瞞に満ちた内容といわなければならない。
 「侵略」「植民地支配」「反省」「お詫び」は、過去の歴代政権が表明したという事実に言及しただけであり、「国策を誤り」「植民地支配と侵略」を行った歴史認識も語らないものであり、戦後50年の「村山談話」が示した立場を事実上投げ捨てたものである。全体として、他国の影響を受け、行った行為だと自らの誤りを認めない、欺瞞の談話であり、国民の願いに真っ向から反するものである。
 いまやるべきことは、日本を「殺し、殺される」国にする「戦争法案」を廃案し、憲法9条の立場を行動で示すことである。憲法9条を破壊し、もてあそぶ首相を許すことはできない。
 宗教者は、第2次世界大戦への協力・加担を懺悔し、再び戦禍をくり返さないと誓い、戦後70年を迎えた。
 日本宗教者平和協議会は、「平和の祈りを行動の波へ」と取り組んできた。歴史の逆流を許さず、憲法9条をまもり、平和と民主主義のために平和を希求する諸国民と連帯し、「戦争法案」を必ず廃案にするために全力を尽くす決意である。

「殺さない 殺させない」「兵隊も武器もいらない」
  戦争法案に反対する宗教者が全国集会を開く

 8月24日東京・星陵会館で「戦争法案に反対する宗教者・門徒・信者全国集会」が、23団体、17個人の呼びかけで開かれ、350人が参加。国会前には500人が参加し、抗議祈念行動が行われました。
 冒頭、会の代表の一人である山崎龍明師が、今回の開催に至る経緯と、宗教者としてあらゆる場で戦争に反対するという声をあげ続けていくことが必要であると述べ開会しました。
 渡辺治一橋大学名誉教授から、戦争法案廃止に向けて―運動の到達点と廃案に向けての課題―として基調報告がありました。
 今、戦後70年の日本の原則をこわす安倍政権の危険な動向に、日本はかつてない重大な岐路を迎えていると述べ、危機感と怒りにより、国民の中で今までにはなかった大きな結集が生まれていると報告しました。
 海外で米国の戦争に加担する方策を強引に進めようとする姿勢、のみならず、教育の国家介入(教科書採択)、川内原発再稼動、沖縄辺野古への基地建設、70年談話の欺瞞…と、次々と沸き出て来る政策上の矛盾と失態から、いまや安倍政権は大きく追い詰められていると語りました。
 「大きな結集」として生まれた一点共同行動…戦争させない・九条壊すな…が、この総がかり行動実行委員会の結成につながったことは大変画期的であると述べ、今後の戦争法案廃止に向けての活動と課題を提起しました。一番は戦争法案をつぶすこと、これが「私たちの七〇年談話」ですと結びました。
 各賛同団体からは、小橋孝一(日本キリスト教協議会議長)、勝谷太治(日本カトリック正義と平和協議会会長)、吉岡行典(日本山妙法寺大僧伽首座)、河崎俊栄(立正平和の会理事長)、矢野太一(天理教平和の会代表)、石橋純誓(非戦平和を願う真宗門徒の会)の6名の発言がありました。共に行動を推進していく中での、参加者の心を打つ発言が続きました。

被爆70年 原水爆禁止2015年世界大会に参加して
日本宗教者平和協議会事務局長・真宗大谷派僧侶 森 修覚

 原水爆禁止世界大会ー国際会議が8月2日から4日まで開催されました。しの笛による「原爆を許すまじ」の演奏と黙とうで始まり、原水爆禁止日本協議会の沢田昭二代表理事が主催者報告を行いました。「2015年核不拡散条約(NPT)再検討会議では、核兵器使用は人道的に受け入れがたい結果をもたらし、不使用を保証する道は核兵器の全面禁止である認識が深まった」「安倍政権の『戦争法案』の廃案を」「原爆被害者の平均年令が80歳を超えました。放射能被害を根絶し、脱原発の運動と連帯を」と報告しました。
 被爆者のあいさつでは、和田征子さんは「1943年長崎で生まれ、1歳10ケ月で被爆しました。爆心地から2・9キロの家で被爆した体験は母から聞きました。母が体験した地獄の情景は、言葉で表現できません。原爆は今もなお私たち被爆者と家族の中に、苦しみ、悲しみ、怒り、そして不安を残しています。戦争ない世界を」と訴えました。
 国際会議は第1セッション「広島・長崎の原爆被害者とヒバクシャのたたかい」で日本と韓国の被爆者が証言しました。広島の被爆者・山田寿美子さん、長崎の被爆者・小峰秀孝さん、韓国の被爆者・姜好中(カンホジュン)さんが、それぞれ被爆と差別で苦しんだ半生を語りました。特別報告を斉藤紀わたり病院医師、宮原哲朗原爆症認定訴訟全国弁護団事務局長)、アバッカ・アイジャイン・マディソン(マーシャル諸島共和国)さんからアメリカ、日本政府へのたたかいが報告されました。
 第2セッション「核兵器全面禁止条約、核兵器のない世界、平和運動と市民社会の役割」では、海外代表3人と安井正和原水爆禁止日本協議会事務局長が発言しました。
 アメリカのジョゼフ・ガーソンさんはニューヨーク行動の発言の中で「日本宗教者平和協議会の友人のはたらきかけにより、国際多宗教間の祈りが開催され、立ち見が出るほどの参加者数で、世界教会協議会(注6頁)などから惜しみない称賛が寄せられました」と評価を受けました。9日の長崎のレセプションで通訳を入れて「今大会に世界教会協議会の参加を促した大きな要因だった」と感謝されました。
 このセッションの特徴は2015年NPT会議の評価でした。いずれも「最終文章がまとまらなかったことは残念である。非核兵器・大量破壊兵器地帯を中東に創設するための会議開催を求める文言にアメリカなどの核保有国が拒否したことによるものである」と報告。「非核兵器国と核兵器国の格差を広げたこと、人道性の誓約は秋の国連総会の核軍縮の土台となる」とたたかいの成果が報告されました。
 第3セッション「核兵器のない世界へ、核抑止力の克服、紛争の平和的解決、安全な暮らしと環境」では、海外代表3人と中島孝さん(福島生業訴訟原告団長)、比嘉瑞己さん(沖縄県議会議員)が発言した。福島の中島さんは相馬市でスーパーを経営し「生業(なりわい)返せ、地域をかえせ」の裁判のたたかいを報告。沖縄のたたかいでは「新基地を移転という本土のマスコミ、本土復帰は何だったのか。憲法9条の国だから、日本への復帰を島ぐるみでたたかった」「一人一人は微力だけれど無力ではない」とたたかっていると報告。
 分科会では、鈴木章方師が原発の廃止、戦争法案反対の宗教者の活動を報告。私は「真宗大谷派の非戦決議などを紹介し、宗教者の戦争法案反対行動の7月24日、8月24日取り組みを紹介しました。
 4日の閉会総会で「国際会議宣言」を採択し、国際会議を閉会しました。

ヒロシマデーとうろう流し
 8月6日(木)原水爆禁止2015年世界大会・広島の最後の行事が、基町河川敷で行われました。
 主催者を代表して建交労の山田昭夫委員長があいさつしました。「今年の原水爆禁止世界大会は、安倍政権による憲法破壊の戦争法案を阻止する闘いのさなかに開催されています。(中略)戦後70年間、核兵器の使用を許さず、憲法を守ってこれたのは『人類と核兵器は共存できない』と被爆者の声と行動があったからこそ」と強調し、「とうろう流しは、日本の民族的な宗教行事で、広島では70年前の今日、原爆で焼かれ、放射線を浴び、苦しんで死んでいった被爆者を弔い、地球上から核兵器をなくすことを誓って、この元安川においてとうろうに火をつけ川面に流します」と紹介し、毎年、25年前から、イギリスの宗教者団体から贈られてくるろうそくの紹介をしました。
 続いて海外代表のフィンランドのエヴァ・ヘレナ・イノマさんが連帯のあいさつし、平和を願ってメリクッカ・ギブイハージュさんが歌を披露しました。その間、大きな鶴の折り紙に電灯がつけられた光る鶴が夜空を舞いました。その後、原爆犠牲者の位牌の前のイギリスから贈られたろうそくに、森修覚師(日本宗教者平和協議会・世界大会運営委員)が点火しました。
 その火を、それぞれの願いを書き記したとうろうに点火し、川面に流しました。
 同時に日本宗教者平和協議会の有志による伽陀、表白、阿弥陀経の読経が厳修されました。広島の僧侶はじめ全国から9人が参加しました。
 このとうろう流しには、海外代表はじめ保育園児、被爆者、広島大会参加者など約300人が参加しました。

広島大会8月4日から6日

挨拶する俳優の宝田明さん
 広島集会では、4日に宝田明さんがあいさつしました。「ゴジラ」について広島、長崎、に続きビキニでの水爆実験で被災した第五福竜丸事件を目の当たりにして、「黙っているわけにいかない。世界に向けて警告を発するしかない」と制作の想いを語りました。「『戦争法案』に一番眠れないのは安倍首相。白旗を上げなさい」と批判し、最後に平和への願いの歌を披露し、喝采を受けました。
 6日にはノーベル平和賞候補のカナダ在住のセツコ・サーローさん。広島での被爆者で、世界で被爆体験を語っています。そこまで至る自分の人生を語り、核兵器のない世界へ共にがんばりましょうと呼びかけました。
 また、キム・ウォンス国連軍縮問題担当上級代表代行が「広島、長崎が永久に教え続ける教訓である核兵器のない世界の実現は、私たち共通の責任である」と発言し、大会参加者と連帯を呼びかけました。
 最後に決議「広島からの呼びかけ」が提案され採択されました。
 6日の広島集会に日本宗平協から荒川徹真、森修覚、矢野太一、桑山源流、久我良修、林正道、小野和典、矢野さんのお孫さんが参加しました。
 広島市の祈念式典に参加。被爆者名簿で29万7684人となり、松井一實市長は「非人道性の極み、絶対悪である核兵器廃絶、2020年まで核兵器禁止条約の交渉開始に向けて取り組むと」決意を表明。子ども代表が「平和の誓い」を読み上げました。安倍首相のあいさつに憲法も非核三原則も触れない無力を感じました。


長崎大会
 7日からの長崎大会には、日本宗平協から小野大樹、林正道、森修覚の各師が参加しました。7日の長崎のつどいには田上富久長崎市長、被爆者の谷口稜曄さんが来賓あいさつしました。
 8日はフォーラム「『核兵器のない世界』の実現を―政府とNGOの対話」に参加しました。キューバ、ニュージランドの政府関係者、アメリカフレンズ奉仕委員会のジョセフ・ガーソンさん、原水爆禁止日本協議会の土田弥生さんがパネリストで発言しました。「政府だけでは廃絶できない。下からの人民の力が必要だ」「人道の誓約に113国が賛同している」「NGOや運動が政府とともに変化を作り出している」と指摘。9月26日の国連が呼びかけている核兵器廃絶国際デーの取り組みが強調されました。
 9日はナガサキデ―の閉会総会。草の根のたたかいが報告されました。高校生1万人署名活動実行委員会の代表は「平和の種をまき続ける活動を続けたい」と訴えました。「行動と決意」として原水爆禁止日本協議会の安井正和事務局長が「すべての市民に被爆者のたたかい、願い、生き方を伝え、被爆の実相を徹底的に広げよう、大会で示されたエネルギーを戦争法案廃案のたたかいに合流し、安倍政権を大きく包囲しよう」と呼びかけました。
 集会は「長崎からのよびかけ」を採択しました。

非核非戦法要に参詣しました
 毎年9日の午後1時半から真宗大谷派長崎教区の「非核非戦」法要が行われています。長崎大会終了後かけつけ、非核非戦の碑の前で嘆佛偈が勤められました。その後本堂で阿弥陀経を厳修しました。
 小野大樹、林正道、森修覚が参詣しました

署名活動
 大会終了後、長崎の繁華街の浜町アーケードで署名活動に海外代表とともに参加しました。
 9日夜開かれたレセプションに海外代表とともにに参加し、海外代表と友好交流を深めました。
 被爆70年、戦後70年の節目の年として、核兵器廃絶を願う宗教者として、4月のNPT再検討会議のニューヨーク行動に参加し、2015年原水爆禁止世界大会・国際会議、広島大会、長崎大会の全日程に参加できたことに、会員・読者の皆さんに感謝申し上げ、報告とします。

(注)世界教会協議会とは
 キリスト教各派の信仰における調和と一致を発展させるために世界教会協議会は設立されました。WCC(World Council of Churches)は世界110を超える国と地域の教会、教派の信徒集会を束ねており、多くの正教会、そして数10の聖公会、パプテスト派、ルーテル派、メソジスト派そして改革教会派、さらには多くの統一・独立派などを含め、世界5億人のキリスト教徒を有する協議会です。

辺野古に基地は作らせない 沖縄の人々のたたかい②
日本基督教団佐敷教会牧師 金井 創

5月25日 全国理事会(大阪)にて、沖縄辺野古のたたかいの報告をした金井創牧師の講演内容(要旨)を紹介します。

日本という国が牙をむいて沖縄に襲いかかる
 昨年8月、海保の巡視船・高速警備艇100隻が辺野古の海を埋め尽くした。異様な光景。まさに恫喝である。また沖縄戦かという思いのお年寄りの人たち。今度攻めてきたのはアメリカではない。日本の国が攻めてきた。海保の船は小さいながら大砲を積載。にらみをきかしている。何のためにここにいるのか。米軍基地の中に海上保安庁の根拠地がある実態。
 そしてこの場所は稀少動物・絶滅危惧種のジュゴンの「食み跡」が百本以上も見つかったところ。海保が来る前は、豊かな「海底の草原」であった場所に潜ってみると、草一本なかった。あんなに豊かであった海が砂漠化していた事実。本当に悲しい光景。

平和の“武器”は学習、平和の最大の“敵”は無関心
 これは、沖縄のガンジーといわれた阿波根昌鴻さんの言葉。カヌー5艇とたった2隻の船で海に出て行く私たち。カヌーを転覆させられたり、押さえつけられねじ上げられけが人続出。圧倒的な力の差で規制する海保の暴力的な拘束には暴力で対抗しない。阿波根昌鴻さんの意を通す。暴力的に排除しようとする人たちにもおだやかに話しかけている。阿波根さんの言葉が非暴力精神の柱。徹底的な非暴力で阿波根さんは奪われた土地の半分を取り返した。

弾圧は抵抗を呼ぶ、抵抗は友を呼ぶ
 もう一つの柱が瀬長亀次郎さん。沖縄の戦後の政治家として、米軍の弾圧、冤罪による逮捕・拘留の中で、最後まで民衆の側に立ち続けた人。「弾圧は抵抗を呼ぶ、抵抗は友を呼ぶ」…今まで出会うことがなかった人たちが、一つ処で出会う…これが今の沖縄の現実。瀬長さんが生涯かけて掲げた「不屈」の言葉。全国からの募金で造った抗議の船に瀬長さんの直筆の「不屈」を掲げて命名。

「島ぐるみ会議」…沖縄の劇的な変化
 沖縄中から辺野古に集まる…沖縄の人々の大きな変化があった。これがオール沖縄に繋がった(知事選)。 全県下から続々とバスで駆けつけ沖縄の民意が集約された。12月の衆院選でも全ての選挙区でオール沖縄の候補が当選。辺野古ノーを突きつけた県民の意思表示であった。ところが日本政府は、知事選や衆院選での沖縄の民意には耳を傾けない姿勢。年明けの1月には、また大型巡視船・大型クレーン船が来た。不気味な光景の再来。

追い詰められているのは日本の国
 20トン、40トンという巨大なコンクリートブロックが海中に沈められた。珊瑚の調査には米軍の許可が必要。沖縄県が申請しても米軍は提供水域への立入不可の返事。私たちの船へは、海保がどんどん乗り込んで来る現状。運転権は譲保する。何度も同じ状況を繰り返す。転覆させられた実例も。85歳の島袋さん女性…毎日座り込み…辺野古のおばあ。厳しい場面もたくさんあるが、楽しくやっていこうという姿勢 追い詰められているのは私たちではなく国である。

「俺たちが花を咲かせるんだ」
 陸上でも、ゲート前で24時間、歌あり踊りありでがんばっている。「ミスターゲート前」の山下さん。海上の抵抗だけでなく陸上でも非暴力の抵抗を続けている。一人ひとりが輝き出してこの運動を継続している。時には海保の船に乗り込んでいくことも。海んちゅたちのおかげ。最初は抵抗運動に反対していた若い船長も、地元の切なる願いと共に立ち上がっていく。「たねを撒き育ててくれたおかげで俺たちが花を咲かせるんだ」(若い船長言) 私たちも学んでいく。

抵抗運動のおかげで辺野古の着工はまだ
 「たたずむ」…私たちは負けっぱなし、しかし、わたしたちが海にいるだけでも仕事ははかどらせない。少しでもこのような状況を継続していれば、やがて世論が応援してくれる。全国の仲間たちの連帯がある。全国各地で基地不要の声が立ち上がり基地建設を止める声が上がる。そのために私たちはあきらめずに海に出続けようと思う。この「不屈」の船で。東京で、国会前で、大阪で、全国各地で連帯し発信して下さる声に感謝し、辺野古に基地は作らせないたたかいを続けていきたい。

結びに
 せんかた尽くれども希望を失わず(聖書から)…わたしたちは四方から苦しめられても行き詰らず、途方にくれても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。覚悟し決意した者は強い。

被爆70年 被爆牧師の想いと願い
宗籐 尚三

 私は、現在の広島大学の1年の18歳の時、原爆の中心から1・3キロの自宅の2階で被爆しました。自宅は牧師館の南隣にありました。8月6日の朝は日本晴れで、前夜の空襲警報も警戒警報も解除され、皆ほっとして通勤したり作業を始めたり、運動場で体操を始めたりしていました。しかし、私は耳慣れたB29の爆音を耳にして2階に上がり、キラキラ輝きながら南の空に飛んでいく爆撃機エノラゲイを眺めていました。
 見えなくなったので窓から首をひっこめた瞬間、太陽が落ちてきたような物凄い閃光の渦の中に巻き込まれ、同時に轟音と共に倒壊した家屋の下敷きになってしまいました。そこで体全身重傷を受け、血だらけ、泥だらけになって這い出ました。そして暫く原子雲の真下で呆然としていました。
 そして、1階にいて無事だった母と共に近くの日赤病院にのがれました。運悪く直撃弾にやられたと思ったからです。しかし、日赤も破壊され、そこには焼けただれて救護を求めて押し寄せてきた幽霊さながらの被爆者でごった返していました。私は出血とショックのために意識不明になり、夕方まで放射能の降る庭に倒れていました。そして夕方、周囲が火災になり、私たちは追い出され、宇品まで逃げ、そこから船に乗せられて似の島に運ばれました。そこは、陸軍検疫所で多くの病棟があり、約1万5000人の被爆者が収容されましたが、そこはまさにこの世の地獄でした。ここで数千人の人が死亡したと言われていますが、私たちは死体を跨いで往来する始末でした。次々と死んでいく死体の処理も大変で、衛生兵たちは大きな穴を次々と掘って数十体ずつ投げ込み、防空壕の中に押し込んでいきました。
 そこでは、人間らしい喜怒哀楽の情をもっていては生きていけない世界でした。死体を処理する人たちは人間らしい感情を捨てなくては、自分自身の精神が異常になってしまうのです。精神病理学に「アパテイァ」という病気がありますが、それは「人間性喪失症」とよばれ、原爆や過酷な戦争帰還兵のPTSDとしてよく知られています。私の唯一の治療はメスでガラスの破片20数個を切り出すことだけでした。
 原爆はまさに人間を非人間化する非人道的な無差別大量破壊兵器であり、どのような大義があっても、どのような状況でも使用してはならない「絶対悪」そのものであることを忘れてはなりません。
 私が、3000ミリシーベルト以上の放射能を浴びながら生かされているのは、神が私に核のない平和な世界を創り出すための道具として働く使命を与えられているからと信じています。
 私は今まで、国の内外で被爆証言をしてきましたが、その原点は原爆慰霊碑の「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」という碑文にありました。つまり、あの原爆の投下と炸裂は私たち日本人の「過ち」が導火線となっているということです。
 日本の軍国主義によるアジア侵略と植民地支配によって1200万人の人々が犠牲となり、日本軍の〝三光作戦〟という残虐行為によって、彼らに絶えられない苦痛を与えました。そして、「一億玉砕」「本土決戦」を唱えて、ポツダム宣言の受諾を遅延させたことにあります。それ故、私は被爆者というよりも戦争に加担した加害者としての自覚をもって証言してきました。
 ヴァイツゼッカーは、「過去に目を閉ざす者は、将来に対しても盲目になる」と言いましたが、過去を直視する歴史認識なしに被爆体験を語ることはできません。5月の国連でのNPT再検討会議でも外相が各国首脳の広島訪問の要請に対し中国が「自分を被害者に見せようとする欺まん」として拒否したことも忘れてはなりません。
 現在の国際政治や安全保障は、核兵器の威嚇による抑止力によって成り立っていると言われています。あたかも核兵器が平和の〝守護神〟であるかのごとくに考えられています。唯一の被爆国である日本すら、アメリカの「核の傘」によって国の安全保障を求めています。政府は、一方で核の廃絶を口にしながら、他方ではアメリカの核に依存するという矛盾のなかにあります。しかし、核兵器は使用しないために、ただ戦略として準備計画され、保管され、製造されているのではありません。1994年、国際司法裁判所(ICJ)の原爆裁判でも、核兵器は非人道的兵器と認定しならが、「一国の存亡の危機に際してはその使用を違法とすることは出来ない」と判決しているのです。それ故、核兵器は単なる威嚇と戦略なので大丈夫という考えは単なる「安全神話」に過ぎません。
 聖書は、人間は不完全な存在であり、果てしない欲望を追求する存在であると教えています。核兵器が地上に存在する以上、それが使用されても「想定外」とは言えません。私たちは、核兵器の廃絶をたとえ段階的であっても実現するために国際的な努力をしなくてはなりません。
 被爆70周年を迎えて、戦争を知らない世代の人たちが多数を占め、ヒロシマの出来事を〝昔話〟のように、他人事のように考えている時代になりつつあります。悲惨な原爆への思いも風化され、終末的な危機感も薄れてきています。
 しかし、現実に私たち人類はすべて「ダモクレスの核の剣」の下に生きているのです。私たちは、過去の過ちを繰り返さないためにこそ平和憲法の9条で戦争放棄を宣言してきました。しかし、安倍内閣は憲法9条の精神を無視し、所謂「戦争法案」に血道をあげています。今日の平和聖日、私たちは「教団の戦争責任告白」を読みましたが、〝地の塩〟〝世の光〟としての教会が今日世界の平和のために、神から何を問われているのかを真剣に考えたいものです。(2015年8月2日)

宗藤尚三(むねとう・しょうぞう)
 日本基督教団隠退牧師。1927年広島県生まれ。広島大学中退、東京神学大学大学院卒。サンフランシスコ神学大学大学院卒。1999年隠退

山家妄想
■「安倍談話」と天皇の「お言葉」

★2015年8月14日、安倍首相は「談話」を発表した。発表された談話は、極めて安倍色の強いものであった。即ち、「ことば」に対する誠実さを欠き、非科学的な歴史認識に立ちながら、主体を曖昧にした欺瞞性に溢れたものであった。まず、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と述べるが、日露戦争を、帝国主義ロシアと後進国から急速に帝国主義化した日本の植民地争奪戦であるという評価は、歴史学会の通説であることを否定する学者はいないであろう。
★戦争中の04年8月、第一次日韓協約、05年11月第二次日韓協約によって、韓国の対外関係は日本の外務省が処理し、日本政府代表として京城に統監を置くことになるが、これが10年8月の韓国併合に帰結する。かくして韓国は1945年8月まで日本の植民地と化せられたのである。これによって韓国人は「勇気づけ」られたというのか。
★「満州事変、・・・」のくだりは、我が国の「侵略」と呼ばれた歴史そのものではないのか。これを「侵略」と呼ぶことを回避しつつ「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使」と、一般化したかたちで使用する。「侵略という語を回避している」という批判のみを意識した姑息な作文ではないのか。さらに、「先の大戦への深い悔悟の念」から「自由で民主的な国を作り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持」した「不動の方針を、これからも貫い」ていくと述べるが、戦後民主主義を敵視して戦前回帰の反民主主義的政策を強行し、法の支配を軽んじて平和憲法を破壊する解釈改憲によって、海外で戦争することを可能にしようとしている、いまや、まさにファシズムへの道をひた走ろうとしているとしか思えない自らの姿に比して、忸怩とする慎みも失ってしまったのだろう。
★「先の大戦における行いに対する痛切な反省と心からのおわびの気持ちを行動で示すため」被害国の「平和と繁栄のために力を尽くしてきた」と語るが、このくだりは、ODAなどの経済的な「国際貢献」を意識したものであろう。しかしそれは「金で面を張る」たぐいの、身勝手な行為と言われても弁解の余地のないものなのである。真の反省やおわびの行為とはほど遠い。
★中国人をはじめとする諸国民の「寛容の心によって、日本は、戦後国際社会に復帰することが出来た」と言い、心から感謝するとは言うが、彼等への加害に対する謝罪はない。「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実」とは述べても、それは「300万余の同胞の命」と並列した「国内外に斃れたすべての人々の命」であって、加害としての当事者意識を欠く、まさに傍観者としての立場からの言である。謝罪を求める被害者の心には届くまい。
★まして、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならぬ」とのくだりは、次に述べる「世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合う」ものでも、「謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す」姿勢でもなかろう。ただ何時まで謝罪すれば気が済むのかという意味であり、これを人は開き直ったというのである。国会の答弁と同じく、饒舌ではあるが誠意のない目くらましの言葉の羅列である。最後には「価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献する」と、現在の自らの姿=ファシズムへの暴走の道をひた走ると宣言としているのである。
★翌日、戦没者追悼式に臨席された天皇は「平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきた」と述べ、「過去を省み、先の大戦に対する深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願」う、と述べられた。新聞は「陛下が戦没者追悼式でこうした表現を使ったことはなく、異例と言える内容となった。今回は戦後の歩みについても具体的な言及が加わるなど、戦後70年の節目に対する陛下の思いが表れた」と解説している。
★大元帥陛下・昭和天皇と違って、私と同い年の現天皇は「軍国少年」であった過去に、学童疎開も経験し、戦後はアメリカ婦人の家庭教師について、民主主義素養を身につけた教養人である。日本国憲法に規定された「象徴」としての「分」をわきまえての言動は、尊敬をもって見守ってきたところである。その彼が、このような「異例の」発言をされるにいたった「思い」を、私たちは注視しなければならないと思う。
★同じく先の大戦を主導した父と祖父を持つ二人の人物が、現在示している言動の隔絶した姿を見るとき、教育のもつ力の重大性を思うのである。

(2015・8・16 水田全一)