笹の墓標強制労働博物館として再生されました

北海道・幌加内・朱鞠内

9月28日、戦争中の過酷な強制労働で犠牲となった朝鮮半島出身者らの史実を伝える「笹の墓標強制労働博物館」が開館しました。開館記念式典には200人を超えるブラジル、ドイツ、フランス、韓国などから集いました。
 1995年から「笹の墓標展示館」として活用されてきた旧光顕寺(真宗大谷派)の建物は2020年1月、雪の重みで倒壊。同館を管理したNPO
法人「東アジア市民ネットワーク」と韓国の「平和の踏み石」は遺骨を発掘し、つながりあってきた場所を失いたくないと相談し、笹の墓標展示館の再生を決意しました。
 実行委員会を結成し、寄付を呼びかけ、集まった資金は6600万円超えて新築できました。この間、笹の墓標展示館の全国巡回など行ってきました。
 今後は、「笹の墓標展示館再生・和解と平和の森をつくる実行委員会」から所有と管理運営は、NPO法人「東アジア市民ネットワーク」に移管されました。
 所在地は、北海道雨竜郡幌加内町朱鞠内6304

犠牲者の強制労働は

 1935年から1943年まで朱鞠内の地でおこなわれた名雨線鉄道工事、雨竜ダム建設。強制労働に従事させられた日本人と朝鮮人のうち200人を超える犠牲者があり、朱鞠内の共同墓地の奥に埋葬され、忘れ去れた死者も少なくありませんでした。強制労働は日本政府の戦争政策であり、特に第2次世界大戦が始まると朝鮮半島から大量の強制連行もありました。工事を行った企業は王子製紙、飛島建設とその下請け企業です。
「笹の墓標展示館」の発足

 1976年、この地に建つ光顕寺で犠牲者の位牌80基余りを発見した空知民衆史講座の人々は、犠牲者埋葬地を調査し1980年から光顕寺檀家と協力して遺骨の発掘に取り組みました。
 発掘された遺骨は荼毘に付され、遺族を探して届ける活動が続きました。空知民衆史講座は檀家から光顕寺をもらい受け、1995年に朱鞠内の強制労働の歴史を伝える「笹の墓標展示館」を開設し、鉄道工事、ダム工事の歴史を記録し、強制労働で犠牲になった日本人、朝鮮人の遺骨を安置してきました。

朱鞠内共同墓地にある埋葬の地、碑と犠牲者名簿
開館式典では

オープニングは韓国の追悼儀式の太鼓など楽器と踊りで開幕しました。元の光顕寺あとでアイヌの儀式が行われ、葛野次雄(アイヌ文化伝承者)氏による祈りを参列者、「自然の中で生かされていることの感謝を」と述べ、自然の神に感謝を捧げました。
 続いて日本の仏教者による犠牲者追悼法要が厳修されました。東西本願寺派僧侶で先請伽陀、表白、阿弥陀経、念仏、回向の読経。ブラジル、広島、東京、福岡、北海道・旭川など11人の僧侶が出仕。参列者が焼香を行いました。
 共同代表の殿平善彦師は、「2000人を超える人からの募金で開館できました。感謝申し上げます。東アジアの人々が打ち解けあい、語り合い、つながっていく場所に育てたい」とあいさつ。韓国から社団法人 平和の踏み石 鄭有盛(チヨン・コソン)代表があいさつしました。
来賓の挨拶は北海道電力、幌加内町長、札幌駐韓総領事館の副総領事 ハン・サンス氏からありました。その後テープカットで開場しました。
 これまでの館長の田中富士夫さんに代わり矢嶋宰さんが引き継ぐことになりました。「犠牲になった人々を記憶し追悼する場として、未来に受け継いでいきたい」話しました。
(文責・森修覚)

核兵器廃絶を訴え、久保山愛吉氏追悼焼津行動開催


愛吉さん70回目のご命日

 太平洋ビキニ環礁で1954年3月1日、米国の水爆実験により被爆した焼津港所属の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の無線長久保山愛吉さんの祥月命日9月23日、弘徳院境内地において『久保山愛吉氏追悼墓前の誓いのつどい』が開かれました。
 当日は、焼津駅南口から横断幕を掲げ弘徳院までの約2kmを「墓参行進」。弘徳院には、約140名が集いました。県原水爆被害者の会、原水爆禁止静岡県協議会等が構成する『3・1ビキニデー静岡県実行委員会』が主催しました。静岡県宗教者平和懇談会からは、小野和典事務局が参加し、誓いの言葉を述べました。

 誓いの集いでは、県原水爆被害者の会の磯部典子会長代理(磐田市)が、「非人道的な核兵器を一刻も早く全世界から廃絶、犠牲者や遺族の無念の思いを胸に運動を広げ、賛同署名の協力依頼と共に政府に核兵器禁止条約の批准を求めていく」と述べました。

 県内の高校生からも平和活動の報告があり、愛吉さんすゞさんのバラを全国に広めている活動、その一環として、沖縄からは、咲いたバラの花びらの押し花を額装にして送られた報告がありました。
 午後には、市内で『9・23焼津のつどい』が開かれ、同実行委員会代表の成瀬實氏の記念講演、特別発言として、2024平和行進・原水爆禁止世界大会・各地平和展・各自治体意見書採択状況の報告も行われました。

 なお、つどい後、駿河湾を臨む弘徳院の久保山家の墓前に参拝の折、墓誌に、愛吉さんすゞさんの長女みや子さんの逝去の事実が刻字されていました。(本年4月2日寂、79) 合掌。
(報告 小野和典)

「能登半島地震と原発」長田浩昭氏講演会報告


北海道宗教者平和協議会事務局長 小林 良裕 

 去る9月9日札幌市の西本願寺札幌別院を会場に浄土真宗大谷派の長田浩昭氏による「能登半島地震と原発」講演会(主催:北海道宗教者平和協議会、協賛:核戦争に反対する北海道医師・歯科医師の会、医療九条の会・北海道、北海道キリスト者平和の会、12・8戦禍を語り継ぐ会)が行われました。
 平日の夜という時間帯にもかかわらず50名近い市民、宗教者が参加し講演の後も熱心な質疑が続きました。

沖縄の現状を学ぶ

 昨年、北海道宗平協は沖縄から具志堅隆松氏(キリスト者、ガマフヤー代表)をお招きし、自衛隊によるミサイル配備など急速に軍事化が進む沖縄の現状を学びました。米軍による事故、騒音加害や環境汚染、また米兵による卑劣な犯罪が絶えないなか、日本政府は沖縄県民の声を無視したまま辺野古新基地建設を進めています。
 しかも、いま辺野古周辺の大浦湾埋め立てのために沖縄戦戦没者の遺骨が混じる土砂が投入されようとしている、講演には多くの市民、宗教者が参加して下さり具志堅さんの訴えに耳を傾け、具志堅さんが持参された遺骨土砂に手を合わせました。こうした取り組みを通して北海道宗平協は札幌在住の沖縄県出身の方々をはじめ、関心のある市民の皆さんや団体とあらたな交流を持つことができました。私たち宗教者が平和の証しを広く社会に発信するためにも今後もこうした機会をつくり続けたいと考えています。

 能登の地震と
反原発のたたかい 

 すでにご存じの方も多いかと思いますが、長田氏は浄土真宗大谷派法伝寺(兵庫県丹波篠山市)住職を務める一方、長年原子力行政を問い直す宗教者の会事務局長として活動されてきました。
 現在は多くの有志と共に出身地である能登町に「真宗大谷派 奥能登ボランティアセンター」を立ち上げ、被災された人々の支援に尽力しています。講演の冒頭長田氏は1月1日に起きた能登半島地震の規模の凄まじさについて話されました。


能登の地震規模は
阪神淡路地震を上回る

 この地震の規模を示すマグニチュードは7・6です。これは神戸を襲った阪神・淡路大震災の7・3を超えるものでした。最初、私はわずかに0・3の違いかと思いましたが、そうではありませんでした。0・3という差は地震のエネルギーに換算して考えると3倍にあたります。つまり阪神・淡路大震災の3倍のエネルギーを持った巨大な地震が奥能登を襲ったのです。昨年5月にはマグニチュード6・5の地震が珠洲市寺家(じけ)を震源に起きていましたが、この地震によってすでに奥能登の多くの住宅、建物は傷んでいました。その結果、石川県知事が言うように「現地の9割の建物が全壊もしくはほぼそれに近い状態」となってしまいました。
 住宅、建物だけではありません。輪島市、能登町、穴水町、珠洲市からなる奥能登は大谷派の寺院だけで180カ寺を超える、すべての集落に大谷派の寺があるという「大谷派王国」でした。 そのほとんどが倒壊したのです。 これまで地震が少ないと言われてきた能登半島ですが、町や集落の全てが崩れ去るという光景はいままでいくつかの震災の現場を見てきた長田氏も初めて見る光景だったと言います。

能登半島の原発の現状と
珠洲の撤回のたたかい 

 この奥能登にかつて10基もの原子力発電所を建設するという計画がありました。しかもその予定地は昨年の震源地である珠洲市寺家と今回の震源地である珠洲市高屋でした。中部電力が寺家に、関西電力が高屋にそれぞれ2基ずつの原発建設を計画し、さらにその後、国が福井県若狭にある原発(関西電力)の老朽化を見越して珠洲市に6基を移設するという計画です。当時の珠洲市市長をはじめ町の有力者たちは市役所ぐるみでこの誘致に動きます。  1989年4月この原発誘致の動きを知った長田氏はじめ10人ほどの若い僧侶、市民が反対運動に立ち上がりました。そして同年の市長選に仲間であった青年農民を押し立てて選挙戦を戦います。「地盤、看板、かばん」の何もない10人が立ち上がり、いわば市ぐるみの相手候補に徒手空拳のたたかいを始めたのです。この時珠洲の住民が反原発を掲げる長田氏たちの街宣車に手を振ることも、この新人候補の立ち合い演説に聞きに来ることもなかったと言います。「反原発」派と見なされることは地縁、血縁で結ばれた小さな町の暮らしのなかでは確実に不都合を招くおそれがありました。本人だけではありません。不利益がほかの家族や親類にも及ぶ可能性があったのです。権力に盾突く者と見られることを人々は恐れました。
 このような空気が持ち込まれ住民の間に分断が作られました。選挙戦の間人々はそっと家の窓のカーテンのすき間から顔が見えないように長田氏たちの訴えを聞いていたと言います。その気配は感じられたと言います。このように手応えが全く見えない選挙戦でしたが結果は現職市長が8021票、反原発を訴えた長田氏たちの新人候補が6295票、もうひとり反原発を掲げた候補が2166票と総数では反原発の票が400票以上原発推進票を上回りました。この時長田氏たちは「勝った」と歓喜に沸いたと言います。開票結果を見て若い人たちが腕を突き上げて喜ぶ当時の写真を見ました。
 しかし、これですべてが終わったわけではありませんでした。ここから誰も考えもしなかった実に14年間におよぶたたかいが始まったのです。巨大な電力会社の人員と資金、そして市長、市役所が一体となって住民を押さえ込み、ときに懐柔し、住民の間に分断と溝を広げていきます。そのなかで大きな転機となったのはこの4年後の市長選でした。
 1993年2月に珠洲市高屋沖を震源とする震度5の地震が発生しました。先に触れたように地震が少ないと言われてきた能登半島にとって幕末以来初めての地震でした。人々は驚愕しました。4月の市長選挙は日本の首長選挙で初めて「地震と原発」が争点となり、住民の関心も高まりました。しかし結果は原発反対派が圧勝するという予想を覆して推進派現職が約900票差で辛勝しました。しかし、選挙中から買収、選挙妨害のうわさや訴えが相次ぎ、選挙後には投票者数に対し投票総数が16票多かったことが判明し、市選挙管理委員会を巻き込んだ不在者投票や転入者の扱いにおける不正があったことが明らかになりました。3年後最高裁はこの市長選挙無効の判決を下し、推進派市長は失職します。原発推進派はここまでのことを行ったのです。その後も粘り強い反対運動が続けられ、ついに2003年12月、珠洲原発10基建設計画は白紙撤回されました。

 10人が立ち上がらなかったら

 もしはじめに10人が立ち上がらなかったら、もし14年におよんだたたかいが途中で挫折していたら、珠洲市には原発が建設され稼働していたでしょう。 もしもそうなっていたら、ふたつの震源地の真上に立つ原発の事故は福島第一原発事故以上の大事故になっていたと長田氏は言います。冬の北陸の季節風は西から東に吹き、関ヶ原に大雪をもたらします。その先は名古屋であり、琵琶湖であり、大阪です。珠洲原発事故は中部、関西を居住不可能にした可能性があったのです。
 最後に長田氏は「いま被災して苦しんでいるのは珠洲原発を止めた人たちです。中部に住む人たち、関西に住む人たちはそのことを忘れないでもらいたい。そして支援してほしい」と訴えました。私たちも奥能登に関心を向け続けたいと思います。
 たとえ少数であったとしても立ち上がり、声を上げ続けることの意味をあらためて教えられた講演でした。多忙ななか道東の生田原町での説法の帰りに予定を変更して講演を引き受けて下さった長田浩昭氏にあらためて感謝致します。
2024年9月16日現在