年頭所感
代表委員 榎本 栄次
牧師・京滋キリスト者平和の会
「負の財産」
ウクライナに続きガザでも戦火が止みません。どちらも宗教がらみであることに胸が痛みます。国内では、政府中心部の金権腐敗は目を覆うばかりです。世界統一協会の問題も根が深く、自民党の奥深くまで腐らせています。岸田首相が「先頭に立って正します」といっても自身が汚れているのにどうしようもありません。わたしたちはどうするのでしょうか。
宗教の本質には、富、勝利、健康といった「正の財産」とは反対に、病、敗北、悩みといった「負の財産」もあります。キリスト教では十字架を信仰の象徴とします。これは負の財産です。どんなに信仰を極めても思い通りにいかないといったことにぶつかります。闇と言いましょうか、病気、無能なこと、不便なこと、事故、老化、貧困などです。光に無縁のような状態です。わたしたちはこの不条理の中を生きています。その負にこそ宝があることを知るべきです。そこに胸がわくわくするような宝があるのです。
イエスの給食の話は有名です。(マタイによる福音書14章13節以下)人里離れた里に飢えた5000人を前に5つのパンと2匹の魚しかありません。イエスが「この人たちが空腹のまま帰らせたら途中で倒れてしまう」と心配し食事を与えるように提案しました、それに対して弟子たちは「この人里離れたところで、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか」と尋ねています。イエスは「パンはいくつあるか」と問われ「パン5つと魚が少し」でした。これが現実です。
「人里離れたところ」「こんなに大勢の人」「できるわけない」だから銘々で‥ということになります。宗教もそこでは自己責任を説き、具体的解決はなく教義が並び形式化します。元気で美しい言葉だけ、困っている人はまた次にとなるのでしょう。
40代、50代の男性の悲劇が続きます。閉じこもり、怖い、正しくなければいけない。ちゃんとしなさい、人の視線、家族からの叱責、子どもたちの何気ない言葉が刃物のように突き刺さる。後期高齢者も気が重い。アクセルとブレーキを踏み間違える。認知症の症状がみられる。どうしたのだろうか。できない人、持たない人、負の支配です。負の人はこの社会には要らないようになっている。教会や寺院でも「正の人」ちゃんとした人でなければならない。
イエスは「自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われました。それは「立派な不動の信仰をもって」ということでしょうか。そうではない。十字架は負の象徴です。恥であり、欠陥であり、恐怖です。それをどこかに置いて綺麗になって従うのではありません。負の宝をもって従うのです。資格なんかいりません。学歴もいりません、今のあなたでいいのです。この暗闇の中で平和を求める人こそが必要なのです。人から羨まれる負の財産です。
いいではないですか、そのままで出ましょう。そこには「罪人を招くために来た」と言ってくださるお方がおられます。社会は負の人は要らない。きらびやかな人がもてはやされます。しかしそれが戦争になります。闇のない社会、そこには最も恐ろしい病が潜んでいるのです。
被災70年3・1ビキニデー久保山愛吉墓前祭のご案内
とき 2024年3月1日(金)
ところ 弘徳院
次第
一、読経
二、あいさつ・メッセージ紹介
三、誓いの集い