日本宗教者平和会議を開催

10月3日から5日in朱鞠内・旭川  

日本宗教者平和協議会が主催する国連軍縮週間に呼応する「日本宗教者平和会議」が3年ぶりに10月3日・4日まで北海道の朱鞠内・旭川などで開催されました。全国各地から33人が参加しました。
 集合の新千歳空港から車内の学習での講演は「北海道の地から、アイヌの人たち」と題して殿平善彦師(一乗寺住職・日本宗平協代表委員)が講演1時間しました。

アイヌのこと

 「北海道の歴史は先住民を語らなくてはならない」とアイヌの権利、人権、生活を語りました。先住民族アイヌはどのような生活だったか。漁猟、狩猟をしながら、世界と交易がありました。日本では、薩摩と沖縄・中國、長崎とオランダ、對馬と朝鮮、松前藩と蝦夷など鎖国の江戸幕府でも他国との交易ありました。
 北海道は植民地として考えられる。入植植民地として世界にはアメリカ、オーストラリア、ニュージランドなどインデアン、アボリジニナルな人々の先住民存在は明らかです。先住民の生活、権利、人権、財産などが奪われた。そこで入植植民地として北海道を語ることが大切である。江戸時代、松前藩がアイヌとの交流がありました。しかし明治政府は「入植地」を広げる政策として全国から屯田兵を募り、サケを取る権利を抑圧し、アイヌを先住民として認めない日本政府の姿勢があります。ようやく2008年にアイヌの存在を認めました。

平和会議

 夕方、朱鞠内のまどかの家で平和会議を開催。この間亡くなれた河崎俊栄、大江真道、両代表委員、大原光夫代表理事を偲び哀悼の黙祷をしました。
 遺骨の発見、発掘の経緯や韓国に返還した内容の映画を鑑賞しました。
 殿平善彦師から「死者の思いを受け止めることが大事」「東アジアの平和は、朝鮮の統一と日本の謝罪」こそ今日求められます」と強調しました

追悼の祈り

 4日は雨が降る中、フィールドワークで最初に「記憶と継承」の碑で各宗派の祈りが行われました。伽陀、路念仏、宮城泰年師の表白(1面)、キリスト教、日蓮宗、浄土宗、真言宗、神道、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、真宗仏光寺派での読経を「厳修」し、犠牲者へ哀悼の意を表しました。
 共同代表で現在の場所を管理している田中富士夫氏の挨拶を受けました。この土地は作家の森村誠一さんの印税の寄付によって取得した。
 その後雨竜ダム、願いの像などを車窓から見学しました。
 会場で参加者から感想を出し合いました。「来て良かった」「再建になったらぜひ来たい」「宗教者の思いが伝わってきた」このような機会を作ってくれてありがとう」など参加者全員から話されました。
 最後にアピールを採択し平和会議が閉会しました。
 
旭川の旅
 オプションには28人が参加しました。湯元白金温泉ホテルでは昔の仲間が頑張った時代の話が盛んで、交流しました。 
 翌日は雨も上がり、ホテルの近くの「白ひげの滝」「青い池」など見学、旭川のアイヌ館、男山資料館をまわり解散しました。十勝岳は初冠雪でした。

平和会議に参加して


岡田隆法・真言宗豊山派・泉福寺住職

 笹の墓標展示館が雪の重みで倒壊し、3年越しで日本宗教者平和会議を北海道雨竜郡幌加内町で103日に行われました。新千歳空港からバスに乗り殿平善彦御住職のお話をお聞きしながら、深川市の一乗寺の前を通り朱鞠内湖の湖畔にあるふれあいの家まどかまで参りました。
 今回の主題は戦時中に人造の朱鞠内湖(水力発電所)のダムを造るために強制労働させられた朝鮮人の遺骨を掘り起こし遺骨返還にまで至った経緯を学ぶ旅でした。しかし、北海道は江戸時代は蝦夷地として日本本土とは違う外国の地としてあり、明治時代にこれを本格的に入植植民地した経緯があり、その犠牲となったアイヌの状況がまずバスの中で殿平氏によって語られました。
 朱鞠内湖の宿泊施設まで到着し、円形の宿(もと小学校校舎)で平和会議として北海道での韓国への遺骨返還運動の顛末を新しい映画となったものを視聴してから殿平氏からお話いただきました。
 北海道(蝦夷地)で1604年に函館の松前藩が江戸幕府から黒印状を受け、アイヌと和人の交易権の独占が保証されました。蝦夷地は米が取れなかったのでアイヌとの交易で利益を得ていました。その後、場所請負制度などが整備され松前藩による蝦夷地、アイヌへの進出が進みます。それでも江戸時代はアイヌの自由は保証されていました。しかし明治時代になり蝦夷は北海道と改名され開拓が始まり、無主地(所有者がいない地域)とされ屯田兵が派遣されました。アイヌは鮭や鹿の狩猟が禁止され、土地を追われます。1899年(明治32年)に土人保護法が制定され、一定の不毛の土地が保証されます。またアイヌの子どもは土人学校に通わせられアイヌの習俗は禁止されました。そんな中、アイヌの天才女子、知里幸恵はアイヌ神謡集を出版し直後に19才で亡くなります。ここから絶滅に瀕していたアイヌ伝統文化が復権していきました。2007年に国連で「先住民の権利に関する国際連合宣言」が認められ、日本でも2008年にアイヌ新法(アイヌ民族支援法)が国会で成立し、初めてアイヌが先住民族であったことが認められました。2013年に北海道の調査によるアイヌの人々(民族とはアヤフヤな概念の為使われないそうです。)は16786人いるとされています。北海道の人口が528万人ですから人口の約2%です。隠れている人もいることから実際はこの何倍もいるものと予想されます。北海道大学で約1000体のアイヌの遺骨が収集され(勝手に墓を掘り起こし集めたもの)てきたため、アイヌの小川隆吉さん(2022725日死去)が全国各地にあるアイヌの人たちの遺骨の返還を求める活動に取り組まれました。
 先住権とは集団の持つ権利で、鮭の漁業権などの裁判が行われ(北海道十勝浦幌町のラポロアイヌネイション)ている。日本のアイヌ新法等では具体的なアイヌの人々の権利については言及しておらず、儀式に使う鮭の漁獲でも書類送検された(不起訴)こともある。裁判を通してアイヌの権利つにて公に議論されることが望まれます。こうした蝦夷地(アイヌにとってアイヌモシリと言う)での入植植民地は朝鮮植民地と、朝鮮民族強制労働において無視の出来ない出来事であったとお話されました。

焼津から核兵器廃絶を誓って
久保山愛吉氏追悼焼津行動

 秋彼岸会の中日、9月23日 久保山愛吉さんの祥月命日に焼津弘徳院境内にて、追悼行動が行われました。主催は3・1ビキニデー実行委員会。午前中のこのつどいには、関係者・関連団体では、静岡県宗教者平和懇談会から小野和典事務局が参加しました。
 主催者代表の石原洋輔県被爆者の会会長が、核兵器全面禁止の運動の先頭に立って日本政府が進むべきと強調しました。宗教者からの誓いの言葉は別記にて掲載します。また、3・1墓前祭にて報告された、『愛吉・すゞのバラ』が被災地楢葉の宝鏡寺・高知・京都・地元静岡でも開花したと粕谷たか子県母親大会会長が述べ大きな広がりを感じました。
 午後の焼津のつどいでは、文化行事や参加者による核兵器廃絶の特別発言が続き盛会でした。