被爆75年いのちをえらびとる断食の祈りのつどい
宗藤信江さんの証言・下
足だけは元気だったから、三好に親が疎開していたので、芸備線が動いていたから、そこまで行きましたね。そこで治療したのが東大の都築正男博士なんですね。都築先生が見てもガラスの破片を取るのは麻酔なしで、メスでとって、夏ですし化膿しますよね。そしたら、傷口のまわりをお灸をすえて、お灸をすえたら皮膚のまわりがびっくりして締まるというか、そういう治し方で背中とか腕とか頭とかのガラスをいっぱい取ってもらったそうです。
それから2年ぐらいはぶらぶらしていて、広島大学の前身の応用科学の1年生だったんですけど、学校に行かずに、カトリックの教会に行ったり、倉田の本を読んだり、いろいろ宗教的な本を読み漁って、そしてキリスト教に入りました。それで、自分が生かされているのは原爆を使ったらいけないよということをみんなに言うために自分は生かされているというところにたどりついて、精神の持ち方というのですかね、それで牧師になることを決心しました。
親も、家が燃えちゃって、そこから家を建て直さなければならない。早稲田にいっていたお兄さんが結核で亡くなったんですよ。そいで自分が一人息子ということになって、どうしても親は働いてもらいたいと思っていることを判りながら、6年間東京神学大学にいきました。お父さん、お母さんは2万円ずつ仕送りしてたそうですけどね。もう、一生の間、核兵器廃絶ということばっかり、キリスト教の教え、イエス様の教えでいうなら、それは許されないことだ。信仰告白というのは核兵器廃絶を言うことだって、いまの生きているみなさんにいうならば、信仰のある人は核兵器廃絶といわなければウソなんだっていうぐらい徹底的にそういう教え方で牧師をし、金城学院の講師をし、生活を立てました。そういうことで、プラハのキリスト者平和会議に出たりいろんなことをしましたね。
広島で、アメリカが広島・長崎の原爆の実情を報道することを管制する「プレスコード」を布きました。言論を封じて、核の恐ろしさ、被爆のことを言ったらいけないというような時代が長く続いて、そんななかでアメリカが実情を写したフィルムを全部持ち帰っちゃったんですね。それを日本人が10フィート3000円で買い戻して、それを映画にして、それを持って全米各地で核の恐ろしさを伝えたわけです。アメリカ人は原爆は戦争を終わらせた大事なものなんだと思ってますね。それを、自分のつたない英語で一所懸命お話して、ニューヨークの反核のデモ行進にも参加しました。これは、『10フィート映画世界を回る』という永井秀明先生がつくられた本ですけど、この中に首からプラカードを提げて行進した様子などが出てますけど、この頃、広島女学院の有名な女性もここらで発言していることが書かれています。もう40年ほど前の本ですけど、ちょっとご覧下さい。
自分の生い立ち、『私の原爆体験』というのは、東京から来た女子学院の生徒さんに毎年お話して、院長さんまでも来て、来年もまた話をしてくださいねと言われて「来年の約束もした」って私に言ってましたけど、それでも人間の命をつかさどるのは神様ですから、ちょっとセキがでてちょっと風邪っ気だといいながら車を自分で運転して安佐市民病院に入院したんですよ。それから4日目のお昼に急性肺炎で亡くなってしまいました。自分で運転していって、病院の駐車場に自分で入れてですよ。それから4日目に亡くなりました。
今日、私が長々としゃべっても本人じゃない、妻ですから、違うことを言うかも知れませんから、『核時代における人間の責任――広島とアウシュビッツを心に刻むために』を読んでいただいたら宗藤の気持ちが判ると思います。そういうことでお許しください。さっきの写真、見せましょうか。私、3人の息子がいまして。その孫がね、広島市立大学にいっている女の子がね、家へきてね、おばあちゃんが庭で花に水をやっているのが一番平和を表すことだわというわけですよ。何枚も何枚も写真を撮りました。それで、最後に向こう向きになって座ってくれるっていうから座ったんですけど、水をやっているより、これの方が良かったといって、学校の展示会の時にはこれをだしました。
ちょっと読んで貰える。読めますか。「あなたのいない庭で」ということでちょっと読ませていただきます。「おじいさん、天国で私たちを見ていますか。あなたが生きた日々を思い返してみると、生まれた昭和2年から戦争の時代でしたね。あなたが被爆によって強いられた心と体の傷は70年以上経っても癒えることはありませんでしたが、牧師として平和への祈りをつづけ、園長として子どもたちの心に問い、その生涯を平和に捧げましたね。ご苦労さまでした。私はあなたと過ごしたこの庭を大切に育てていきますから見ていてください。それでは、また会いましょう。」
どうもありがとうございました。
寄稿 戦争責任を問う③
滋賀宗平協・鈴木悛亮
最大の士族反乱となった1877年の西南戦争では、反乱の勃発地点となった鹿児島が新政府発足以降も半独立国状態で中央政府の統治は十分に行き届いておらず、それまでの長い歴史を踏襲して、浄土真宗の信仰が禁じられていました。武士の支配社会を横断する講組織や、年貢が本願寺への寄進に流れる、といった点を警戒したためだと、いわれています。その禁止が、戦争勃発の前年に大久保利通や西郷隆盛の尽力で解かれたことから、本願寺は積極的な布教攻勢に出ます。戦争がはじまったあとも、政府に不満を持つ人々を鎮める、という論理で政府からの公認を得て、布教を続けていきました。かくして、いまの真宗王国・鹿児島が形成されていきます。「拡大」の視野は、海外へも広がっていきます。
明治の開国以降、日本の仏教は積極的な海外布教を展開していきますが、その重要な契機となったのが、日清・日露戦争でした。日清戦争では、不殺生戒という原理的課題に対して、あくまで戦争の廃滅を目標としながらも、日本がアジアの指導者として覚醒をはかるための「義戦」に参戦することは仏教の唱導するところである、と解いて戦争協力を正当化しました。こうした姿勢の背景には、当時、布教や慈善事業・教育活動などを通して勢力を拡大してきていたキリスト教への対抗という意識もあった、といわれています。そして、この戦争の勝利によって台湾を植民地化した日本側では、積極的に現地での仏教布教活動が展開されていくことになります。「生存」と「拡大」、その交差点に戦争への協力が位置していました。
日露戦争の際も本願寺派は、帝国未曾有の事変に際して挙国一致で対処すべきであり、真宗門徒は兵役や軍資募集などに積極的に応じ、「国民」として「王法」を守るよう法主・大谷光瑞は宣言し、日清戦争をはるかに越える規模の従軍僧の派遣、軍資献納、恤兵品の寄贈、軍事公債応募の奨励、出征・凱旋兵の送迎・慰問、出征軍人の留守家族の慰問・救護、傷病兵の慰問、戦死者の葬儀、戦死者遺族の慰問・救護、などにあたりました。従軍僧は、宣戦詔勅や法主のことばを基準にして法話・説教を行い、たとえば、真宗門徒の多い石川・富山・福井の3県の連隊から構成される第9師団の従軍僧となった佐藤厳英は、前線出動を控えた師団将兵に対し、この戦争が仏教の殺生戒とは矛盾しないこと、平和のための戦いであること、慈悲の精神から捕虜や非戦闘員を助けるべきこと、そして恐怖心が湧いた時は「南無阿弥陀仏」を唱えよ、国家のために死ぬのは名誉であり、靖国神社にまつられるのは身に余る幸せであると、語っています。そしてこの第9師団は、旅順総攻撃で一斉に、「南無阿弥陀仏」と唱えながら突貫した、と、伝えられています。当時第9師団の士官だった林銑十郎(のちに首相)は、「第一回の総攻撃で第9師団はほとんど全滅と迄言われた。…真宗門徒の半死半生の兵士は皆口の中では称名を唱へて居る。夜になると全部が「南無阿弥陀仏」をやるので囂囂(ごうごう)と聞こえる位である。助けて呉れなどと言ふ者は一人もない。それに依つて私は北国に於ける仏教の力は茲(ここ)だと云ふことを感じたのであります」と回想しています。
こうした協力的姿勢、そして兵士への影響は、他宗派においても同様であり、一部の僧侶からは非戦・反戦の声はあがったものの、それは教団から非正当な主張として退けられていきました。
「生存」と「拡大」。前者がほぼ保証された状況の中で、仏教者をさらに後押ししたのが後者でした。アジアへの日本仏教の拡大という課題が、アジアへの勢力を拡大する日本の国家行為と連動して捉えられていたわけです。この国家行為と宗教行為との連動を考える上で、重要なキーワードがあります。それは、「布教権」です。もし、中国大陸で日本仏教が自由に布教する権利を獲得していたなら、日本政府や日本軍のアジア戦略とは自立した形での布教活動が、可能だったかもしれません。実際、日露戦争に続く第一次世界大戦の際、日本政府は有名な対華二十一箇条の要求を中国側に突きつけ、日本仏教の布教権の獲得をその一項目に盛り込みました。すでに欧米諸国のキリスト教の布教権を中国側は承認しており、日本仏教もこれと同等の権限を保有すべきである、というのが、日本仏教側の主張でした。
しかし、中国側はこれを含むいわゆる第5号要求の削除をもとめて日本政府もこれを受諾し、結局、布教権は設定されませんでした。それ以降中国では、終戦まで、結局自立した布教権が確立されることはありませんでした。このため、日本仏教の活動領域は、日本軍が公式・非公式に制圧した実効支配地域に限られることになり、必然的に布教をはじめとする宗教行為は戦争という国家行為と連動し続けることになります。実際、アジアに急速に勢力を拡大していった昭和期、仏教界は各戦争に積極的に協力し、そして敗戦によってアジアの支配権を失った瞬間に、日本の寺院も神社も、一斉にアジアから消えてなくなることになったのです。
太平洋戦争の時代には、「真俗二諦(しんぞくにたい):出世間的(絶対的、宗教的)真理vs俗世間的(世間一般、世俗的)真実、あるいは、仏法vs王法(王による世間的な法)」というイデオロギーが、国家主義を高揚し、日本の軍事目的を支える目的で、使用されていました。この説は、敗戦後、浄土真宗で最も厄介な思想の一つになり、多くの現代思想家から鋭い批判を受けました。その理由は、この教えを現代的に解釈し受け入れるのに、仏教を世の中の慣習や社会倫理と完全に同化させず、世の中で人々がしなければならない義務に異なる二面があることを意味し、同時にこの世の諸問題については、国の方針を尊重しているからです。
善導大師の「観経疏」には、「多くの仏・菩薩には、二種の法身があって、一つには法性法身、二つには方便法身であり、法性法身によって方便法身が生じ、方便法身によって法性法身が現われるからである。つまり、この二つの法身は、異なっているが、離すことができないのである。一つであって、しかも同じとすることができないのである」と論じられているそうですが、勿論、国家神道は、仏・菩薩の方便法身と見なすことは不可能です。
出世間的/俗世間的な「二つの真理」の教えは、19世紀の末・明治時代から始まって、現代の浄土真宗で、特に顕著になりました。倒幕時、本願寺の末寺は、財政的、人的には、長州藩などの倒幕側の勢力を支持していたそうです。その結果、浄土真宗は、近代日本に大きな影響を与え、その結果、「真俗二諦」というイデオロギーも誕生していたのだそうです。他の宗派も、似たような教えを採用して社会に関与したものの、しかしながら、浄土真宗とこれらの他の宗派の伝統との違いは、浄土真宗では、出家生活が仏教の最も高い精神的な理想を実現するのに必要な環境であるとは、認めない点です。私も、この一点には賛同しますが…。私は、仏教の教義なるものは、寧ろ、様々な労働の中でしか学習することは不可能であるとすら考えています。
釈尊は、「生きものは殺してはならぬ。殺させてはならぬ。また、人が殺すのを黙認してはならぬ」(人が軍事や戦争に関与することを認めず、軍が出征するのを見ることを禁じ、もしやむを得ず軍隊と同じ場所に宿泊することがあっても、三晩以上にわたることを許さず、合戦や軍隊の動向を見にゆくことを禁止)、という教えを説かれました。さらに、自ら戦争を仕掛けることは無いにせよ、他から攻撃された場合、どのように対処したらよいかは、釈尊出身の釈迦族がコーサラ国の王ヴィドゥーダバによって攻め滅ぼされたことをめぐる伝承によって知ることができます。
戦前、特に1924年以後、支那事変(日本・中国の両国とも宣戦布告を行わなかったため事変と称する)がはじまる1937年まで、9人の首相のうち7人までが、以下のような方針を述べていたそうです。「国民は外来思想に感染し、極端な学説に惑溺するあまり、わが国体を破壊せんとするがごとき不逞・不法な行動をとって、社会の秩序を乱すので、国体と相容れざる危険な思想は剪除するとともに国体観念の明徴、敬神尊皇の大義闡明を行わなければならない」というような主張です。
そしてその方針に従い1937年、「国民教化運動」、が実施されることになりました。その目的は「国民に国体の観念を徹底せしめ、帝国を中心とする内外の情勢を認識せしめ、国民に向かう所を知らしめ、国運隆昌に寄与する」ことでした。日中戦争が始まると、「国民教化運動」は「挙国一致(国民全体が一つになって同一の態度をとること)・尽忠報国(忠義を尽くして〈まごころを尽くして仕え〉国家に報いること)・堅忍持久(我慢強く久しく持ちこたえること)」をスローガンとする「国民精神(国家のために自己を犠牲にして尽くす国民の精神)総動員(すべてかりだす)運動」に席を譲り、これも1940年秋には「大政翼賛会(太平洋戦争中の国民統制の中核機関で、政府と表裏一体とされた法人格なき公事結社)」にとって替わられました。
1941年に太平洋戦争が始まると、国民に対する指導・干渉は一層深まり、ラジオは年中「偉い人」のお説教を放送し、国民歌謡や国民唱歌が選定され、毎日、ラジオから流されました。国民唱歌は、「海ゆかば水漬く屍山ゆかば草むす屍大君の辺にこそ死なめかえりみはせじ」という歌詞の「海ゆかば」でした。「贅沢は敵だ」「パーマネントはやめましょう」というようなポスターがあちこちに貼られました。
漫才師は、演壇から観客に「時局の重大性」や「生活態度」について説教し、町会長や隣組長は、新聞に書いてあることを得々として長々と喋り続けました。警察の指揮下にある警防団は、防火活動のほかに、国民を動員し、監視するのに大きな役割を果たしました。大都市の住民も、隣近所の締め付けが厳しくなり、窮屈な立場に置かれるようになりました。「挙国一致」「一億一心」が、国民的スローガンであったわけですから、国の政策に反対したり、批判することが許されるはずはなくすこしでもそれに近いことをしたり言ったりしたら、「国賊」「非国民」として、警察に密告される危険性が十分にありました。新聞、雑誌、書籍、映画、放送など、すべてのマスコミは政府の統制下にあり、戦争に反対することはもとより、これに消極的姿勢をとることさえ、まったく許されていませんでした。この強力な統制はマスコミに対してだけではなく、一人ひとりの個人にも及んでいました。国民が政府を批判することや、これに反対することは、犯罪行為として取り締まりと刑罰の対象になっていたのです。
1939年、宗教団体に対しては、「宗教団体法」という法律が制定され、設立、財産管理からはじまって教義の大要、その宣布や儀式の執行、人事管理に至るまで、主務大臣の認可を必要としていました。これを承けて、過去に廃仏毀釈(仏教を排斥し、釈迦の教えを棄却すること)と国による境内地の収奪等によって大打撃を受けた仏教界は、戦争に際して、国家に積極的に協力したり、政府に追従したり、そこまではしなかったとしても、沈黙を保って保身を図ったりしましたが、多くのキリスト教徒や、新興宗教は、弾圧されました。
暁烏敏(あけがらす・はや)は、真宗大谷派の僧侶で、俳人でもあったそうですが、ウィキペディアではタイトルのみしか、分かりませんでしたが、「国体と仏教(1940)」「大政翼賛の話(1941)」「他力本願の道(1941)」のような膨大な著作群を残していました(しかしながら、戦時中の彼らのこのような行動を責めることは私には出来ません。私は「生きていて良かった…」とは、思いますが、東本願寺が大きな公職(宗務総長1951年)を与えて起用したこと(この起用によって、窮地に追い詰められていた宗派の財政は、回復されたそうですが)は、問題であったような、気がします。
2008年10月12日のNHKスペシャル「戦争は罪悪である~ある仏教者の名誉回復~」という番組の内容は、日中戦争がはじまった1937年、大多数の宗教者が戦争に協力していく中で、「戦争は罪悪。この戦争は侵略である」と説き、検挙された僧侶(当時71歳)がいた、というもの、だったそうです。この僧侶は、真宗大谷派の高僧・竹中彰元(岐阜県垂井町・明泉寺)というかたで、警察の追及にも信念を曲げず、本山・東本願寺からも布教使資格の剥奪処分を受けて、1945年にこの世を去ったものの、地元の人々や多くの宗教者たちの熱心な運動により、2007年10月、本山はついに彰元の名誉回復に踏み切る決定を行ない、それは、彰元が検挙されて、実に70年ぶりのことだった、というものです。
1937年4月27日、竹中彰元は、禁固4ヶ月執行猶予3年の判決を受け、真宗大谷派は規律を定めた達令に基づき、僧侶の位を最下位に落とす停班という処分を下した。太平洋戦争が始まり、1942年に本山から出された「戦時住職手帖」(住職の心得)によると「国民の士気を鼓舞する精神的原動力となるのが住職の役割である」。
戦後、真宗大谷派は二度と戦争への協力を行わないと表明する。しかしながら、長い間、自らの責任を問うことは、無かった。大きな転機が訪れたのは1987年、日中戦争勃発から50年後のこと。全世界の戦争の犠牲者を対象とした「全戦没者追弔法会」を開催。自らの責任を告白した。そして、1995年には「不戦決議」を採択。戦争に協力した宗門の罪を懺悔し不戦の誓いを表明した。そして次の年に高木顕明の名誉回復。そして、忘れ去られてきた竹中彰元師が、2007年にやっと名誉回復された。
終わり
2020年12月17日
東京地裁宗教者核燃裁判第1回公判原告・意見陳述
(共同代表)中嶌哲演
私は15基もの原発群が世界一集中する「原発銀座・若狭」のど真ん中の町、小浜市の一住民です。その小浜市民は、今日まで小浜原発の誘致を3回、使用済み燃料中間貯蔵施設の誘致を2回、有権者過半数の署名運動などによって阻止し続けてきました。巨大な大飯原発4基から小浜湾を介して内陸部17kmの山麓に、私が住職をしている明通寺はあります。明通寺は大同元年(806)、坂上田村麻呂がいわゆる「蝦夷(えみし)征伐」による痛ましい犠牲者、アテルイやモレの追悼・冥福を祈り、国の平和と衆生の安穏を願って創建したと伝承しております。
原子力行政を問い直す宗教者の会の六ケ所村や盛岡市内での集会で、再処理工場建設に反対する地元・周辺住民の切実な叫び声に、処刑されたアテルイやモレの悲痛な訴えと重ね合わせて、私は涙を禁じえませんでした。
【注】アテルイ(阿弖流為)とモレ(母禮)8世紀末から9世紀初頭に東北地方(陸奥国)で活動した族長。延暦8年頃から同20年にわたって官軍(朝廷)に抵抗し、戦ったが、坂上田村麻呂に降伏、平安京に連行される。しかし、田村麻呂は朝廷に二人の助命と地元へ戻すことを進言したが、容れられず。延暦21年(802)8月13日河内国で、二人は斬刑に処せられた。(その終焉の地については諸説あり。)
若狭の15基の原発はその電力のすべてを半世紀近くにわたって関西圏に送ってきましたが、一方では、それらが生み出した使用済み燃料集合体を約2500体、低レベル放射性廃棄物のドラム缶を約10万本、主として海外で再処理後の高レベル放射性廃棄物のキャニスターを約800本も、六ケ所村へ搬出し、押し付けていることにも、私は心痛してまいりました。さらには、国内の原発がこれまで使用済み燃料中に生成し、英・仏に委託して再処理・抽出したプルトニウムが46トン(長崎原爆6000発分)の約3分の1は、若狭の原発由来であり、その今後の行方の監視をけっして怠るわけにはいきません。
青森地裁での核燃サイクル阻止1万人訴訟の長年にわたる粘り強いとりくみに、さしたる支援もなしえぬまま慙愧にたえませんでしたが、遅ればせに本訴訟に加わることができ、再処理工場の運転差し止めへ向けての決意を新たにしております。
日本原燃の共同出資者は、沖縄電力をのぞく9電力会社と日本原電です。若狭の15基の原発のうち11基は関西電力の、2基は日本原電の原発です。残りの2基は日本原子力研究開発機構の「もんじゅ」と「ふげん」です。「フクシマ」以前に、関西圏の消費電力の55%はその11基(総出力977万kwh)の電力でまかなっている、と関西電力は広報していました。が、31基(総出力1442万kwh)の火力発電所は関西大都市圏の海岸部に林立しているのです。原発が真に「必要」で「安全」ならば、なぜ若狭の海岸部に立地されなければならなかったのでしょうか。
フクシマ後に、指導的な宗教者が参加し、脱原発へ方向転換をうながしたドイツの倫理委員会の議論の中で、以下のような指摘がなされていました。「私たちが議論したのは、原子力エネルギーと放射性廃棄物のリスクを、誰が担うのかという問題です。もし原子力が安全ならば、なぜ多くのエネルギーを消費している人口の中心地から遠く離れた田舎に、原発が建設されるのでしょうか。このことが意味するのは、農村に住む人々の生命の価値は、都市の人々と異なる扱いを受けるということなのでしょうか。私たちが考慮したのは、放射性廃棄物に関連した多くの未解決な問題の扱いが、将来の世代に残されているという問題です。そして、将来の世代に未解決の問題を残しながら、エネルギー多消費の生活スタイルを今日楽しむことが正しいのかという疑問です。」(大月書店『ドイツ脱原発倫理委員会報告』より)。
また、日本学術会議や「原発ゼロ社会への道」を提言した原子力市民委員会が、やはりフクシマ後に、「地理的な受益圏と受苦圏の分離という観点からは、人口が少なく電力消費も少ない地域の人々に危険や汚染を負担させる一方で、結果として原子力発電からの電力に大きく依存してきた都市圏の人々の無関心を引き起こす。」(岩波ブックレット『3・11を心に刻んで2020』より)という見解を表明したことも銘記すべきでしょう。
東京電力の福島原発10基も関東首都圏に送電していました。他の電力会社の原発もすべて過疎地に建設され、各ブロックの大都市圏へ送電してきたわけです。そして、それらのすべての原発の使用済み燃料や放射性廃棄物が、本州最北の青森県下北半島六ケ所村などに集中化されているのです。この明々白々な客観的な事実こそ、原発・核燃料サイクル施設の「必要・安全神話」を何よりも反証しているのではないでしょうか。本訴訟において、先ずこれらの事実認定を強く要請する次第です。
若狭の一仏教者として、この半世紀の間、若狭への原発集中化について自問自答を重ねてまいりました。約2500年前の北インドは、16大国が群雄割拠する弱肉強食の社会。『ブッダのことば』(岩波文庫)によれば、「殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。・・・わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった」と、ヒマラヤ山麓の小国、シャカ族出身のおシャカさまは出家前の状況を述懐されています。出家、修行、開悟して、ブッダ(覚者)となられたおシャカさまは、母国を守るべく非暴力の意思と行動を示されましたが、隣国の大国の侵略・ジェノサイドによって滅亡させられました。関西大都市圏の電力消費のための若狭への原発集中化を、この仏教の起源にまつわるエピソードにすら重ね合わせざるをえない私でした。他の過疎・辺境の地への原発立地、核燃サイクルのツケを強いられた六ケ所村・下北半島にも、同様の想いを禁じえません。
「どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれの自分がいとしいのである。それ故に、自分のために他人を害してはならない。」(岩波文庫『ブッダの真理のことば・感興のことば』)
ここに仏教倫理の原点、基礎があります。「自他一如、自利利他円満」という仏教の根本的な洞察にも通底するものです。かつて戦前・戦時中の「滅私奉公」に加担した仏教界の思想潮流は、いかに仏教の原点から逸脱していたことでしょう。同じ「国策」としての原発推進に、私たち仏教者がどのように対応しているのかが厳しく問われています。
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」(前掲『ブッダのことば』)というブッダの悲願にみられる通り、仏教における「自己」に対する「他者」は単なる「自分」や「他人」に限られていません。「自・他」の家族、職場、団体などの組織、地域、国、生きとし生けるものにまで及んでいるのです。そして、「すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、幸福であれ」(同)というブッダのことばは、過去に生き、未来に生きる世代をも含んでいます。あの「フクシマ」の惨劇は、仏教者にとってあまりにも赤裸々な反証でありましょう。私たちの肉体・生命(いのち)は、動植物の食物から形成され(地)、血液(水)、体温(火)、呼吸(風) などの絶妙なバランスによって保たれているにもかかわらず、いまや内なる地水火風の「四大不調」は、外なる、汚染・破壊された地水火風の「四大動乱」と呼応しているようです。原発・核燃施設の老朽・劣化だけでなく、それを推進・強行してきた巨大なシステムの劣化・腐朽化も進んでいます。
コロナ禍後の社会、生き方や暮らし方の根底に、「自利」中心の欲望追求をひかえ(「少欲知足」)、「自他一如、自利利他円満」のブッダの悲願が据えられることを望まずにはいられません。
「東京は光の海かこの村は核燃施設野の雪明り」(弘前市・山川久美子2001年2月11日「朝日新聞」全国歌壇より)
夏に二度、まだ残雪が見られた春に一度、私自身も六ケ所村を訪ねていますが、この歌を深く心に刻んでまいりました。現代都市文明の「窮極の負の遺産」を引き受けさせられた六ケ所村。その核燃施設の中でもきわめつけの超危険な再処理工場。わが若狭のすでに廃炉に追い込まれた「もんじゅ」と同じように、その運転開始を何としても阻止し、廃止へと、私たち宗教者も切実に願っています。本件訴訟がその切実な願いに向けての大きな一歩となることを信じております。
私は、代理人から日本国憲法の平和主義、基本的人権の尊重、国民主権という3つの原則の更に根底にある原理が「個人の生命、人格の尊厳」という理念であることを教えてもらいました。それは間違いなくブッダの教えと相通ずる崇高な理念と精神です。日本国憲法の基底をなす「個人の尊厳」という理念を拠り所としている我が国の司法の良心は、倫理的・宗教的な理念と最も相即し、その現実への適用においても共通するところが多いと、私たち宗教者は確信しています。貴裁判所の英明な審理と本件再処理工場の運転差し止めの判決を祈念し、期待いたしてやみません。合掌
日本キリスト者平和の会声明
憲法9条改悪・新基地建設を断念し、防衛予算・自衛隊員・軍事施設を
新型コロナウイルス感染防止・根絶対策のために投入することを求めます
新型コロナウイルスが世界に蔓延し1年を経過した今、感染力のより強い新型コロナ変種も発生し、世界は危機的な状況にあります。日本では感染者数は31万5千人、死者数は4千人を超え、世界の感染者数は9400万人、死者数は200万人を超えています(1/16現在)。
このような状況下にあって、政府・与党は国民投票法・憲法9条を早期に改正し、「戦争をする国」へと邁進することを言明しています。今、政府がなすべきことは戦争準備をすることではなく、パンデミック防止のために、全力を傾けることではないでしょうか。
聖書は次のように呼びかけています。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2章4節)と。
菅義偉内閣が決定した2021年度当初予算案の軍事費は9年連続増額され、5兆3422億円に上り、長距離巡航ミサイルや同ミサイルを搭載する戦闘機の開発・取得を推し進めようとするなど憲法に違反し、東アジア地域の軍事緊張を激化させる「敵基地攻撃」能力の保有に本格的に乗り出そうとするものです。
1月22日には核兵器禁止条約が発効します。人類破壊兵器を違法とする国際法を手にします。いかに多くの資金が軍事費に浪費され、核兵器開発に費やされてきたことでしょう。
私たちは、今が世界の国々が戦争を終結し、戦争準備をやめ、コロナ感染防止・根絶のために、武器を医療や生活の用具に代える時であると考えます。
2021年は国連の呼びかける「平和と信頼の国際年」です。各国政府は国内委員会を設立し、行動計画を作成するよう要請されています。コロナ禍という厳しい時でありますが、これはまた平和と信頼を確立し、「万事を益とする」(ローマの信徒への手紙8章28節)チャンスでもあります。
私たちの国は先の戦争を反省し、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認し」、「この崇高な理想と目的を達成することを誓い」(憲法前文)、そして戦争放棄を規定した憲法9条を制定しました。
私たちは「平和と信頼の国際年」にあたり、日本政府に対し憲法の制定過程を思い起こし、その意義を学び直し、憲法9条改悪・新基地建設を断念し、異常な軍拡路線を軍縮の方向に抜本的に転換し、コロナ禍に苦しむ国民の暮らしや営業の支援に回すこと、防衛予算・自衛隊員・軍事施設を新型コロナウイルス対策のために投入することを要請します。そして世界平和に貢献し、世界の信頼を受ける国となるよう努力し、世界の国々・人々と協力し、新型コロナウイルスの感染防止・根絶のために、全力を注ぎ働くことを求めるものです。
2021年1月17日
日本キリスト者平和の会
代表委員
板谷良彦榎本栄次宇佐美節子神﨑典子小西文江佐々木淳二橋本左内吉田吉夫
事務局長平沢功
〒338-0005さいたま市中央区桜丘1-7-8
電話・FAX 048-854-6937
「ヒバクシャ国際署名」を宗教界(主に仏教界)に広める取り組み報告=「核兵器は悪である」①
吉川徹忍(浄土真宗本願寺派僧侶)
はじめに
「私たちは自らを救うとともに、私たちの体験を通して、人類の危機を救おうという決意を誓い合った」(日本被団協「結成宣言」、1956年8月)。この「宣言」の願いは仏教の教えと響き合う。菩薩道とは自ら悟りを求めるとともに、慈悲の心で他の一切衆生をも救済しようとする利他な働きでもある。
2017年7月、核兵器の使用だけでなく「威嚇」さえも認めない「核兵器禁止条約」が122ヵ国の賛成で成立し、同年12月、採択に貢献した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」にノーベル平和賞が与えられた。受賞講演でサーロ―節子さん(13歳の時、広島で被爆)は「核兵器は必要悪ではなく、絶対悪」と語った。
連動する形で前年2016年4月、被爆者たちは2020年内に向けて、「ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」(以下「ヒバクシャ国際署名」)を始めていた。2019年10月、集めた1052万筆の署名目録は、藤森俊希氏(日本被団協事務局次長)らによって国連に届けられた。
2020年10月25日(現地時間10月24日)、ホンジュラスが50ヵ国目に批准し、核兵器禁止条約は目前の1月22日に発効の効力を生ずることとなった。この間全ての国の批准と早期発効を訴えの中心に据えた「ヒバクシャ国際署名」は、2021年1月13日(水)、最終集約1370万2345人分の署名が国連に提出された。
以下は、宗教界(主に仏教界)での「ヒバクシャ国際署名」として取り組んできた経過を報告する。署名活動にご協力いただいた全ての宗教者・教団・団体のみなさまに深くお礼を申し上げます。宗教界(主に仏教界)への働きかけ2018年11月、知人の森俊英氏(浄土宗正明寺住職、堺市)を介して、川崎哲氏(ICAN国際運営委員)と日本被団協による、「ヒバクシャ国際署名」要請で宗教界を訪問するための協力依頼を受けた。2019年1月1日、宗教団体に向けての「『ヒバクシャ国際署名』ご協力のお願い」趣旨が出来上がった。
ちなみに川崎氏は「核抑止論」に対して、「『目を覚ませ』と説得力ある形で力強く主張したのは宗教者たち」と語っている。「核兵器は絶対悪」は、「宗教ごとに表現は異なっていても、共通して訴えることが出来るテーマ」とも指摘。核兵器を巡る議論は、政治や軍事の専門家だけのものではなく、その非人道性を訴える上での宗教者の役割に期待していると述べている(『中外日報』2018・11・28)。
1回目は東京から始まった。2回目は広島で、訪問先を決めてほしいとの要望だった。東京での川崎哲氏と田中熙巳氏(日本被団協代表委員)、森氏による宗教団体訪問は、2019年2月1日。全日本仏教会(港区)、立正佼成会本部(杉並区)、浄土宗大本山増上寺などで、いずれも趣旨に賛同され好意的だったとのこと。ただ、全日仏は指示機関ではないので、各宗教・教団からの要請によって検討するとのことだった。
以後、全国で2回(広島、京都)にわたって、川崎氏、日本被団協代表、森氏と私による宗教界訪問を実施した。同時並行で、私も会員である、浄土真宗の「非戦平和を願う真宗門徒の会」(代表:石橋純誓氏)と「念仏者九条の会」(事務局長:小武正教氏)両団体へ署名運動への協力要請を行った。
▼広島の宗教界(主に仏教界)2019年2月6日宗教者平和運動で交流している立正佼成会広島教会と、広島宗教界における平和活動の代表の一人で被爆者の登世岡浩治氏(浄土真宗本願寺派安楽寺前住職)を紹介した。2019年2月6日(水)、川崎哲氏、箕牧智之氏(日本被団協理事長代行)、前田耕一郎氏(広島県被団協事務局長)、森俊英氏と私の5人で訪問し面談した。最後に森俊英氏の知人の浄土宗妙慶院を訪問した。
〇登世岡浩治氏は、15歳の時爆心地から4㌔で被爆し、6日後には最愛の弟を亡くした。「一人ひとりが生かされていることのありがたさを感じ、慈愛の心、尊敬の念を抱いて周りに接していくことが世界平和実現の一歩」として、署名活動に賛同の意を表された。本願寺広島別院や安芸教区の行事・イベントで、「ヒバクシャ国際署名」だけでなくカンパ要請を精力的に働きかけられた。自らヒバクシャ国際署名推進連絡会に3万円を寄付された。
〇立正佼成会広島教会では髙山佳士氏(渉外部長)・上田知子氏(ヒロシマ宗教協力平和センター理事長)らから温かい対応をいただいた。教会では毎年全国から800人もの子どもたちを広島に招き、被爆者体験談の聞き取りや碑めぐり・資料館見学を企画し積極的な反核ヒロシマ学習に取り組んでいることもあり、署名活動に前向きのご返事だった。2月下旬、立正佼成会本部から30万円の寄付金がヒバクシャ国際署名推進連絡会に寄せられた。
〇妙慶院では、加用雅愛氏(前住職)、雅信氏(住職)が待ち受けておられた。雅愛氏が2歳の時爆心地から1・7㌔の境内で被爆、遊んでいた数人の子どもたちは即死したとのこと。雅愛氏にはあの日の記憶はほとんどないが、「『生かされた』ことを伝えるのが、多くの犠牲者から託された使命」と考え、協力を申し出られた。(つづく)