年頭所感


代表委員 桑山源龍  静岡浜松・浄土宗栄秀寺前住職 

 歓びは我が内に 
怒りと落胆は日本政府に
 展望は全世界に 
核兵器禁止条約 1月22日に発効

 昨年8月、平年ならば戦後75五年目の夏は、広島で 長崎で、核兵器禁止条約発効へのカウントダウンが始まろうとしていたと思います。
 8月6日時点で45ヶ国が批准、原水爆禁止世界大会の席上で長年の悲願の達成を共有していましたが、新型コロナ感染拡大のためオンライン開催に。
 しかし、このうねりは、核保有国の妨害をはねのけ着実に現実味を帯びながら世界の国々を動かしていきました。ただ、世界で唯一の国…核兵器原子爆弾を投下された日本は、この条約の発議の時から背を向けたまま現在に至っています。いのちの尊厳に対峙せず、大国の傘の下に身を寄せて抑止論をふりかざす、その姿に怒りと情けなさを禁じ得ません。
 皆さん覚えていますか、2017年、この条約の採択時、国連議場内の日本の空席上に一羽の鶴の折り紙が乗っていたことを。日本の被爆者の声から生まれたこの条約を踏みにじった現実に、齢90を迎えるこの心身が怒りに震えたちました。
 毎年焼津で行う3・1ビキニデ―墓前祭、久保山愛吉さんの「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」すゞさんの「ヒバクシャとその遺族が生きているうちに、一発残らず核兵器をなくして下さい」…本年春、墓前にてこの報告ができることを心からうれしく思います。そして、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニで被災された方々、戦争により尊い命を犠牲とされた国内・全世界の方々と共に条約発効の歓びを分かち合いたいと思います。
 再度条約の成文から…「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」という国際条約です。…核兵器を『研究するな、試すな、作るな、持っておくな、譲るな、使うな、脅して使おうとするな、なくせゼロにしろ』ということです。
 2017年7月7日国連採択、2020年1024日条約批准50ヶ国達成、2021年1月22日発効!へ

被爆75年 いのちをえらびとる断食の祈りのつどい


宗藤 信江さんの証言・上

 宗藤信江と申します。最初に私の経歴も話させていただきます。
 1933(昭和8)年生まれですから、もう段々希少価値で、もうじき90歳になるかも知れないですけど、宗藤尚三という日本基督教団の牧師の妻です。それで、私の小さい時、小学校2年生のときに「大東亜戦争」が始まりました。「大東亜戦争」とは言わないんですね。何か違う言い方でいうみたいですけど、2年生の時に始まりまして、ちょうど5年生の時に集団疎開に行きました。名古屋に住んでいましたので、岡崎ってご存知でしょうか。八丁味噌ができる岡崎の近くの矢作(やはぎ)町というところに疎開しました。女の子ばっかり50人でお寺さんに行かしていただいて、そこに行ったんですけど、とにかく家に帰りたいばっかりでした。それで、名古屋にいっぱい爆弾が落ちるようになっても、死んでもいいから親のところに帰りたいというような子どもの心境でした。
 3年生の弟もいたんですけど、その弟も私よりもっと気が小さくて、病気になって途中で帰っていきました。そんな中で、やっと戦争が終わるのですけど、終わる前に、軍は内緒にしていたのですけど、大きな地震が、「三河地震」(注)が起きました。それで、50人の子どもが寝泊りするお寺さんも危ないというので、大きな「三匹の子豚」が住む藁の家がありますけど、藁の大きな家をつくってそこで子どもたちが寝起きしました。
 そのうち、それは雪が降るような冬だったんでしょうね。雪が降り出して、藁の屋根にいっぱい積もって、少し雪がやんだとおもったら今度は溶けだしてびしょびしょになって、フトンがべたべたになるから、そのフトンを頭にかついて本堂に持って行きました。痩せた小さい子どもだったんですけど、フトンをかついで、足袋もなく、靴下もなかったんですね、あの頃。素足にゲタを履いて本堂までフトンをはこんでね。そういう記憶があります。とっても寒かったという記憶があります。
 戦争が終わる間際に、母親が妊娠中で、また、他に子どもが二人。「生めよ増やせよ、子は宝」ってあの頃いったものですから、私の兄弟は7人いましてね、それでまたお母さんが大きなお腹していて、縁故疎開に行ってました。
 集団疎開のときはね、お手紙書いても、「私は元気です」って悲しいことは書いてはいけない。もうウソなんですけどね。絶対、帰りたいなどということは書いてはいけなかったんですよ。それでも、先生が見逃してくれたのか、お母さんたちが縁故疎開にいくなら私もそちらに行きたいと一文書いたらすぐ迎えに来てくれて、今の豊田市といってる方に行きました。
 そのうち、終戦になりますが、天皇陛下の「ご詔勅」ですね。あれがお昼にあるから、みんな家に帰って聞きなさいということで聞きました。そしたら、ザァーザァーと雑音がしてね、何を言っているのかよく判らないんですけど、「耐え難きを耐え忍び難きを忍び」と言ってましたね。雑音のなかからそんな声が聞こえてきました。何を言っているのか青天の霹靂という感じですね。何を言っていたの。天皇は何をおっしゃっていたのですかと言っていたら、「日本は負けたようだよ」と言ってましたね。大人の人が、いままではお米がなかったけど、これからは頼んで買ってもらいに、あんたたちの方に買ってもらいに行くようになるよって叔父さんが言ってて、はあ、そういうことがあるのか。もう想像もできないようなことを言ってましたね。
それで、その後、5年生、6年生になって、中学というのは学制が変わったんですけど、旧制の1年生になって、そして、金城学院っていうミッションスクールに入りました。
 その時に、『あたらしい憲法のはなし』という本が出ました。小さい本ですけど、それが一人ずつみんなに渡されて、それには良い事がいっぱい書いてあったんですね。
 校長先生がひと組ごとに歩いてまわってきて、天皇神話というのはもう無くなったということ。憲法の意味を話してくれました。校長先生もとてもうれしかったんだと思うんですね。ひと組ずつにまわって歩いて、そして主権在民とか、男女平等とかいうことをほんとに頭の中、うれしくね、そういうことなのかというように喜んで受け取ったものです。それが、『あたらしい憲法のはなし』という小さな本です。
 戦争放棄、不戦で平和を守るという、国民一人ひとりが納得して表明するところとなりました。その後、私は沖縄のことをとっても詳しい牧師さんがいて、沖縄に連れて行ってもらいました。そして、その頃ですね。朝鮮戦争が始まったりしていて、日本は戦争に協力したりそういうことはしないといっているのに、それをしてたんですね。沖縄にいってみたら、アメリカの飛行機の壊れたのがいっぱいあって、それを日本人が直しているんですね。そんなのを見て、憲法違反じゃないのってその頃から思いましたね。そんなこともあって、朝鮮戦争によって軍需景気で日本はすごい復興ができたように思います。同時に、学生さんたちは反戦のデモをしてました。それで、ベトナム戦争のときは、パチンコの玉のようなものが、爆弾の中からパチンコの玉のようなものが散らばってそれが人間の体にささるんだといって、みんな反戦の気持ちでしたね。それで、そんな時だけじゃなくて、今にいたるまで世界はたたかいの火は消えないという感じがしています。
 一つ私が思い出すのは、熱心な原崎さんという牧師ですけど、その方が夜ね、むこうの、沖縄の牧師さん3・4人集めて日本からいったというので話し合いにいきました。18人ぐらいの男女でしたけど、それを連れていかないで、自分ひとりだけで交渉にいかれたんです。夜になって先生が帰って来たときに足を引きずってね、すごいつらい顔をして帰ってきたんですね。「先生、どうしたの」って言ったら、みんながね、「ああ、あの先生、脱腸になっちゃった」って言うのですよ。それぐらい、沖縄に関心のある進歩的な人でさえも、沖縄の牧師と話をすると、もうすごい批判されて、それで脱腸になって帰ってくる。だいだい、そういう病気があったらしんですけど、言い負かされてね、「あたなはそれじゃあ、認識不足だ」とでも言われたんでしょうね。その先生がへとへとになって帰ってこられたんですよ。それを見て、沖縄って大変だなあと思いました。
 それが今でも続いていますよね。沖縄の人たちの犠牲の上に私たちの平和があったりね。そういうことがあの頃、今から40年、50年前の話ですよ。それからでもずっと続いています。
 私は牧師の妻ですけど、キリスト教徒になったのは、「どうしてクリスチャンになったの」と聞かれたら、不思議なことに、私は日本が開戦する原因になった真珠湾攻撃の淵田美津雄海軍大佐が名古屋に来られたんですよ。名古屋の鶴舞公園という普選記念壇(ふせんきねんだん)がある、普選記念壇というのは、芝生が綺麗に植わっている小高い山ですけど。そこにステージがあって、その山のところにみんな座って聴くんですけど、その方が、戦争の原因になった奇襲攻撃ですね。それをした淵田大佐って一番偉いんですよ。その人が戦後、クリスチャンになったんですよ。その方が名古屋に来て、話をされたんですよ。
 私はその時、別に宗教的なことで熱心でもないし、ただね、新聞部だったもんだから、一生懸命その話を学校の新聞に書こうと思って一生懸命書いていたんですよ。その間に、自分の任務も忘れて、「ああそうだ、私、イエス様の家来になろう」と思ったんですよ。それで、「志のある人は前の方に来なさい」といわれて、その時にあっという間に決意をしてクリスチャンになりました。
 それから教会学校の先生をしたり、教会のことで奉仕したりしている間に、宗藤と知り合ったのですけどね。その宗藤がどういう人だったかということが本論なんですけど、すみません。前置きが長くて。そのために、いっぱい主人の経歴を話すと長くなりますから、コロナで大変だから、宗藤尚三のこの本、『核時代における人間の責任ーヒロシマとアウシュビッツを心に刻むために』(ヨベル親書)を差し上げて、みなさんに読んでいただこうと思うんです。
 この本人は、倉田百三ってご存知ですか。『出家とその弟子』『愛と認識の出発』を書いた倉田百三の妹の子どもなんですよ。それで、その伯父さんの影響も受けて、原爆の日は大手町に住んでいました。今の高野橋の電停からちょっと入った所です。そして、2階にいて、真っ青な晴れ渡った空に飛行機が飛んでいくのを見てね、キラキラ光ながら飛んでいくのを見て、窓から首を出して見ていたそうですよ。「ああ、いっちゃった」と思って首を引っ込めたときに爆弾が来て、顔などを引っ込めたから、顔は火傷してないんです。ただ、吹き飛ばされて、階段と一緒に吹き飛ばされたものですから、手の肉が、がさっと死ぬまでこんな肉がガクッととられている。そして、体中に30何カ所ガラスの破片がささりました。お母さんと一緒に近くに日赤があったから日赤まで逃げて、そこで地面に横たわって、夕方まで意識不明だったらしいのです。お母さんがお医者さんを一人呼んできて、一本だけ注射を打ってもらったということです。
 夕方になったら、日赤が燃え出して、そこにおれなくなったから起こされて、今度は宇品の港まで他所の男の人の肩につかまって、やっとこさ歩いて宇品まで行きました。そして、そこから船に乗って似島(にのしま)に行って、そこに一週間くらい寝ていたそうです。 意識不明で、おしっこがしたくなったら時々は意識が戻るのか、トイレに歩いていったそうです。死体をまたいでいったとかね、女の人が、足首がどうにかなって、そこから下を切ったほうがいいというのを、麻酔もしないで、ギャーギャー泣くのを切っちゃってるのを耳にしたとか、大変な一週間だったらしいんですけど、何を食べたとか、人がどうしてたかといってもね、あんまり自分の体が精一杯であまり観察してません。(つづく)

戦争責任を問う②


滋賀宗平協・真宗大谷派・鈴木悛亮 

 浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺)が、宗門の約1万寺を対象に、戦争に関する調査を進めている。住職の世帯と門徒らの戦没者数や空襲被害、金属の供出、戦争協力まで、戦後75年にあたり幅広く調べる。同派による全国規模の調査は初めてという。
 同派は日本最大級の教団の一つ。協力、被害ともに戦争との関わりの全体像はわかっていない。記録や写真の提供も呼びかけ、9月にも一部の結果を公表。その後も資料収集などを続ける。
 4月21日付で「宗門寺院と戦争・平和問題」の調査票を発送した。質問は50項目。戊辰戦争から日清、日露、第1次世界大戦までの質問もあるが、1931年の満州事変以降の「昭和の戦争」に43項目を充てた。
 各寺がどう戦争と関わったのか。住職の世帯で軍に入った人がいるか、志願か徴兵か、戦没したか、布教や弔いをする従軍僧を出したか、さらに門徒の戦没者数などの人的な関わりのほか、堂宇の空襲被害、学童疎開の受け入れ、本土決戦用に軍に接収されたか、戦後に戦争孤児施設を開いたかなど、施設や拠点としての戦争との関わりも聞く。
 1940年の「紀元2600年」にあわせて記念碑などを建てたか、国家を挙げた戦争協力体制に同派も加わった過去をいま認識しているかを聞く質問もある。81年以降に同派が東京・千鳥ケ淵で続ける全戦没者追悼法要への参列、独自の追悼法要の有無など、現在の活動も尋ねている。
 同派の総合研究所(京都市下京区)に戦時調査室を設置。新型コロナウイルスの影響で作業は遅れ気味だが、全国から回答や関連資料が続々と届いている。
 同研究所の戦時被災等調査委員会委員の新田光子・龍谷大名誉教授(社会学)は「戦争体験者が少なくなるなか、歴史的、客観的な事実を記録にとどめ、継承していきたい」と話す。(編集委員・伊藤智章)の金庫にあった門徒の戦没者名簿と三浦真智さん=岐阜県北方町の西順寺、伊藤智章撮影

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 「宗門寺院と戦争・平和問題」調査につきましては、本調査開始当初から『宗報』ならびに『本願寺新報』でご報告させていただきました。寺院関係者のみなさまには、大変ご理解ご協力をいただき、ありがとうございました。このたびの郵送調査は、回答を選んでいただく質問と回答を記入していただく質問とを併用いたしておりますため、全体の集計結果の取りまとめにはかなりの時間がかかると予想しております。しかし、それではご報告も遅れることになりますので、正式な集計結果ではありませんが、あえて集計の一部を例示させていただきます。
1、郵送調査の概要
①調査対象
宗派一般寺院 10、137ヵ寺
②調査期間
2020年4月21日~2020年5月31日(回答締め切り日は5月末だったが、新型コロナウイルスの影響を考慮して6月末まで受け入れ作業を継続した)
③調査の主な目的
1.戦争にかかわる寺院の基礎的事実を把握すること。
2.戦争とのかかわりを示す歴史的資料(文書、写真、墓碑、記念碑、遺跡など)の存在・所蔵の有無について把握すること。
④返送数  3、863
(返送率38・1%)
 有効回答数 3、843
2、集計結果の例示
資料1「質問項目別、回答寺院数」
資料1は、各質問に対して、「ある」や「いる」という、肯定的な回答をいただいたものだけを集計し図示したもので「宗門寺院と戦争・平和問題」調査報告(その1)
新田光子(戦時被災等調査委員会委員戦時調査室調査担当) 宗報2020年9月号

西本願寺と戦争責任

 11月18日「朝日新聞」夕刊(大阪)、「西本願寺 戦争責任にけじめ」 全国約1万寺、門信徒約700万人。伝統仏教の最大教団、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)が動いている。9月には、宗派の最高法規「宗制」を改正。戦争協力を促した前門主の「消息(文書)」を公式に失効させ、戦争責任に明確なけじめをつけた。宗門改革は進むのか。
 同派の最高議決機関「宗会」が9月に大多数の賛成で改正した宗制は、宗門存立の根本となる教義や理念を規定した、いわば憲法。1946年の規定以来、改正は初めてだ。消息は門主が自らの考えを述べた文書で、これまでは宗祖・親鸞の教えや聖教と同等の効力があると宗制に定められていた。しかし、消息の中には、第2次世界大戦中に故大谷光照・前門主が発した「一死君国に殉ぜんは義勇の極み」など戦争協力を促すものもあった。改正によって親鸞、事実上の教団創始者の3代覚如、中興の祖である8代蓮如の3人を除く門主の消息は失効する。
 現在の門主大谷光真氏は前門主の子。記事中には「父である前門主の戦争責任を自覚し、2011年の親鸞聖人の750回大遠忌後に予想される門主継承の前に、自らの代できちんと清算したいとの強い決意がある、と宗門内ではみられている」ともあり、同じような意思を感じるある「息子」と、全く逆の意思を感じさせるある「孫」とをそれぞれ連想した。遅いと言えば遅すぎるのだが、教団自らの発意による改革である点は評価されるべきであろう。教団にはぜひ門信徒にも呼びかけていただきたい。従軍経験のある門信徒はもう残り少なくなっているだろうが、遺族が保管している資料には現代史の穴を埋める、あるいはあいまいな部分を明らかにするものが含まれていないとも限らない。戦闘詳報だって、戦後個人が隠し持っていたものが出て来たりしているのである。教団としてそうした資料の発掘、公表に努力すれば「清算」がことばだけではない、実質的なものになるだろう。

真宗教団と戦争

 浄土真宗という宗派は、恐らく江戸時代に、ほぼ戦国大名に等しい頑強な戦闘力を示した石山本願寺が、取り潰しこそ免れたものの、東本願寺と西本願寺に分かれて京都に移築された、のような事件が、一種のトラウマ、となったのでしょう。戊辰戦争の時代には、発足したばかりの薩長を中心とする新政府が「官軍」となり、これに敵対する旧幕府軍は「賊軍」となりました。
江戸時代、寺院は戸籍の管理という行政の一端を担っており、その意味で、幕府ときわめて近しい関係にありました。その幕府が倒れてしまう。その現実を前に、いわば新時代における「生存」を賭けた承認競争がはじまります。たとえば東西両本願寺では、もともと倒幕側に肩入れしてきた西本願寺は継続して新政府軍に協力し、莫大な人材や資金を提供しました。
 一方、徳川家康の寄進によって設立され、それ以降も幕府との関係が密接であり続けた東本願寺は後手に回ることになり、必死になって旧幕府との関係を断ち切り、新政府軍に協力することで、その「生存」を勝ち取ろうとします。戊辰戦争では新政府軍が勝利し、明治政府が以後、本格的な国家建設を進めていくことになります。目標としたのは西洋列強であり、対外的独立であり、近代化でした。そうした西洋化路線や、それを推し進める薩長藩閥政府への権限の集中、さらには、近代化のための改革によって特権が切り捨てられていく士族たちの間には不平が広がり1870年代、続々と不平士族の反乱が勃発していきます。(つづく)

全日本仏教会声明


核兵器禁止条約批准を受けて
―ヒロシマ・ナガサキの悲劇を繰り返さないためにー

 焼けただれた皮膚を引きずりながら、水を求めて歩く人々。
 銀行の石段に残された黒い人影。
 病院に担ぎ込まれても為す術のないほどの負傷者の数。
 おそらく誰もが写真で、映像作品で、漫画で、資料館で、見たり聞いたりしたであろうキノコ雲の下の恐ろしい現実。ヒロシマ・ナガサキから75年が過ぎた今も、人類は自らを滅ぼしうる量の核兵器を手放せずにいます。
 1996年に国際NGOが中心となって草案が起草された核兵器禁止条約は、20201024日、50の国と地域の批准という発効の要件を満たし、2021122日に発効することとなりました。核兵器の開発、保有、使用を包括的に禁止とする初めての国際条約です。草案から実に14年。核兵器の全廃に向けた世界的な動きは、新たな段階に入ったと言えます。
 本会は、これを喜ばしく思う反面、核保有国と唯一の戦争被爆国である日本が、この条約に参加していないことを憂慮しています。
 全日本仏教会は、1957年創設以来、仏陀の和の精神をもとに世界平和を願う立場から、一貫して核兵器に反対してきました。201912月には、「ヒバクシャ国際署名」の「後世の人びとが生き地獄を体験しないように、生きているうちに何としても核兵器のない世界を実現したい」という精神に賛同し、署名活動への協力を表明しました。今、核兵器禁止条約の発効が決まったことを受けて、2020918日を期限としていた署名活動は、20201231日まで延長されています。
 核兵器の違法性を問う国際社会の流れを作り出し、核兵器を開発、保有、使用させないためにも今再び署名活動への協力をお願い申しあげます。
 本会は、核兵器のない世界に向けて引き続き取り組んでまいります。

※ヒバクシャの表記は、核兵器禁止条約の前文で、ヒバクシャ(hibakusha)と記載されています。
全日本仏教会