宗教者共同声明

戦没者の遺骨が含まれている土砂を辺野古新基地建設に使わせてはなりません

2020年12月10日

 「戦没者の遺骨がまじった土砂を辺野古新基地建設に使うなんで、死者への冒瀆です」
 「戦争で亡くなった人の遺骨を、土砂と一緒に軍事基地を造るために埋め立てに使ってはならない」
 こう訴え、憤るのは、沖縄戦犠牲者の遺骨を三十八年間、収集してきた沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんです。
 沖縄戦でお亡くなりになられた方々の遺骨が収集されないまま、土砂と一緒に、辺野古新基地建設の埋め立てに使われようとしています。
 これは、防衛省がこの4月に、公有水面埋立法に基づき、設計変更を沖縄県に申請した結果、埋め立てに使う土砂の採取地として現行計画にない沖縄本島南部が追加されたためです。本島南部には、今でも多くの遺骨が残存しています。
 遺骨は死者の尊厳をあらわすものです。遺骨をないがしろにすれば、死者の尊厳を踏みにじることになるでしょう。命を尊ぶ宗教者として、これを許すことはできません。戦争で命を奪われた方々の遺骨を軍事基地建設に利用しないでください。
 戦争犠牲者への尊厳の念をもって、菅義偉首相は、ただちに沖縄本島南部地域からの土砂の採取を中止すべきです。
 今、菅義偉首相が、真っ先に優先すべきことは、遺骨の収集であり、遺骨を遺族の方々に一日も早くお返しすることです。
 物言わぬ遺骨とその魂の叫びは、「遺骨を助けてほしい」と私たちに迫っております。
 戦没者の遺骨が含まれている土砂を戦争のための基地建設に使ってはなりません。これは、戦没者を二度殺すことと同じなのです。
 私たち宗教者は、辺野古新基地建設のため、沖縄戦激戦地お土砂使用計画をただちに撤回し、沖縄戦犠牲者の遺族の方々に謝罪することを菅首相に強く求めるものであります。

呼びかけ団体(6団体)
 辺野古に新基地を造らせない島ぐるみ宗教者の会
 日本宗教者平和協議会
 基地のない沖縄をめざす宗教者の集い
 日本カトリック正義と平和協議会
 平和を実現するキリスト者ネット
 平和をつくり出す宗教者ネット

宗教者核燃裁判

真言宗・岸田 正博

 既に周知の通り、2020年3月9日、中嶌哲演師や内藤新吾師など全国の仏教・キリスト教・神道などの宗教者と信仰者合わせて211名の第1次原告団による「宗教者が核燃料リサイクル事業廃止を求める裁判」が東京地方裁判所に提訴されました。
 裁判の目的は、青森県六ヶ所村の原子力施設(再処理工場など)の運転差し止めです。被告は、日本原燃株式会社(沖縄電力を除く、全国九電力会社と日本原子力発電株式会社の出資で作られた)。 
 主な主張は、①原発、原子力法制は主権者の権利を保障する日本国憲法に違反。―幸福追及の権利、健康で文化的生活をする権利、働く権利、職業の自由、居住・移転の自由、教育を受ける権利等憲法上の権利を全て覆す。―憲法のよってたつ基盤(国民・国土)を覆し、憲法の存在を危うくする、②プルトニウムを生み出す核燃料サイクルは極めて危険性の高いものであり、技術的に無謀であること、また政策が変われば軍事転用の恐れがあること、③使用済み燃料・放射性廃棄物を後世に残すことは、宗教者、信仰者としての倫理性に極めて反すること、④燃料サイクル事業は原子力発電所などでの労働者の総被ばく量を増やし続けることになるため、この事業を廃止すること、⑤地震・津波などにより再処理工場が、事故を起こす確率が非常に高いこと、⑥一旦、再処理工場が事故を起こした場合、超大量の放射性物質が放出され、日本だけでなく世界的規模の汚染が広がり、その影響は後世に及ぶこと、⑦再処理施設の耐震基準に設定されている基準地震動が現実にそぐわず、耐震安全性に重大な欠陥があること。
 この裁判の論点は、1993年に発足した「原子力行政を問い直す宗教者の会」のー原発は憲法違反・倫理に反するーことであり、「今まさに各自の宗教・信仰が、その真価を発揮すべき時がきた。原発現地住民の、被曝労働者の、地球上のあらゆる動植物の、そしてこれから来るべき一切の子孫の生命の、怨嗟のうめき声が聞こえないか。」という宣言の実践です。 殊に1971年以来、福島第一原発の電力を使い続けてきた首都圏をはじめ全国の大都市の電力「消費者」には格別の意味があります。
第一回口頭弁論決定1217
 集会:1217()11時~
 会場:日比谷図書文化館コンベンションホール・訴状パンフ・原告登録・支援などはホームページから
www.kakunensaiban.tokyo

「戦争は罪悪である」竹中彰元


鈴木 悛亮 
 明泉寺は、民家の間を縫うような細く曲がりくねった路地の突き当たりにあります。近くには竹中半兵衛の陣屋跡も残っていて、明泉寺も半兵衛の親戚が興したという400年以上の歴史があるお寺です。山門前の石柱に「戦争は罪悪である 竹中彰元師之寺」と刻まれています。
 1931年、日本軍は中国の奉天郊外で南満州鉄道を爆破し(柳条湖事件)、中国の仕業だとして侵攻を開始した。満州事変である。その翌年には「満州国」を建国し、日本の傀儡国家とした。1937年7月7日には、盧溝橋事件が起こり、本格的な日中戦争へと突き進んでいった。明泉寺のある岩手村からも、若者たちが次々と出征して行きます。9月15日、出征兵士たちが集合した岩手小学校は、彰元さんも通っていた学校。いまも同じ場所にあります。そこから出征旗や日の丸を手にみんなで歩いて行ったようです。
 集落を抜けてしばらく進み、「灯明台」で一行は小休止を取ります。灯明台を過ぎたあたりで彰元さんは突然、大きな声で「戦争は罪悪であると同時に人類に対する敵であるから、止めたがよい」と前をゆく在郷軍人に話しかけます。ときの政府の言うままに聖戦だと信じて疑わなかった村の人たちは、さぞ驚いたことだと思います。
 二度目の発言があった場所、「不退寺」という寺。同年1010日、ここに集まった6人の地元僧侶の前で彰元さんはこう述べます。
 「此の度の事変に就て他人は如何に考へるか知らぬが自分は侵略の様に考へる。徒らに彼我の生命を奪ひ莫大な予算を使ひ人馬の命を奪うことは大乗的な立場から見ても宜しくない。戦争は最大の罪悪だ。保定や天津(いずれも中国の地名)を取ってどれだけの利益があるか。もう此処らで戦争は止めたがよかろう」(『特高外事月報』昭和1212月分 内務省警保局編より)
 2007年1019日、彰元が住職を勤めていた岐阜県の真宗大谷派明泉寺で竹中彰元師復権顕彰大会が開かれ、1937年秋に「戦争は罪悪」と主張し、禁固刑をうけた彰元にたいして、宗門が布教使資格を剥奪(はくだつ)し、僧侶身分を最下位としたことを正式に謝罪し、宗務総長が「宗派が犯した大きな過ち」という声明を発表しました。
 彰元は1867(慶応3)年岐阜県不破郡岩手村(現在は垂井町岩手)に生まれ、真宗大学(現大谷大学)を卒業。早くに父を失い若年にして、明泉寺住職を継承、その後、布教師として全国的に活躍、1934(昭和9)年からは最高布教師の任に着きます。
 岐阜地方裁判所予審(よしん)判事は、1937(昭和12)年1213日、身柄を拘束していた竹中彰元(当時71歳)に対して、陸軍刑法第2条・第99条(「戦時又ハ事変ニ際シ軍事ニ関スル造言飛語ヲ為シタル者ハ7年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス」)及び刑法55条(連続犯=数個の連続した行為で、同一の罪名に触れるものとして、岐阜地裁の公判に付した。犯罪の容疑とした「軍事ニ関スル造言飛語」とは、先に述べた二つの「発言」です。
 日中戦争開戦直後の当時の世相は、極めて好戦的であり、新聞は戦争を煽る記事で埋め尽くされた。宗教界も例外でなく、真宗大谷派をはじめ多くの宗派が侵略戦争を鼓舞していました。 こうした最中に竹中は、戦争批判を行ったのです。勇気ある言動でした。判決を受けて、戦争協力を積極的に進めていた真宗大谷派本山は、彰元を特別黜罰(ちゅっばつ)処分(免職)に処した。
(2020年1031日訪問記)

寄稿 戦争責任を問う①

滋賀宗平協・真宗大谷派・鈴木悛亮 

本願寺派戦争調査

 本願寺が発行している「宗報」3月号に、「戦後75年」の今年、戦争・平和問題への取り組みを推し進めるための「宗門寺院と戦争・平和問題」調査を開始するとありました。
 対象は全教区全寺院です。全寺院宛に調査票が送られてくるそうです。「宗門にはこれまでになく、はじめての取り組み」「他教団においても全く例がないもの」「平和構築のためには、今取り組むべき重要課題」とありました。
 こうした調査を教団として行うことは大変重要なことであると思います。戦争で西法寺の梵鐘は供出されました。当時の住職は文書にその経過を書き遺しています。戦死されたご門徒さんも少なくありません。
        *
 私は中学校の恩師やその仲間たちと一緒に、地元で活躍されている方々のお話を聞く会を月に一度開いています。
 その会の会員にある女性がいます。彼女は81歳の今でも、「下宿のおばさん」として、地元の農業高校に通う女子生徒の世話をしています。毅然(きぜん)とした態度で学生に向き合うその姿には、大人の私たちも大いに学ばされます。そんな彼女の原風景には、過酷な戦争体験があります。
 樺太(からふと)(現・サハリン)生まれの彼女は、12歳の時、父親に連れられて満州(現・中国東北部)へと渡りました。一家5人が入植したハルビン近郊の村には、樺太や北海道から新天地を求めて多くの人が移り住んでいました。しかし、その土地は満州を統治する関東軍が中国の農民から略奪したものでした。
 比較的自由な気風の青年学校で学んでいた彼女でしたが、1945(昭和20)年8月15日の日本の敗戦を境に、生活が一変します。ソ連軍の侵攻の知らせに、着の身着のままで村から逃れた一家は、何とか難民収容所にたどり着くことができました。
 けれども、逃げ遅れた人々の中には、ソ連軍や中国人に襲撃されて全滅した開拓団や、強姦(ごうかん)されて殺された女性もいました。息絶え絶えた子どもを連れてこられず置いてきた母親もいました。また、収容所にたどり着けても、そこには食糧も暖房もなく、病気も蔓延(まんえん)して、大勢の人が冬を越せずに亡くなりました。満州で生まれた彼女の幼い妹二人も命を落としました。先生やお坊さんが・・・
 彼女の一家は翌年、無事帰国することができ、水戸にある父親の実家に世話になりました。ですが、もはや生まれ故郷の樺太に帰ることはできません。長女である彼女は意を決して、一家を連れて北海道へと渡り、町から40キロ離れた山奥の開拓地に入ることになりました。
 政府による「戦後開拓」で引揚者に入植地としてあてがわれたのは、作物のとれないやせた土地が多かったのですが、その土地もご多分にもれず、開墾(かいこん)に適さない荒れた土地でした。それに加えて寒さで作物は育たず、一家は山菜を食べて飢えをしのぎました。
 開拓地で結婚した彼女は、家族を食べさせるためにどんな仕事でもしたそうです。
 けれども、懸命に開墾した土地はダムの底に沈むことが決まり、一家は十数年暮らした開拓地を離れることになりました。町に下りてきてからも彼女は懸命に働き、子どもたちを育てあげました。数年前には40年連れ添った夫に先立たれましたが、今、若い女生徒たちと暮らす彼女は、いつも元気いっぱいで年齢を感じさせません。
 そんな彼女は折に触れて、次のように語ります。
 「私の原点は満州。あのとき、無残に死んでいった人のことを考えると、こんなことは二度とあってはいけないと思う。戦争は絶対にだめ」
 そして、こうおっしゃいます。「学校の先生やお坊さんこそが〝戦争反対!〟といわなければなりません」

非戦平和こそ仏教

 『仏説無量寿経』に「兵戈無用(ひょうがむよう)」〈兵戈用(もち)ゐることなし〉(註釈版聖典73ページ)という言葉があります。
 仏さまが巡り歩く国々には、仏法のはたらきで戦争は起こらないというのです。
 このように非戦・平和こそが仏教の立場といえますが、私たちが、そのような生き方を貫くには、さまざまな困難が伴います。私も仏教徒の一人として非戦・平和の活動にささやかながら取り組んでいますが、周囲の人から批判を受けたりすると落ち込むこともしばしば。そんな頼りない私の背中を彼女の言葉は力強く押してくれたのです。
 また、平和活動に取り組む元日本軍兵士の方には、次のような言葉をいただきました。
 「ご門徒さんを大事に、ゆっくり、ゆっくりと取り組んでいきなさい。君が生きているうちに伝わらなくてもいい。次の世代につながればいいじゃないか」
 このような先輩たちに導かれつつ、その平和への想いを多くの人たちに伝えていくことが自分に課せられた役割だと、今、あらためて思っています。(本願寺新報2010年5月20日号掲載)
つづく

大阪都構想再び反対多数で、「大阪市」を守る。


 大阪市を廃止して4つの特別区に分割する、通称「大阪都構想」の住民投票が11月1日に行われ、5年前に続き二度目の否決となり、制度案は廃案となります。
大阪維新の会は、橋下知事時代に府下の公立高校の卒業式で、日の丸の掲揚とともに君が代斉唱を教員に強制しました。憲法9条を含む憲法改正には積極的で安倍前首相、管首相との連携も強く、自民党の補完勢力として、その地位を確立してきました。
 大阪宗平協では運動方針で、「大阪における、憲法違反の反動府市政のもとで、信教の自由と民主主義を守る運動に取り組みます。」と位置づけて、前回同様、大阪市を廃止して 4つの特別区に分割する、「大阪都構想」に反対の立場で取り組んできました。
 結果は既報の通り、賛成67万5829票、反対69万2996票の僅差ながら、勝利することが出来ました。今回は衆院選の小選挙区で維新から対立候補の擁立をちらつかされ、党利党略で公明党が賛成にまわる中での住民投票となりました。 
大阪宗平協のメンバーは、大阪市をよくする会の大型宣伝カーでの弁士活動や、弘法大師の命日で賑わう四天王寺山門前で、市民グループの方々とともに「都構想」反対の声を上げました。

大阪宗平協 長田 譲