学術会議の任命拒否の撤回を求めます

    2020年10月5日    日本宗教者平和協議会


 菅義偉首相は日本学術会議の推薦した新会員候補の6人の任命を拒否しました。同会議の歴史で一度もなかったこの暴挙について加藤勝信官房長官は1日の会見で「政府が責任をもって人事を行うことは当然」で「会員の人事などを通じて一定の監督権を行使するのは法律上可能だ」と正当化しました。
 任命を拒否された6人は、安倍政権が強行した安全保障関連法や特定秘密保護法、さらに沖縄辺野古新基地建設など政府方針に反対の意見を表明してきた学者であり、政府の意に沿わない見解を持つ学者を排除する暴挙は断じて容認することは出来ませんし、憲法23条が保障する「学問の自由」を侵害する極めて危険な本質を表しています。6人のなかにはキリスト教学の京都大学の芦名定道教授も含まれています。
 安倍政権は最高裁の裁判官人事や検察庁人事に介入するなど司法権の独立を侵害し、また、メディアを支配してきました。菅政権は発足早々に、常軌を逸した学問・研究の自由を侵害してきました。ことの本質は学術会議や大学などを政府の言うがままに支配したいということにあります。
 学問の自由への乱暴な介入、思想統制の動きはファッショにほかならず、絶対に許すわけにはいきません。歴史の教訓が示すとおり、真理の探究、学問の自由への介入は独裁と戦争への道であり、次には、信教の自由、政教分離原則への侵害が予測されることを忘れるわけにはいきません。
 学問の自由と日本学術会議の独立性を守るため、学問の自由を踏みにじる違法行為である菅首相の任命拒否のすみやかな撤回、自由と民主主義の回復を強く求めます。

「広島・長崎の火」上野東照宮から宝鏡寺へ


 東京の上野東照宮境内に核兵器廃絶を願って30年間灯され続けてきた「広島・長崎の火」がこのたび撤去され、来年3月に福島県楢葉町の宝鏡寺(早川篤雄住職)に移設・点火されることになりました。
 上野の森に「広島・長崎の火」を永遠に灯す会は被爆75年の節目の8月9日、都内で臨時総会を開催し、1990年に今は亡き嵯峨敞全宮司の代に火が灯されて以来30年の歩みを総括し、園活動が非核平和を求める運動の大きく貢献してきたことを確認し、宮司の代替わりなどにともない「重要文化財の前で火が燃えているのは危険」と火の移設というこの間の懸案について福島第一原発事故の避難者訴訟で原告団長を務める早川篤雄住職が快諾され、宝鏡寺に移設されることになります。
 東照宮境内のこの「広島・長崎の火」は、参拝者に訴え続け、核兵器廃絶を求める署名を集める原動力になってきました。灯す会では、核兵器禁止条約を実現するまではこの火を上野東照宮に灯し続けると固く決意して取り組んできました。
 日本宗平協もモニュメントの建設・維持に協力をよびかけてきましたが、「広島・長崎の火」は9月から移設工事が着手され、原発事故から10年を迎える来年3月11日に点火式を行う運びとなりました。火は、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ、そしてフクシマを繋ぐ「火」として引き継がれます。
 核兵器廃絶への大きな一歩となる核兵器禁止条約への批准国も44カ国となり、条約の発効に必要な50カ国まであと6カ国となりました。また、新型コロナの感染拡大に立ち向かいながら、人類が危機に立ち向かう上で被爆者の証言が被爆75年の節目の特別の意味を持っていることを確認し、「被爆者とともに、核兵器のない平和で公正な世界を―人類と地球の未来のために」をテーマに開かれた原水爆禁止2020年世界大会も大きな成功を収めました。日本政府に核兵器禁止条約に参加を迫る圧倒的な世論を築き、来春の火の移設をともに迎えましょう。
 「灯す会」の小野寺利孝理事長(弁護士)は、「移設は残念だが、今回を機に核兵器の惨禍と原発被害をつなぐモニュメントにしたい」と語っています。早川住職は、「原発事故被害の福島も広島・長崎と同じ、可能な限り未来に伝えたい」と話しています。

私の被爆体験ー被爆牧師として     

宗藤 尚三

 18歳の時被爆

 私は現在の広島大学の一年の18歳の時、原爆の中心から1・3キロの自宅の二階で被爆しました。8月6日の朝は日本晴れで、前夜の空襲警報も警戒警報も朝には解除され、皆ほっとして通勤したり作業を始めたり、運動場で体操を始めたりしています。
 しかし、私は耳慣れたB29の爆音を耳にして二階に上がり、朝日に照らされキラキラ輝きながら南の空に飛んでいく爆撃機エノラゲイを眺めていました。南の空へと見えなくなったので窓から首をひっこめた瞬間、太陽が落ちてきたような物凄い閃光の渦の中に巻き込まれ、同時に轟音と共に倒壊した家屋の下敷きになってしまいました。
 そこで体全身重傷を受け、血だらけ、泥だらけになって這い出しました。そして暫く原子雲の真下で呆然としていました。そして、一階にいて無事だった母と共に近くの日赤病院に逃れました。運悪く直撃弾にやられたと思ったからです。しかし、日赤も破壊され、そこには焼けただれて救援を求めて押し寄せて来た幽霊さながらの被爆者でごった返していました。私は出血とショックのために意識不明になり、夕方まで放射能の降る庭に倒れていました。そして裸同然だった私は病院から吹き飛ばされてきた白衣を身につけ、その後その白衣のお陰で、傷病兵扱いを受けることになりました。夕方、周囲が火災になり、私たちは追い出され、宇品まで逃げ、そこから船に乗せられて広島から4キロ離れた似島に運ばれました。そこは陸軍検疫所で多くの病棟があり、約1万5千人の被爆者が収容されましたが、そこはまさにこの世の地獄でした。
 ここで数千人の人が死亡したと言われていますが、私たちは何日も死体を跨いで往来する始末でした。次々と死んでいく死体の処理も大変で、各地から派遣された衛生兵たちは大きな穴を次々と掘って数十体ずつ投げ込み、丘の上にある防空壕の中にも押し込んでいきました。そこでは人間らしい喜怒哀楽の情をもっていては生きていけない世界でした。特に死体を処理する人たちは人間らしい感情を捨てなくては、自分自身の精神が異常になってしまうのです。精神病理学に「アパテイア」という病気がありますが、それは「人間性喪失症」と呼ばれ、原爆や過酷な戦争帰還兵のPTSDとしてよく知られています。私の唯一の治療はメスでガラスの破片20数個を切り出すことだけでした。それ以外の事は殆ど記憶が喪失しています。
 私が1・3キロの所で被爆したということは、私の知人であるABCCの医者の話では、私が3000ミリシーベルト以上の放射能を浴びているということなのですが、なぜ今日まで生かされているのかという問題について、戦後数年間、思想的にも人生論にも深く悩み、考えずにはおれませんでした。当時、私の白血球は健康体の人の十分の一である800であることが告知され、本来無菌室に入れられておかしくない状態でしたし、体中に紫斑が出、所謂原爆ぶらぶら病と呼ばれる極度の疲労感と倦怠感に悩まされていました。それだけに自分の生きる根拠と意味を真剣に問わざるを得ませんでした。
 その時、有名な宗教的文学者であった叔父倉田百三の宗教的思想に導かれ、初めて宗教の世界にめざめました。そして、キリスト教の教えに触れ、自分が生かされているのは、神が私に核のない平和な世界を創り出すための道具として働く使命を与えられているからだと信じるようになりました。そして、私は化学を専攻していた広島大学を中退し、牧師になるために東京神学大学を選ぶことになりました。それ以来、私は被爆牧師としての自覚と責任をもって聖書を学び、またそれと同じ厳粛さをもって、今日における地の塩、世の光である教会の責任について考えてきました。

私の被爆証言の原点

 私は今まで国の内外で被爆証言をして来ましたが、その原点は原爆慰霊碑の碑文にありました。そこには「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返えしませぬから」と刻まれています。これは1952年に広島大学の雑賀忠義教授が多くの原案の中から最もふさわしいものとして選び、揮毫されたものですが、これには主語がありません。そのため多くの議論がかわされてきましたが、結局この慰霊碑を建立した当事者が主語である、ということは明らかなことです。
 つまり、あの原爆の投下と炸裂は私たち日本人の犯した「過ち」が導火線となり、引き金となっているということを告白しているのです。この碑文については、太平洋戦争肯定論者や右翼の人びとによる猛烈な反対運動がありました。しかし私は、日本の軍国主義によって始められた日中戦争と太平洋戦争という無謀な戦争を開始し、アジアの侵略と植民地支配によって1200万の人々が犠牲となったこと、そして、日本軍の三光作戦という「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす」という残虐行為によって、彼らに耐えがたい苦痛を与えたという歴史的事実は消すことはできません。
 そして、敗戦が誰の目にも明らかであったにもかかわらず、一億玉砕、本土決戦を唱えて8月3日を期限として発表されたポツダム宣言の受諾を軍部の圧力によって遅延させたことにあります。それ故、私は「被爆者」というよりもあの侵略戦争に加担した「加害者」としての戦争責任の自覚をもって証言してきました。ドイツのヴァイツゼッカー大統領は敗戦40周年の記念日に「過去に目を閉ざす者は、将来に対しても盲目になる」と言いましたが、私たち日本人も過去の過ちを直視する歴史認識なしに被爆体験を語ることはできません。5月の国連でのNPT再検討会議でも外相が各国首脳の広島訪問の要請を中国が「自分を被害者に見せようとする欺瞞」として拒否したことも有名ですが、その抗議にも率直に耳を傾けなくてはなりません。
 私自身の体験としても、ドイツで被爆証言した時、ドイツに在留していた多くの韓国人が集まり、日本の軍国主義によってどのようにわれわれは苦しめられたかを叫び、私はほとんど語ることができない状態でした。
 ここで原爆詩人の栗原貞子さんの『ヒロシマというとき』という詩を読ませていただきたいと思います。(注1)
『〈ヒロシマ〉というとき 〈ああ ヒロシマ〉と やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉 〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉 〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を 壕のなかにとじこめ ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑 〈ヒロシマ〉といえば 血と炎のこだまが 返って来るのだ
〈ヒロシマ〉といえば 〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは 返ってこない(以下、略)』

 先日、世界で最も貧しい大統領と言われたウルグアイの元大統領がヒロシマにこられましたが。彼は「人間は同じ石につまずく唯一の哺乳類である」という名言を残して帰国しました。つまり、過去を忘却して同じ過ちを犯す動物であるということです。
 2008年3月、イスラエル建国60周年の国会にドイツのメルケル首相が招待され、国会で演説しました。あのユダヤ人600万人を虐殺したドイツの首相を国賓として招いて、国会で演説させるということは、ドイツがいかに誠実に過去のナチスによるユダヤ人迫害という犯罪を謝罪し、補償し、彼らと真実な和解をしているかを示しています。安倍総理が韓国や中国に招かれて、その歴史認識を演説するというようなことは、およそ想像もできないことです。
 メルケル首相はその時、このように発言しています。
 「ナチスによる犯罪というドイツの歴史の道徳的破局について、ドイツが永久に責任を認めることによってのみ、我々は人間的な未来を形作ることができます。つまり我々は過去に対して責任を持つことより、初めて人間性を持つことができるのです」と。
 安倍総理は70年談話の中で、戦争を知らない世代には責任がないのだから、二度と彼らに謝罪を求めるようなことはしないでほしい、という意味の談話を出していますが、メルケル首相がナチスの犯罪は永久にドイツ民族の責任と告白していのと比較して、いかに過去に対する認識が甘いかが明らかであると言わざるを得ません。

核抑止力という名の安全神話

 現在の国際政治や安全保障は核兵器の威嚇による抑止力によって成り立っていると言われていますが、あたかも核兵器が平和の守護神であるかのごとくに考えられています。唯一の被爆国である日本すら、アメリカの核の傘によって国の安全保障を求めています。政府は一方で核の廃絶を口にしながら、他方ではアメリカの核に依存するという矛盾のなかにあります。
 しかし、核兵器は使用しないために、ただ戦略として準備計画され、保有され、製造されているのではありません。1994年、国際司法裁判所の原爆裁判では、核兵器は非人道的兵器と認定しながら、「一国の存亡の危機に際してはその使用を違法とすることはできない」と判決しているのです。それ故、核兵器は単なる威嚇の戦略なので大丈夫という考えは単なる「安全神話」に過ぎません。聖書は人間は不完全な存在であり、果てしない欲望を追求する存在であると教えています。パウロも「欲する善はこれをなさず、欲せざる悪はこれをなす。ああ、悩める人なるかな」と嘆いています。
 核兵器が地上に存在する以上、それがいかに非人道的な兵器であると知っていても、自国の存在の危機に直面した時、自衛という大義名分の名のもとに使用されても「想定外」とは言えません。それ故、私たちは核兵器の廃絶のためには、その道がいかに困難であり、険しいものであっても、それを実現するために国際的な努力を尽くさなくてはなりませんし、人類が生き延びるために人間としての叡知を集めなくてはなりません。
むすび

 被爆71周年を迎えて、戦争を知らない世代の人たちが多数を占め、ヒロシマの出来事を昔話のように、他人事のように考えている時代になりつつあります。
 悲惨な原爆への思いも風化され、人類が破滅するかもしれないという終末的な危機感も薄れてきています。しかし、現実に私たち人類はすべて「ダモクレスの核の剣」(注2)の下に生きているのです。私たち過去の過ちを繰り返さないためにこそ平和憲法の9条で戦争放棄を宣言してきました。しかし、安倍内閣は憲法9条の精神を無視し、所謂、戦争法案に血道をあげています。戦争放棄の条文を改めて国防軍を創設する原案をだしています。かつて日本のキリスト教団も大東亜戦争を賛美し、協力し、日本軍国主義によるアジア侵略や朝鮮の植民地支配を是認してきました。その大きな過ちを心から反省し、1967年に「第二次世界大戦におけるキリスト教団の戦争責任告白」(注3)を発表しました。今日の教会は、『罪責を担う教会』として、地の塩、世の光としての使命を果たすために、私たち一人ひとりが神から何を問われているのかを真剣に考えたいものです。

(注1) 栗原貞子『ヒロシマというとき』(一九七六年三月)
『ヒロシマというとき』
〈ヒロシマ〉というとき 〈ああ ヒロシマ〉と やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉 〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉 〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を 壕のなかにとじこめ ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば 血と炎のこだまが 返って来るのだ
〈ヒロシマ〉といえば 〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは 返ってこない
アジアの国々の死者たちや無辜の民が いっせいに犯されたものの怒りを 噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば 〈ああヒロシマ〉と やさしくかえってくるためには 捨てた筈の武器を ほんとうに 捨てねばならない
 異国の基地を撤去せねばならない その日までヒロシマは 残酷と不信のにがい都市だ
 私たちは潜在する放射能に 灼かれるパリアだ
〈ヒロシマ〉といえば 〈ああヒロシマ〉と やさしいこたえが かえって来るためには
 わたしたちは わたしたちの汚れた手をきよめねばならない

(注2) 「ダモクレスの核の剣」 ― 常に身に迫る一触即発の危険な状態をいう。 シラクサの僭主ディオニュシオス一世の廷臣ダモクレスが王者の幸福をたたえたので、王がある宴席でダモクレスを王座につかせ、その頭上に毛髪一本で抜き身の剣をつるし、王者には常に危険がつきまとっていることを悟らせたというギリシアの説話にちなみ、ケネディ大統領が1961年9月25日に国連総会で行なった演説のなかでこの言葉を使い,偶発核戦争などの危険について述べたことから,特に有名になった。
 エルパラダイIAEA事務局長が2009年2月、「われわれは、いま、すべての人びとの頭上に垂れ下がっているダモクレスの核の剣を廃絶することによって、より正気な、より安全な世界を創造する新たなチャンスに恵まれている。この機会を逸してはならない」と呼びかけた。

(注3) 「日本本キリスト教団の戦争責任の告白」(1967年)
 「わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。
 まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは、教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを、今一度改めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。
わが国の政府は、そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を、国策として要請いたしました。
 明治初年の宣教開始以来、わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが、当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教会合同にふみきり、ここに教団が成立いたしました。
 わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。
 『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。
しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。
 まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。
 終戦から20年余を経過し、わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。
1967年3月26日 復活主日 
  日本基督教団総会議長  鈴木正久

敢えて「断食の祈り」に参加

小田原 本立寺住職 遠藤 教温


 小田原駅に止まる朝一番の「ひかり533」号は、6時16分に小田原を出て終着駅、広島に9時54分に到着する。ここ数年はこのひかりに乗車して『いのちをえらびとる断食の祈り』に参加してきた。翌日はヒロシマ原爆の日、自坊でも原爆犠牲者の冥福を祈り、核兵器の廃絶と世界の平和を願う鐘をたたく私自身の祈りの場でもある。
 本立寺の『平和の鐘たたき』も今では近隣の「小田原梅の里9条の会」や新日本婦人の会有志も参加して下さり、少数の檀家も加わる毎年の行事となりつつある。
 5日の16時には広島からの新幹線で帰らなければならないので忙しい。いつも皆様より一足早く帰らせていただいてきた。
 今年は引き続く新型コロナ感染の渦中にあり、「断食の祈り」が実施されるか危ぶまれたが、森事務局長を代表とする限られた人数で規模を縮小して実施するといわれ、参加した。
 一つの理由は、永年参加して太鼓を打ち、力強い唱題の祈りを捧げて来られた日蓮宗の河崎俊栄上人の思いを受け継ぎたいと思ったからである。
 河崎師は、癌が全身に転移しているという体で、沖縄はじめ焼津の墓前祭など宗平協の活動に参加され、「命ある限り平和運動を続けます」と強い決意を述べておられた。その河崎師が去る5月20日、82歳で遷化された。
 私は1965年夏、「第一回日中青年友好大交流」の宗教青年代表団でご一緒して以来、これまでたいへんお世話になった。通夜葬儀には何としても焼香させて頂きたいと思い、七尾市本延寺での式に出向いて参列焼香することができた。
 毎年の「断食の祈り」には奥様はじめ俊宏上人、檀家の方々も一緒に遠方から参加して下さり、一人で参加している自分はいつも力付けられてきた。
 あのいつも変わらない河崎師の姿が見られないのはこんなにも寂しいものか。そう、今年は天理教の矢野太一師も、聖公会の大江真道師もおられない。
 引き取り手のない7万余の犠牲者の遺骨を納める原爆供養塔に向かって、それぞれの宗教宗派の祈りは今年も続けられた。日蓮宗ただ一人参加の私も唱題と団扇太鼓に河崎師の思いを込めて。
 途中、故宗藤尚三牧師の信江夫人が祈りの場を訪れ、宗藤牧師の著書『核時代のおける人間の責任』を参加者に贈呈配付し、師の在りし日のことや師の生前の核廃絶への思いなどを語られた。
 6日の平和記念式典で広島市長は「核兵器禁止条約」への批准を日本政府に強く求めた。安倍総理はまったく触れない。発効条件の50カ国批准も間近なのに。これが世界で唯一の戦争被爆国の首相か!
 本立寺では、8月6日午前8時から平和の祈り法要の後、参加者が一人3打づつ自らの思いと願いを込めて「平和の鐘たたき」を行った。終了後、コロナ感染の中、短時間でそれぞれの思いを語り合った。ある檀家の奥さんは「こどもが小さい頃から連れてきましたが、いまでは社会人として平和への意志をきちんと示せるようになりました。年1回のことですが、この集まりにはこれからも参加したい」と語ってくれた。
 引き続き、記者会見で政府首脳に厳しく詰め寄る東京新聞の望月衣塑子記者に密着取材した社会派ドキュメント『新聞記者ドキュメント』が上映された。

9・23 久保山愛吉氏 墓前の誓いのつどい  
 誓いの言葉      

 静岡県宗教者平和懇談会 真宗大谷派 僧侶 小野 和典 


 1954年3月1日、南太平洋ビキニ環礁においてアメリカが行った水爆実験。この核実験により、マーシャル諸島の人々や多くの日本漁船が被災。焼津のマグロはえ縄漁船『第五福竜丸』23人の乗組員全員が浴びた「死の灰」、無線長の久保山愛吉さんは、被曝半年後の9月に亡くなりました。
 本日9月23日は、その愛吉さんの66回目の祥月命日、仏教で言えばまさに秋の彼岸会の真っただ中にあたります。私たち仏教者は、『彼岸』…『彼の岸』の浄土の実現を願い、この世『此岸』の現実の社会から「一切の苦しみから解放されていく平和の社会」が築かれていくことを願う時を今迎えています。毎年迎える彼岸会に久保山さんの祥月命日が重なり、『南無阿弥陀仏』と合掌する中で絶対平和の実現を期しています。
 仏教に限らず、すべての宗教者が願うことは、「“いのち”の真っ只中に生きている」という自覚です。 今こそ私たちは、愛吉さんが病床の中で世界に発信された言葉「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」と、その後、妻すずさんの苦悩の心中から発せられた言葉「ヒバクシャとその遺族が生きているうちに、一発残らず核兵器をなくして下さい」の言葉に対峙しながら、その原点に立つことを忘れてはなりません。
 お二人の言葉を現実のものにしていくには、一刻も早い核兵器の廃絶実現です。核兵器禁止条約の発効です。「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」という国際条約です。…これは、核兵器を、『研究するな、試すな、作るな、持って置くな、譲るな、使うな、脅して使おうとするな』そして、『なくせ・ゼロにしろ』ということです。これほど明確なことはありません。
 しかし、敢えて言えば、ここまで言わないとわからないかということです。そして尚、言ってもわからない自国の政府があります。私たち人間の持つ愚かさの自覚が足りないということです。核兵器禁止条約に日本が加盟することを粘り強く要求していきます。
 でも、なんといっても、採択後3年、多くの国々の人々の尽力で、批准45ヶ国、あと5ヶ国で発効です。 愛吉さん、すずさん、もう少し待って下さい、私たちができることは、もっともっと多くの人々に、もっともっと多くの国々に、本当の平和・本当の豊かさとは何かを訴えていきたいと思います。
 唯一の被爆国日本、広島・長崎・焼津・福島、九条の有る国でしなければならないことは、灯る核兵器製造・保存・使用・威嚇の動きを止めることです。核抑止論を打破することです。灯る『いくさの火種』を消すことです。
 お二人が遺された言葉の原点に立ち、私たちはこの夏、8月6日・9日・15日に自坊で多くの子どもたちと共に『平和の鐘』を撞きました。 核兵器禁止条約発効の日にまたこの鐘を撞くために、多くの皆さんと共に本日の一歩をまた大切にして進みたいと思います。
 2020年9月23
 久保山愛吉さん 66回目の祥月命日にあたり        合 掌