被爆75年 原水爆禁止2020年世界大会オンラインで開催

岡田隆法(泉福寺住職)

「被爆者とともに、核兵器のない平和で公正な世界を-人類と地球の未来のために」をテーマに、原水爆禁止2020年世界大会が、8月2日から国際会議、広島デー、長崎デーと新型コロナウィルスのパンデミックを受けオンラインで開催されました。私は日本宗平協代表として登録し、参加しました。
 国際会議の開会セッションで、世界大会運営委員の野口邦和代表が主催者報告。
 全体の日程は、8月2日の国際会議、6日の世界大会-広島デー、9日の世界大会-長崎デ-、の3回に分けて世界各国の論者が意見を表明しました。世界大会-特別集会として、8月3日〜5日、8月7日〜8日にはテーマ別に特別集会がひらかれ、Ⅰ、被爆体験の継承と普及、被爆者援護。Ⅱ、沖縄連帯・外国軍事基地撤去。Ⅲ、被爆者・枯葉剤被害者との連帯。Ⅳ、非核・平和の北東アジアと運動の役割。
 また8月6日から9日までは、平和の波行動として世界各地で草の根の多彩な共同行動が実施されました。
 オンラインの参加人数はYoutubeのサイトの再生回数から、2日の国際会議は2739+1123回、6日の世界大会ー広島デー33351+1457+3612回、9日の世界大会ー長崎デー1152+1041+2286回が確認できました。 
 普段現場の広島長崎へ参加できない方も視聴するなどこの再生回数には、集団で視聴している人の数は反映されていませんのでより多くの人が参加したことになります。また後から視聴する方も少しずつ増えていることから、場所の自由のほか、時間も自由に参加できる取組みとなっています。各地では、数十人で共同視聴が取り組まれたことと思われます。
 論者は20人を超えます、新聞各紙に報告がなされましたが。私が印象に残る4人の論者を取り上げます。
山田寿美子(広島県原爆被害者団体協議会 副理事長)
中満泉(国連事務次長 軍縮問題担当上級代表)
カルロス・ウマーニャ(核戦争防止国際医師会議IPPNW ラテンアメリカ担当副議長)
ベアトリス・フィン(核兵器廃絶国際キャンペーンーICAN事務局長)
 またこの3回の会議を直接、聞きなおすためのYoutubeサイトを掲載いたします。当日の分とは異なり、日本語翻訳で聞きやすい形の整理されたビデオをご覧いただけます。
■原水爆禁止2020年世界大会-広島デー日本語版
https://www.youtube.com/watch?v=6wK4vP6ASYQ
■原水爆禁止2020年世界大会-長崎デー日本語版
https://www.youtube.com/watch?v=-Jc4kCbbVms
■原水爆禁止2020年世界大会(オンライン)国際会議
https://www.youtube.com/watch?v=rLURJzZcgHg

山田寿美子(広島県原爆被害者団体協議会副理事長)
 1943年6月13日に爆心地から0・7kmの広島市西九軒町で生まれました。両親は乾物問屋を営み、私は4番目の末っ子として生まれました。私のすぐ上の姉とは16歳も離れており、また同居の従兄弟とも7才離れていましたので、全員が私を大切にかわいがって育ててくれていました。しかし、1945年8月6日に私の家族は一瞬にしてばらばらになってしまったのです。
 従兄弟は原爆投下前に三次へ学童疎開で難を逃れました。両親、兵役で翌々日入市の兄、姉二人と私の六人が被爆したのです。兄と二人の姉は爆心地から2・3kmの母の実家に私も一緒に疎開していました。
 姉の話は屋内にいたのに爆風で1mくらい吹き飛ばされ、頭や顔にガラスの破片が突き刺さったそうです。傷も一年くらい治らなかったと言っております。
 原爆投下日、父は加古町の県庁へ行き、母は近くの小網町に建物を壊すためにでかけました。軍の命令で拒否は出来なかったのです。両親は被爆しました。二人共屋外にいたようで母は体中に火傷を負いました。発熱も下痢もひどく8月の23日に、まだ2歳になったばかりの私をおいて無念の死を遂げました。姉2人に疎開先にミルクを置いてあるからねと、生死の縁をさまよいながら幼い私のことを非常に気にかけながら亡くなっていきました。
 父の遺骨は今もって見つかっていません。姉2人と兄が県庁を始め市内中心を探し歩いたようですが、行方不明のままです。顔の見分けのつかない火傷を負った人が沢山いました。川で溺れ死んだ人も沢山いました。家族に会えず亡くなった父のことを思うと切ない気持ちでいっぱいです。戦後、西九間町の家は焼け、兄、姉二人、従兄弟と私の5人は、実家の近くに家を借りて住むことになりました。
 しかし兄は出稼ぎでいなくなり、すぐ上の姉は翌年には結婚、一番上の姉とも戦後3、4年一緒に暮らしただけです。なぜかといいますと、一番上の姉は、重症の肺結核になり肺切除を言われるくらいだったようで、私が10歳になるまで長期の入院をしていました。7才年上の従兄弟のアルバイト代と母の実家の農業の収穫の手伝いをして野菜を分けてもらい、数ヶ月に一度、兄がお金を置いていく生活を続けていましたが、子どもだけの生活は長続きせず、二人にはそれそれ親類に引き取られることとなりました。1、2年くらいで親戚を転々とし、酷いときは1ヶ月や或いは一週間ということもありました。
 次はどこの家に引き取られるのだろうと、心が休まる日はありませんでした。 叔父、叔母達に迷惑をかけていると言う思いも強く、学校から家に帰りたくない気持ちで一杯でした。自殺を考えたことも一度や二度ではありませんでした。 9才から15才くらいまでは私の安住した生活と安らかな精神を得ることは出来ませんでした。広島の原爆孤児は2500人を超えていたと言われていますが。実態は明らかではありません。
 政府からの保証もありませんでした。政府が被爆者に対して初めて目を向けたのは、原爆投下後12年も経ってから、それもごく近距離被爆者に対してのみ医療費を補助するというものでした。被爆者は医療保障もないまま、被爆が原因だろうという病気で亡くなっていきました。 政府が入院、通院する被爆者に対して医療保障したのは1960年、原爆投下からすでに15年経過していました。家族を失った人々への償いもしていません。それは沖縄、東京大空襲をはじめとした戦争被害者も同様です。広島、長崎、東京大空襲、沖縄戦で亡くなった人は80万人にもなると言われる中で、日本国政府は今もって補償しません。
 その上、憲法九条には「戦争と武力による威嚇、亦は武力行使は永久に放棄する。陸海空軍の戦力は保持しない、国の交戦権は認めない」としている。この大切な憲法さえ変えようとしている。私達被爆者にとっては1945年8月6日、9日の原爆投下による被害で終わってはいません。原爆投下以後、75年たった今なお、被爆による影響で病気になるのではないかとずうっと不安な生活をしています。子どもや孫にも影響があるのではないかの不安もあります。核被害を一生持ち続けるのが核兵器の怖さです。いま世界は核の驚異に侵されています。
 3年前に核兵器禁止条約が国連で採択されました。条約では50カ国の批准で効力を持つとされます。今批准国は40カ国となっています。あと一歩、世界の皆さんと共に核兵器廃絶に向けた行動を行いたいと思います。

中満泉(国連事務次長 軍縮問題担当上級代表)
 本日この世界大会に又、参加することが出来、ご列席の広島と長崎の勇敢な生存者である被爆者の方々の証言を拝聴できましたことを大変光栄に思います。本日広島の壊滅から75周年を迎えるに当たり、核兵器の恐怖や核兵器のもらたす苦しみその比類なき破壊力として核兵器の全面的廃絶する必要性について、私たちが今一度考える良い機会となれば幸いです。
 そうすることが人間が受けた苦難と破壊の生き証人である被爆者の方へ心からの敬意を表すことになります。75年もの間被爆者は復興と和解の象徴として生きてこられました。被爆者の方々は当時の惨状について話されますが。その話は希望にも満ちていると思います。それは将来の世代がもっと平和で安心して暮らせるそんな世界の希望です。
 国際連合はその設立当初から核兵器の廃絶をその果たすべき使命としてきました。それには3つの主な理由があります。 まず核兵器は比類のない大きな破壊力をもっているということです。今日の核兵器は1945年の8月に使われたものよりも遥かに強力です。次に核兵器は気候変動と並び、地球上の全ての生命を脅かす2つの脅威のうちの1つです。戦争で数発の核兵器が使用されるだけで環境の徹底的な破壊を引き起こします。そして最後に核兵器の使用によって人道上の大惨事に適切に対応できる国は世界に存在しないのです。今日私は国際社会における核兵器のない社会を追求する動きが停滞しているだけではなく、後退してしまっていることを大変憂慮しています。
 この75年間特に冷戦終結後、国際社会は核兵器の使用防止や全面的廃絶の実現のために、様々な条約や協定からなる仕組みを構築してきました。私たちは核兵器の使用や実験、核兵器の拡散に反対する強固な理解を共有するようになりました。そして核兵器の大幅な削減や、安全保障政策における核兵器の低減を見てきました。
 しかしこうした歴史的な成果も、核保有国間の対立の激化とともに崩れかけています。核保有国によっては、核による絶滅に日々怯えていた頃の冷戦の暗い経験を忘れてしまったようにも見受けられます。さらに核戦争に勝者は無く、決して行われてはならないという重要な教訓でさえ振り捨ててしまったようにも見えます。そして対立、不信感、対話の欠如により世界は抑制の効かない戦略的核競争の時代に舞い戻る恐れが出てきています。
 核軍縮への共通の枠組みへ立ち戻る方法は、確かに気が遠くなるような挑戦ですが。ここで忘れてはならないのは、我々の集団的な努力による重要な成果のいくつかは、核兵器国の間の緊張が最も高いときに達成されたということです。当時世界の国々は敵対関係にあった国々も含め、政治的イシューを見出して、現在では核不拡散と核軍縮とみなされる核兵器不拡散条約などの画期的な条約の交渉をはじめました。私は今日においても国際社会はそのよな政治的イシューを見出すことが出来ると信じています。そしてその様な政治的イシューを見出すために、市民社会が果たす役割に目を向けるべきです。歴史的に見て市民社会の専門知識や政策提言活動、そして情熱が軍縮における集団的努力を勢い付けてきました。 地雷やクラスター弾などの非人道的な兵器の禁止から核実験の停止まで、様々な問題に向き合うための資源、道義心、そして原動力となってきました。市民社会は被爆者の方々と共に核兵器禁止条約の実現に拍車をかけてきました。
 彼らは多くの国が抱いていた、核軍縮が遅々とした歩みに対する不満に火を着け条約の交渉へと結びつけるのに貢献したのです。そして発効の暁にはこの条約は核軍縮体制に対する1つの柱となることでしょう。この大会に多くの著名な市民団体が出席されていますが。私はこの機会に皆様が今成されている努力を倍増し、皆様の団体の間で、国連加盟国と連携し、現在の危険な潮流を覆し、世界が核兵器廃絶という共通の道筋へと戻っていくように呼びかけます。国連は皆様の声が聞かれ、皆様の意見に耳が傾けられるよう引き続き尽力いたします。
 私達が今置かれている状況は、被爆者の方々の教訓や体験をこれまで以上に必要としています。国連は被爆者の方々の証言が継承され、出来るだけ多くの人々に、特に将来世界の平和を築く若い世代に、その声が必ず届くように常に心がける所存です。この点が重要なのは、国連の事務総長が申し上げましたとおり、世界の若者はすでに軍縮という理念の為に自分たちの力を発揮出来ることを幾度も証明してきたからです。
 この世代は数々の地球規模の問題に直面しており、核兵器の問題も含め私たち全てが今、彼らと協力して解決策を探す義務があります。多国間主義と国際協力が重要な意義を持ち続けるためには、若者の声を聞く場を作り、彼らと一緒に協力していくことが出来るかにかかっています。
 国連設立75周年の節目に、私は責任あるリーダーシップの重要な要素とは、若い人々に必要なスキルと知識を備えるだけでなく、想像力を引き出し彼らとの関わりを深めることにあると確信しています。新型コロナウィルスは世界中で猛威を奮っていますが、私たちは国際社会と一丸となって立ち上がらなければなりません。もしこのコロナウィルスが私たちに何かの教訓を与えたとするならば、それは地球規模の問題には地球規模の解決策が必要であり、私たちは全ての人間の安全保障に焦点を当てなければならないということです。
 75年というあまりにも長い間、私たちは核による絶滅の脅威という暗い影の下で生きてきました。しかし光の中に踏み出すのに遅すぎるわけではありません。被爆者の方々のためこの様な厳粛な機会に、より安全かつ安心な世界、核兵器のない世界の実現を皆で再度誓いましょう。二度と広島と長崎の惨事を繰り返さないように、ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキ。

2020年8月5日『いのちをえらびとる断食のいのり』


 日本宗平協事務局次長  荒川 徹真 
毎年開催されている、『いのちをえらびとる断食のいのり』について、新型コロナウィルス感染拡大のなかで開催すべきか否か、または開催するならばどのような形になるか宗平協で議論がもたれてきました。
 結果、安全対策に細心の注意を払って、参加者を代表者のみに制限し、時間を短縮して11時から14時の間、広島平和公園の供養塔の前で開催することになりました。
 8月5日は公園の人出も少ない中、キリスト教、天理教、日蓮宗、真宗大谷派の宗教者が参加して、祈りを捧げました。
 キリスト教の祈りでは京都宗平協の冨田成美さんが、アメリカの宗教者から預かった「平和の祈り」「原爆投下謝罪の祈り」を紹介し、お祈りをしました。
 12時から、元宗平協の代表委員、故宗藤尚三牧師の夫人、信江さんからご自身の体験、宗藤尚三師についてお話をいただきました。
以下、宗藤信江さんの話のまとめ
信江さんの小学校二年生の時に戦争が始まり、岡崎に集団疎開をする。戦争が始まる直前に、濃尾地震を体験する。終戦の放送では、何を言っているのか聞き取れなかった。
 キリスト教系の学校に入り、「新しい憲法の話」の冊子が配られる。とても嬉しかった。朝鮮戦争の時、牧師に連れられて沖縄に行った時に、日本が戦争に協力しているのを目の当たりにする。憲法違反であると思った。真珠湾攻撃を指揮し、のちに牧師になった淵田氏の話を聞き、クリスチャンになる決意をした、教師などキリスト教の活動をしている時に宗藤尚三と知り合った。
 宗藤氏は8月6日の時、広島の今の大手町の場所で窓からキラキラ飛んでいく飛行機を見た。窓から顔を引っ込めた時に爆発した。引っ込めたので顔は火傷してないが、階段と一緒に吹き飛ばされた時に腕の肉がえぐれて、死ぬまで治らなかった、身体中に三十何箇所ガラスの破片が刺さった。日赤病院で夕方まで意識不明。その後歩いて宇品港まで行き、船で似島の病院に移り治療を受けていたが、一週間ずっと動けなかった。麻酔なしでメスを使ってガラスをとり、お灸を据えて傷口を閉じた。
 旧広島大学の学生であったが、その後は二年間学校に行かなかった。その間、様々な宗教書などを読み、キリスト教に入ることを決意した。自分が生かされているのは、神様に、原爆はいけないということをいろんな人に言うために自分は生かされていると言うことにたどり着いて、精神の持ち方が変わり、牧師になることを決意した。
 生涯にわたって、核兵器の廃絶を訴えなければ、キリスト教の教え、イエス様の教えで言えばそれは許されないことだ、信仰告白と言うのは、核兵器廃絶を言うことだ、信仰のある人は核兵器廃絶と言わなければならない。非常に厳しい教え方だった。
 アメリカが持っていった原爆の記録映像を買い戻す10フィート3000円運動に関わり、その映像を持ってアメリカで原爆の実態を伝えた。
 最後は宗藤氏の、お孫さんが撮った、おばあちゃんの庭仕事のお写真を見せていただき、おじいちゃんへのメッセージを朗読していただきました。信江さんから、宗藤尚三師の本を参加者全員に送っていただきました。
 広島から2名の宗教者も参加してその後、再び各宗派のお祈りが捧げられました。コロナ禍の厳しい状況の中での開催となりましたが、宗藤尚三師の教えを受け止め、本年に相次いでなくなった宗平協代表委員の、大江真道師、河崎俊栄師、矢野太一師が参加して繋いでこられた8月5日の宗教者の祈りを実施したことは意義のあることであったと思います。

建交労の『敬朋』の墓前祭を執行して


真宗大谷派安養寺住職  林 正道

核兵器禁止条約の批准へ
 8月8日午前9時、長崎市内の墓地で建交労(全日本建設交運一般労組)の『敬朋』の墓前祭が執り行われました。例年だと原水爆禁止世界大会に参加している中央本部や全国の代表、長崎県本部の組合員も多数参加しているのだが、今年はコロナ禍のため、県本部の専従のみの参加となりました。その代わりか、全国から折り鶴が送られてきて、墓前に飾られました。
 長崎県本部の中里研哉委員長のあいさつのあと、真宗大谷派安養寺の林正道住職と宗平協の森修覚事務局長が、鐘を叩きながら、路念仏を唱えて表白。
 「本日ここに、敬朋の墓前で原爆死没者追悼の祈りにあたり、当時、何の罪もなく、何も知らされずに核兵器の犠牲となり、尊いいのちを奪われていった人々の無念さを思うとき、今を生きる私たちができることは、この過ちを二度と繰り返してはならないことです。・・・2017年の7月、核兵器禁止条約が国連で採択され、いま批准国は43カ国です。50カ国で発効されます。すべての国で批准されるよう運動を進めてまいります」。 続いて正信偈の勤行の中、参列者が焼香しました。
『敬朋』の墓の由来は…
 前県本部委員長の川崎ツタさん(今年5月26日104歳永眠)が失対事業で働き始めた1957(昭和32)年頃には、引揚者、原爆被災者、三菱3工場をレッドパージで締め出された人などが失対事業に流れ込み、県下で5000人、長崎支部で1500人余が働いていました。激しい肉体労働ができない被爆者には就職先もなく、全日自労は“救いの神”だったでしょう。失業対策事業で働く仲間の中には、多くの被爆者がいました。妻子を失った老人、1人生き残った人、戦争で夫を亡くした人、被爆者は哀れでした。1人さみしく死んでいった人もいました。生活保護費の埋葬料では弔いも出せず、長崎医大にその遺体を送りました。解剖が済んだ後は、手厚く葬ってくれるからです。そんな中で1975(昭和50)年3月、「全日自労被爆者の会」を結成。同年9月、「引取り手のない人の墓を造ってやりたい。そのために墓地を提供してほしい」と長崎市に要求書を出し、交渉しました。2年間にわたる交渉の末、1977(昭和52)年8月31日、長崎市の赤泊町に墓碑が完成しました。長崎医大に送った人の遺骨も受け取り、慰霊祭を兼ねて除幕式も行われました。
 この墓には、男性ばかり10人が眠っています。1958(昭和33)年7月4日、69歳で亡くなった松尾文吉さんから、1974(昭和49)年9月9日に亡くなった広谷哲雄さんの10人の名前が墓碑の裏に刻まれています。最高齢の松尾文吉さんは1890(明治23)年生まれで、被爆当時は55歳です。松尾さんをはじめ10人の方々は、原爆が投下されなければ、身寄りを失うこともなく、それぞれの家族と共に眠っているのに…と思うと、平和がいかに大切か考えさせられます。
 『敬朋』という墓銘碑は、当時の諸谷義武長崎市長が記しました。「仲間を敬う」という意味ですが、長崎市が発注する失業対策事業に関わった全日自労の人たちに、市長が敬意を表したとも考えられる素晴らしい墓銘碑です。長崎県本部では、この墓碑が建立された経緯を示す説明版を2010年に設置しました。
墓前祭の復活へ
 中里賢哉さんが1977年、建交労長崎県本部の委員長になった時、前県本部委員長の川崎ツタさんから墓の引き継ぎを依頼されていましたが、建交労の林正道元中央執行委員を退任して、真宗大谷派安養寺の住職をしていることがわかり、2003年8月8日、『敬朋』の墓前祭が復活させました。原水爆禁止世界大会に参加した全国からの代表や地元の組合員も多数参列し、坂田晋作中央執行委員長は、「核兵器の廃絶と戦争をさせない取組みを強める」と決意を述べました。林正道住職と日本宗平協の石川勇吉事務局長(当時)が読経する中、参列者は次々に焼香し、核兵器をなくそうと決意を固めあいました。この後も毎年、『敬朋』の墓前祭は取りくまれ、林正道住職と宗平協の森事務局長が墓前で読経しています。
 今年は墓前祭が終了後、全国から送られてきた折り鶴を、みんなで爆心地公園に収めました。

長崎原爆殉難者慰霊式典と『非核非戦』の法要


 8月8日午後7時から爆心地公園で第48回原爆殉難者慰霊式典が長崎県宗教者懇話会主催で開催されました。
 今回は新型コロナウイルス禍の中、参加者を絞って、役員中心の参加でした。
 まず初めにお清めの儀が日本聖公会長崎聖三一教会司祭柴本孝雄さん、献水の儀を金光教長崎教会教会長の大淵光一郎さんが執り行い、慰霊の言葉をカトリック長崎大司教区大司教の?髙見三明さんが述べました。
 8月9日午後1時30分から真宗大谷派・東本願寺長崎教会で「非核非戦」の法要勤行が行われました。
 この7月から真宗大谷派では九州の7つの教区を合わせて九州教区に改編しました。非核非戦法要は九州教区主催として行われました。
 あわせて、教会の入り口の石柱に「原子爆弾災死者収骨所」の標柱の除幕式が行われました。
 その後、非核非戦の碑の前で勤行、その後本堂で表白、阿弥陀経、正信偈の法要が勤まりました。
 講演は森田浩光氏(長崎平和推進協議会継承部会員)が10歳の時、爆心地から1・8㎞の自宅の玄関前で被爆し一命を取りとめた。被爆後に見た多くの遺体の行方を、13年前の被爆遺構を巡るツアーでこの非核非戦の碑を知り、以後、その認知を市民に伝える活動している経験を話しました。
 非核非戦の碑の下には、ここに1万体とも2万体とも推定されるお骨が収納されています。このおびただしいお骨は1945年8月9日、米軍が投下した原子爆弾の直撃を受けて亡くなった身元との分からない方々の遺骨です。


慰霊の言葉
カトリック長崎大司教区 大司教 髙見三明
 あの暑い夏の日、長崎が一瞬のうちに地獄と化した日から75年になります。75年前の89日午前112分、この浦上の500メートル上空で人間が人間を殺すために投下した一発の原子爆弾が炸裂し、瞬く間に町を破壊するだけでなく、数万人のいのちを消滅させ、数万人の人々の体と心を深く傷つけ、生活の過去も現在も未来も奪ってしまいました。
 長崎県宗教者懇話会会員一同は、長崎のみならず、日本と世界の平和を愛する人々と共に、今ここに謹んで哀悼のまことをおささげし、永遠の安らぎをお祈り申し上げます。
残念ながら、今なお世界各地で戦禍は絶えません。武力紛争があり、武力衝突はなくても各国は自国の利益を優先して対立し、貧しい人々や弱い人々は正当に生きる権利を認められず、自分の欲望にまかせて生きている人たちが少なくありません。これは平和でしょうか。
 今生きているわたしたちは、今もこれからも平和をつくる努力を続けなければなりません。そのためにはつねに武力ではなく人間同士の尊敬と信頼の関係を築かなければなりません。同時に、わたしたちは、目に見えない新型コロナウイルスに右往左往するような弱い人間であることを自覚しつつ、だからこそ、どんなことがあっても、どんな理由があっても、戦争をくり返さないと固く決意をしこの決意を、原爆と戦争の犠牲となられた方々のみ前に謹んでおささげいたします。


浄土真宗本願寺派の戦争責任
三浦 真智(岐阜県宗教者平和の会)
浄土真宗本願寺派の戦争調査
 朝日新聞名古屋本社版(その後、各本社版と朝日新聞デジタルにも)6月10日付社会面に「寺 語り継ぐ戦争の記録」「西本願寺 全国1万寺を初調査」「父残した戦没者名簿 岐阜に」と題して私の顔写真もある大きな記事が掲載されました。その経緯と今後の課題について述べます。
 浄土真宗本願寺派(西本願寺―通称、お西)では、実践運動推進重点プロジェクトのひとつとして平和問題については総合研究所を中心にして行ってきました。その中で2015年末には「平和に関する論点整理」を行い、その中にある沖縄問題については映画『ドキュメンタリー沖縄戦』を制作して平和学習のための映画上映会を進めつつあります。完成したDVDは各教区に配布されましたので、昨秋には西順寺で試写会を行いました。この映画については、できれば自主上映会を実現したいと思いますが、小劇場映画館での全国上映も始まりました。
 もう一つの取り組みとして、この記事にある「宗門寺院と戦争・平和問題」のアンケート調査票が全国の全寺院に今年の3月に郵送されて、5月末が回答期限でした。この調査票が送られてきた時には、戊辰戦争・西南戦争から現在の平和問題に至るまでの調査項目があり、そんな昔のことはわからないし、せいぜい現在の平和問題への取り組みしか回答できないのではないかと私自身は思いましたし、ネットでの知り合いもなぜ今なのか、戦後75年も経つのに十分な調査にならないのではないかという反応でした。調査項目は寺院と戦争との関りの詳細についてで、戦死者や空襲などの被害だけでなく、海外布教や戦争協力についての回答も必要でした。戦後49年(50回忌)の時には、まだ生存されていた戦争体験者の証言も可能でしたし、岐阜教区基幹運動推進委員会『〝伝えていきたい いのちの尊さを″戦時下の岐阜教区資料』がまとめられています。
西順寺の戦争調査
 私自身にはもちろん戦争体験はありませんが、先代の住職であった父(1920年~2010年)や坊守であった母(1920年~2020年)から戦前・戦中・戦後の体験は不十分であれ聞いていました。ですから、この調査票にある程度記入することはできました。例えば、梵鐘の供出と再鋳の経過については、鐘楼を新築した際に父が詳しい説明盤を作成していることから明らかでした。祖父が梵鐘の供出を積極的に呼びかけたことも聞いています。(ちなみに、岐阜市東島の養教寺の梵鐘は歴史があるからと当時の住職が供出を拒否して、現存しています)
 問題は十五年戦争の戦病死者数でした。西順寺の僧侶・寺族については、父が海軍予備学生1期(学徒出陣は海軍予備学生3期)で終戦時は江田島海軍兵学校の教官であり戦後に公職追放も受けていたこと、叔父が陸軍飛行兵としてインパール作戦に従事してビルマ沖海上で戦死したことはわかっていました。しかし、門徒の戦病死者数となると『過去帳』から拾い出して数えるのは難しいと思っていたところ(正直、そこまで行おうとは思わなかった)、『過去帳』を保存している金庫の中に『戦病死者名簿(日露戦争~太平洋戦争)』があることがわかり、知り合いに尋ねても西別院東隣の舩橋願成寺に『過去帳』から抜き出した『戦没者名簿(日露戦争~大東亜戦争)』があるだけで、他の寺院では『過去帳』をみるしかないことが判明しました。(ちなみに、東別院南の上宮寺の『過去帳』に朝鮮人・中国人の名前があり、鶯谷トンネルの防空壕掘削工事に従事した死亡者と推測されることがわかりました)
 そこで、これは重要な史料であるということで、以前から戦争体験者の情報を求めていた朝日新聞の伊藤智章記者に連絡すると直ぐに取材にきました。同和問題から『過去帳』閲覧は住職の他は禁止されていて、この名簿も『過去帳』に準ずるということになると直接に閲覧してもらう訳にはいかないので、私が閲覧して気がついた点をインタビューするという形をとりました。表紙の写真は大丈夫だろうということで、新聞に掲載されました。掲載された表紙は戦時教学そのままの「殉国英魂名簿」と題されていて祖父の筆であると推測しました。中表紙はガリ版刷りの「門信徒戦病死者各字別一覧表」と書かれていて父の筆跡です。中の調査個票も父の筆跡で、実際に作成したのは社会科教員の父であったと思います。一覧表の記載項目は『過去帳』の抜き出しになっていますが、昭和27年8月1日調「門信徒戦病死者調書」(日露戦争~太平洋戦争)の個票の項目は、現住所、遺族名&戦死者との続柄、戦死者氏名&生年月日)、戦死年月日&年齢、戦病死地、位階功勲、法名、となっています。
 紙数の関係で、特徴的な院号法名だけを抜き出すと「殉邦院釋賢勝、遠征院釋忠臣、清忠院釋英之、忠潤院釋雄清、義建院釋利剣、至誠院釋忠宣、盡忠院釋義仁、忠順院釋義誠、忠誠院釋義潮、剛勝院釋忠卓、和忠院釋勇節、成忠院釋勇紂、殉邦院釋義仁、盡忠院釋勇立、甚忠院釋勇懌、慧忠院釋勇堕、渓忠院釋勇晌、昭忠院釋勇鮮、殉邦院釋忠建、義忠院釋殉邦、義順院釋忠達、國勝院釋義徳、湛忠院釋秀勇、義殉院釋忠昭」とあって、忠や義や殉などが多いです。これまで宗門の積極的な戦争加担であるとして問題にされてきた軍人院号だけでなく、住職の積極的な戦争加担を示す法名が多いことがわかります。院号は住職が申請して門主から下附されますから、門主はもちろん住職にも戦争責任があります。
戦争調査の今後
 浄土真宗本願寺派の戦争調査は郵送でのアンケート調査であり、本来は聞き取り調査も実施しないと数字だけのとりまとめになる可能性があります。実施期間がちょうど新型コロナウィルス感染拡大の時期と重なって、結果の公表がどうなるかは不明です。調査票だけでなく、関連史料がかなり送られてきているということですから、それらの史料も生かした拙速ではない調査結果のとりまとめを望みたいと思います。今回のアンケート調査では、宗門をあげて侵略戦争を推進した加害の戦争責任を明らかにするということについては不十分です。改めて『過去帳』調査を行うことで戦争責任を明らかにしていくことが必要です。

「私の願い、訴え」

富山市・妙福寺住職  藤井 慶

 新型コロナウイルスの影響は想像以上だった。観光、宿泊、輸送、飲食、医療、教育、文化、芸術、スポーツをはじめとして、仏教界にも。参詣者減少、法座中止、人生最後のお別れ儀式である葬儀は、家族葬に。法要は家族のみの有り様だった。「普通、当たり前」の有難味をつくづく思い知らされた。
 日本はコロナ患者数、死者数は、欧米より少ないと、首相は胸をはるが、戦前から文明度低しと見下げてきたアジア諸国の方が断然少ないのはどうしてなのか。中国には抜かれたが、世界で上位の経済大国と政府は宣伝してきた。しかし、労働者の約40%が非正規で、休業、解雇となると、明日食べる米もない、家賃や光熱費も払えない、と悲鳴が上がる。底の浅い経済小国だったことが暴露された。
「アベノミクス」とは何だったのか 

 三本の矢、新三本の矢はどこへ飛んで行ったのか。庶民は蜜がしたたり落ちるのを待望していたが、格差拡大、弱肉強食のカムフラージュだったのか。一言半句の言い訳もないのはおかしい。文化と芸術だけは断固護る、とのドイツ政府の態度は頼もしく称賛に値する。経済の厚みに敬意を表したい。
 一人10万円をすぐ支給せぬと選挙に敗北する、との平素おとなしい相棒公明党からの直言によって方針転換を図ったものの、「アベノマスク」配布と同様のノロサに国民は怒り、うんざりした。既に保守系の人達から、安倍さんは限界に達した、との発言が日増しにふえている。6月12日号の『週刊朝日』で、田中真紀子氏曰く、「安倍内閣は政治への信用をこの7年間で失墜させた。殊に、森友、加計、桜を見る会、河合夫妻、そして今回の検察庁法の問題で、首相の座にある政治家の薄っぺらさが国民に完全に見透かされた」と。そこへコロナ対策の不手際が重なり、バタバタと飛び回るだけで外交上の成果も乏しく、安倍さんはここまでの人とサジを投げたのであろう。
海の向こうの米国ではどうか
与党共和党の大物ブッシュ元大統領、パウエル元統合参謀議長などがバイデン候補に投票すると明言。エスパー国防長官は、「デモ鎮圧に米軍投入も辞さず、との大統領声明を支持せず」と、6月3日発表した。
 トランプ大統領は、「アメリカ・ファースト」を掲げ、諸外国や国連とのトラブルを頻発させ、強気の言動をするが成果は上がらず、コロナでは初動対策を誤り、世界一の感染大国にしてしまった。コロナ患者、死者が黒人に偏在していることを怒り、平素の人種差別発言への不満が爆発し、米国のみならず世界のあちこちで人種差別反対の気運、運動をまき起こした。
 5月25日、ジョージ・フロイドさん(46歳)の死は痛ましかった。偽20ドル紙幣使用の密告が警察に入り逮捕され、逃げぬように片膝で首を押さえられ、「息ができない」と訴えても無視され、8分46秒後に窒息死する。デモ隊の怒りに油を注ぐ格好になり、「黒人の命は大事だぞ」「黒人の命は20ドルか」とのスローガンが叫ばれ、連日のデモに発展した。欧州にも飛び火し、奴隷商人や差別者の銅像が引き倒される。そんな銅像が建立され、維持管理されてきたことは、私には驚きであった。今や、それは間違っていたとする世論が圧勝し、銅像が川へ投げ込まれる。世論の力はすごい。
世界の反核世論の厚さ
 核兵器を保有していても、核戦争にはなかなか踏み切れない。自国、他国、世界の反核世論の壁が厚いからである。そもそも地球が壊れかかっているのに、紛争や対立の解消手段として、戦争という命と人権を無視した暴力沙汰は認められない。紛争は、冷静で根気強い外交交渉で解決せねば。人類史、第1次、第2次世界大戦、戦後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争などから、改めて教訓を引き出さねば。各宗派の宗祖の平和、平等の思想に立ち返らねばならない。
真逆の姿・人種差別
 ボルトン前補佐官の暴露本が出版された。トランプ支持者には打撃だったが、決定打にはなっていない。なぜか。25年後には米国は人口比で、有色人種が白色人種より多数派になる、と言われている。「そいつはたまらない」という危機感が白色人種には厳存している。トランプ氏はそこに目をつけ、依り処にして、従来の大統領たちとは違った大胆で粗野な言動、施策に打ってでる。支持者受けをねらってのことであり、再選への布石である。
 400年前、アフリカ西海岸から、拉致されたアフリカ人たちが米大陸に輸送され、酷使、虐待される。黒人たちへの非道な取り扱いが社会的に黙認され、21世紀まで続いてきた。白人警官はめったなことでは免職にならず、裁判では無罪か、起訴もされないことを知っているから、平然と黒人に暴行を加えたり、殺したりする。被害者はたまったものではない。自由と民主主義の憲法とは真逆の姿がそこにあるからである。
 1865年のリンカーンによる奴隷解放宣言から100年後に、公民権運動を盛り上げたキング牧師が夢みた国に、一日も早く米国が成長することを、私は願ってやまない。
 デモが行われたワシントンンの通りの一部を「ブラック・ライブズ・マター」広場に改称するとワシントン市長は6月5日発表した。今、白人青年たちの人種差別反対デモへの参加が漸増傾向にあるという。自由、平等、民主、人権、平和、経済格差是正、人種差別反対のグローバルな世論は、紆余曲折はあろうとも、底流は不変であり勢いを増そう。
独裁者安倍晋三の憲法9条改悪許すな
 安倍首相は折にふれ、憲法改正を唱え、論議を始めようと呼びかける。議論拒否の部分だけを切り取ると、野党は狭量だなの印象をもつが、首相には「特定秘密保護法」(2013年12月)、「テロ等準備罪(共謀罪)法」(2017年6月)などの強行採決の「前科」がある。しかも、「国民への説明が不充分だったので騒ぎを起こしてしまった。反省している」と、しおらしい態度を見せながら、次回には、またもや強行採決に及ぶという独裁者的側面があるので、野党には「だまされてたまるか」の警戒心がある。当然のことである。国民投票法では、電波利用は与野党同一条件と野党は提唱しているが、与党は言論の自由を楯にとり無制限を譲らない。もし与党案を呑んだとすると、国民に影響力のある芸能人、タレント、スポーツ選手、評論家、学者、企業人などを豊富な資金力で総動員し、改憲へ誘導するのは目に見えている。
 憲法を学習していない、あるいは仕事にくたびれ果てて学習の時間に恵まれない国民が、ふりまかれる甘言や幻想にとびつくと、後で後悔する。自衛隊の存在を憲法に明記しても、どうということはないように見えるが、「後で成立した法律は、それまでの法律よりも優位に扱われる」という法律の世界のルールにより、「九条」の影が薄くなる。日米安保条約のもと、自衛隊は現在の「防衛のための実力組織」から脱皮し、防衛と攻撃の堂々とした軍隊として海外派兵が可能になる。野党側が討論のテーブルにつこうとしない警戒心はうなずける。
 今、人類は気候変動、地震、津波、洪水、干ばつ、食糧難、ウイルスなどへの対処に迫られている。人類は生存のための科学研究と施策の実行に精を出し、壮大なロマン追及には宇宙科学研究に傾注すればよい。それらは皆、諸国家の連携のもとで、世界平和の上に立って、と93歳の老僧は心から願い、訴える。  (7月18日記)

広島、長崎の平和の祈り行脚

日本宗平協事務局長  森 修覚

 被爆75年の節目の年、新型コロナウイルス感染の拡大の中、広島、長崎訪問に多くの人からご心配をいただきました。次の節目の80年には行けるかどうかの年齢と思い決断。
 しかし、出発の飛行機が欠航と連絡あり、諦めようか迷いましたが、再度チケットを変更し、2日夕方広島へ向かいました。
 3日はこれまで灯ろう流しで原爆犠牲者追悼の祈りをご一緒頂いた広島の宗教者を訪ねました。
 江田島の能美町にある勝善寺(法林英俊住職)を訪問し参拝しました。残念ながら住職は坊守様の実家へお出かけで留守でしたが、副住職さんにお会いしました。
 広島市内から広島港、能美中町行きのフェリーで約30分、タクシーで10分で到着。毎年広島市内の灯ろう流しの追悼法要に長い時間をかけて参加いただいていることに感謝します。
 帰りに南区皆実町にある広島宗平協の共同代表の法光寺(築田哲雄住職)を訪問参拝しました。宿に戻り、ステイホームで過ごしました。
 4日は、2020年原水爆禁止国民平和大行進の各コースが資料館前の噴水広場の集結集会に参加しました。
 集会後には、全国の自治体の首長、議会議長、全国各地から届いた「核兵器禁止条約早期発効」「核兵器廃絶」の思いが込められたペナント1万1千枚を掲げ「核兵器なくそう」と唱和しました。
 午後は本願寺派広島別院を訪問参拝。
 5日は特別集会「被爆75年・被爆体験の継承と普及、被爆者援護」がオンラインで開かれ、広島被団協の事務所で参加しました。
 国の援護対象外とされた地域の84人の原告全員を被爆者と認めた「黒い雨」訴訟の広島地裁判決(7月29日)について目の前の原告の一人で訴訟を支援する会の高東征二事務局長が発言。「黒い雨」を浴びて多く病気で苦しんできたと告発し「国に内部被ばくを認めさせ(援護のための)予算を組まそう」と訴えました。
 国に控訴させず確定させるため8月12日の期限まで厚労省や政府に働きかけようと呼びかけました。
 しかし、国は被爆者を踏みにじる控訴を8月12日広島高裁に行いました。
 集会の途中から「いのちをえらびとる断食のいのり」に参加しました。(7ページ参照)
 6日は平和の波行動が呼びかけられた広島原爆投下の8時15分、宗教者は鐘を鳴らそうと宗平協が呼びかけました。私と林正道安養寺住職は、原爆供養塔で広島市の式典にならされる鐘の音に合わせ鈴を鳴らしました。
 6日夕方、例年ですとヒロシマデー最後の灯ろう流しが行われ、原爆犠牲者追悼の祈りを行っていました。今年は新型コロナウイルス禍で中止となりました。広島市主催の灯ろう流しは規模縮小で代表が20基の灯ろうを流しました。
 毎年イギリスの宗教者団体から送られたろうそくに火をともし、原爆ドームの見える河原で路念仏の鈴()を鳴らし、追悼の意を表しました。
 広島市平和記念式典で安倍首相の挨拶は核兵器禁止条約の言葉もなく、被爆者にも寄り添わない内容。被爆者との懇談会でも「黒い雨」にも応えない。あなたはどこの首相か疑いたいと怒りを広島県被団協の佐久間邦彦理事長が事務所に戻り述べました。
 広島で宿泊した旅館では、私が貸し切りのような状態で、いつも8月5日の泊りは、地方からの児童たち、海外からの宿泊者で一杯でした。今年は数人のみでした。来年の予約をしましたが、主人は「来年旅館があるかどうか?」と言っていました。その後長崎へ移動しました。
 長崎駅に着いたとたん、駅が高架になっていたのに驚きました。
 長崎の平和の祈り行脚には、大分・宇佐市の安養寺住職の林正道さんが同行してくださいました。
 8日の朝は建交労長崎県本部の「敬朋墓前祭」で林さんと読経。(本誌5ページ参照)夜は爆心地公園で開かれた第48回原爆殉難者慰霊式典に参列。(本誌10ページ参照)
 9日は長崎市平和式典が行われた近くの爆心地公園で原爆投下の11時2分から会場に流れる鐘の音に合わせ、路念仏の鈴()を鳴らしました。
 午後から真宗大谷派本願寺長崎教会で開かれた「非核非戦法要」に参列。
この日、原子爆弾災死者収骨所と命名、除幕式も行われました。
 広島、長崎の平和の祈りの行脚で無事帰京することができました。
 新型コロナウイルス禍の中、現地での集会、行事が中止や規模縮小の中で実施されました。この間に核兵器禁止条約批准国が出発時40カ国が44カ国と条約発効まであと6カ国となった。被爆75年には発効へ実現したいとの思いで一杯です。10月の国連総会までには50カ国を超えるのではないか期待したい。