原発避難者訴訟仙台高裁判決

東電の津波対策先送り断罪

ふるさと喪失独立して認める市民団体申し入れ無視を批判


 福島第一原発事故で避難指示が出された福島県浜通りの楢葉町、浪江町、大熊町、双葉町、富岡町などの住民216人が東電に約18億6千万円損害賠償を求めた福島原発避難者訴訟(早川篤雄原告団長)の控訴審判決が3月12日、仙台高裁(小林久起裁判長)であった。
 判決は一審・福島地裁・いわき支部判決を約1億5千万円上積みし総額約7億3千万円の支払いを命じた。
 東電に対して津波対策の工事を「先送りしてきた」と断罪した。一連の集団訴訟では高裁判決は初めてである。
 一審福島地裁いわき支部判決(18年3月)は、住み慣れた土地での暮らしや人間関係などを奪われた「ふるさと喪失」の慰謝料と合算して算出していたが、今回はふるさと喪失慰謝料を独立して認めた。
 原告は立ち入り制限の避難指示区域などの住民が多く、早期結論を得るため、国を被告にしていない。
 判決は東電に対し、2002年7月に国の地震調査研究本部によって公表された地震予測「長期評価」の信頼性が認められるとした上で、津波試算がなされた08年4月ごろには試算程度の津波が到来し浸水により原子炉の安全にかかわる機器系が機能を喪失する可能性認識していたと認定した。
 会わせて判決は、早川篤雄原告団長が代表を務める市民団体からも繰り返し津波に対する抜本対策を求める申し入れをなされているにもかかわらず、具体的な対策工事の計画または実施を先送りにしてきたことを指摘。
「これを被害者の立場から率直に見れば、このような被告の対応の不十分さは、誠に痛恨の極みと言わざる得ず、その意味で慰謝料の算入に当たっての重要な考慮事情とされるべきものである」と判断を示した。市民団体の声を聞くべきだという、これまでの裁判ではない言及があった。

判決要旨の市民団体とは

 判決要旨にある「市民団体からも繰り返し津波に対する抜本対策を求める申し入れ」とあるのは原発問題住民運動全国連絡センター(伊東達也筆頭代表委員)と原発の安全性を求める福島連絡会(早川篤雄代表。現原発問題福島県民連絡会)の申し入れのことです。

『正義が通ったと』感激!涙!
早川篤雄原告団長
判決後、早川篤雄原告団長(楢葉町浄土宗宝鏡寺住職)「『正義が通った』と感激し震える思い出で決を聞いていました。想像以上の判決です。人間の良識を信じて訴えてきたことが報われました」と涙を滲ませました。


仙台高裁が「判決要旨」市民団体の申し入れに言及した部分

「被告(東電のこと)は遅くとも平成20年の4月頃には、福島第一原発において、平成20年津波試算における想定津波と同程度の津波が到来し、浸水により電源設備が機能を喪失して原子炉の安全停止に掛かる機器が喪失可能性があることを認識しており、市民団体から繰り返し津波に対する抜本的対策を求める申し入れがされていたにも関わらず、平成20年津波試算が確立した知見に基づくものでないことなどを理由に、本件事故までの間、具体的な対策工事を計画または実施するに至っていなかった。被告が原子力発電所の安全確保に重大な責任を負い、その安全性についての地域住民の信頼の上に福島第一原発をこの地に立地してきたにもかかわらず、平成20年津波試算が確立した知見に基づくものではないこと等を理由に具体的な対策工事の計画又は実施を先送りしてきた中で、本件地震及び本件津波が発生し、本件事故に至ったという経緯を被害者の立場から率直に見れば、このような被告の対応の不十分さは誠に遺憾の極みと言わざるを得ず、その意味で慰謝料の参入にあたっての重要な考慮事情とされるべきものである」

公開講演会=京都宗教者平和協議会で

日本仏教の歴史と「戦争」―憲法9条は仏の願い― ➄

山崎龍明師武蔵野大学名誉教授


トランプ大統領と安倍総理の思惑

そこで、私は最後にこの文章を申し上げます。これは先週号ですか、仏教者が軍備増強に走る国家に発言もせず、核兵器廃絶運動にも眼をつぶっています。
 戦争国家を志向する米大統領、その手先となっている安倍首相。米国からF35ステルス戦闘機105機、1機116億円を追加購入の兵器爆買い。トランプ氏に取り入っている、いじましい安倍さん。 仏陀は兵戈無用と説きました。軍事や兵器のその先に何があるのでしょうか。大統領とゴルフに現を抜かし、これはさっき申しまた。五回目のゴルフです(笑)。その足で大相撲見物、夜は高級居酒屋店で宴会。首脳会談1回だけ。共同声明はなし。来月も会談するという。
 貿易摩擦が喧伝される中、過度なもてなしで機嫌を取るあざとい手法。二人とも次の選挙、参議院選挙と大統領の中間選挙しか頭にありません。安倍さんは過度なもてなしで貿易交渉を選挙後まで延ばしてもらい、トランプ氏はロシア疑惑から逃れるために、逃避行訪日。安倍政治7年で、どれだけの血税が空費されたのでしょうか。莫大なものです。皇室、ゴルフ、相撲を、参議院選のために利用した安倍さん。何のためにトランプさんは来たのか? これが国民大多数の声です。

安倍総理には消化不良を感じる

 私は、昨日妻から、「お父さん、ご飯食べるときは安倍さんの話は止めよう」と言われました(笑)。彼女も燃えるほうですが、しかし、テレビを見ていると、ついそうなってしまいます。やはり少々旨くありませんね。僕は嫌いなものは何もありませんが、安倍さんのこと考えると、何か消化不良みたいになってしまいます(笑)。安倍さんが辞めないと僕は長生きできないかなと、ほんとうにそう思うほど、この国は深刻なところに来ています。僕は憤っているのではありません。普通の人間だと思いますが、あまりにも政治が酷いのです。

高校での教員

 僕は昔、先生が急に辞められたので、28才の時に武蔵野女子学院高等学校の宗教科の教員として赴任しました。嬉しかったですね! 1200人も全部女の子ですから。もう、挨拶のときはあがってしまいました。そのころはネクタイなど毎日取り替えていました。このごろはもう10日も同じネクタイをしていますが。それで、父からは「お前は坊さんになるために京都に行ったのに、教員になるために行ったのか」と叱られました。
 ウチの父は厳しいです。明治生まれを絵に描いたような人ですから。「烏が白い」と言えば、「白いですね」と言わないと、機嫌が悪いような坊さんでした。それが私の父ですが、尊敬できる私の師でもありました。それでも、そこで42年勤めてしまいました。すぐ辞めるはずが、私がいちばん長く勤めてしまいました。 やっぱり学生のすばらしさが、その理由です。誰も仏教など関心がありませんが、本願寺派の学校ですから、1時間私の話を聞かないと進級できません。これは実にいいシステムではないですか(笑)! 学生のほうはカンカンです。「私は先生に洗脳されたくない」などと言います。若い子の頭の純粋さですね。僕は言いました、「君ね、僕なんかに洗脳されるような頭だったら、たいした頭じゃないよ」と。いわゆる「不本意入学」です。武蔵野女子高等学校になんか来たくなかった。どこへ行きたかったかと言うと、大学でも、青山、上智、早稲田などです。「そんな学校に行かなくてよかったね」と、こう言えるようになったのは、60歳を過ぎてからです。
 「だってここはね、『生きる』とか『いのち』の問題とか、そういうことを学ぶ場所なんだから。素晴らしい学校なんだぜ」と、言っていました。それで早く定年になればいいと思っていたのですが、いざ定年になって残念なことは、若者に向かってこのような話ができる場を失ったことです。もう勿論学校では学長もいい顔をしませんでした。「先生は偏向している」などと言われました。
 しかし、偏向している者ほど、他人の偏向がわかるのです。「私はまっとうだと思っています」などとよく言いましたが。それが、若い人に自分の話を聴いてもらう機会がとみに少な くなったことが、やや残念だと思います。

原爆で戦争が終わった?

 ところで、この「知らなかった米国の旧友」とは、20年近く米国で暮らして帰国した女性の投書です。85歳でこの感性はすてきだと、皆さん思いませんか。皆さん、どうぞお互いにがんばりましょうね!私は85歳までにはまだ遠いのですが。85歳になったら余生は盆栽でも…というのは、そんなのはだめですよ! そのようなことで生きて もしようがないですから。(笑) 彼女は20年間暮らしたアメリカに、85歳で久しぶりに行ったのです。年取ってからの長距離の旅行は辛かったが、旧友に会って。
 友だちは科学の博士号を持っているようなインテリや、そのような人が多かった。そこで、科学者が尋ねた。「原爆で戦争が終わって良かったね。日本って独立したんだっけ?」と言われたそうです。アメリカ人の日本認識はこの程度です。日本を世界で知らない人もたくさんいます。しかし、「日本って独立したっけ?」は酷すぎます。そのようなことを言われたのがショックだったのです。つまり、「原爆で戦争が終わって良かったね」というのが、アメリカ側の変わらない言い分です。 もっとも最近の若い人の感覚は違っていますが。「もちろん独立していますよ」と彼女は答えた。「じゃあなぜ未だに基地があるんだ?」「こっちが聞きたいわよ。日本は基地のためにずっと苦しんで来たのを知らないの? 私は怒り口調になって、旧友たちでさえ日本に関する知識はこの程度なのかと、大きなショックを受けた。沖縄の叫びを、苦しみを、もっとアメリカの人たちに伝えなくてはと、 強く思った」。

沖縄の叫びを

私は翁長さんが亡くなってからの49日法要に、沖縄に行きました。切符が取れなくて困りました。あのときは創価学会が一生懸命で、もう複数回会長が行きました。そんなことがありました。私は沖縄に行って、少々しゃべりましたし、思い出もありますが。「沖縄の叫びを、苦しみを、もっとアメリカの人たちに伝えなくてはと、強く思った」と、85歳のこの女性が仰る感性に、私は「ああ、見習わなくてはいけないな」と思ったことで あります。
  戦時下、お寺の梵鐘を武器に変えたり、供出したり、右側の写真は、花瓶など、仏具です。左は梵鐘です。昭和13年、1938年、爆弾を抱えて基地に突っ込んだ、有名な肉弾三勇士が英雄視されました。戦争になるとそのような人を英雄化することが一般化します。

先生もっと大人にならなくちゃ

 6月14日は日米地位協定の抜本的見直しを目指す学習会がありました。
 この頃、みなさんは、このような専門家をお招きすると、集まってくれます。集団的自衛権行使が成立したときにも、ものすごい集会でした。主催者発表12万人でした。「兵戈無用」(武器で幸せは来ない)という旗をいつも持っていますが、このとき、生まれて初めて胸苦しくなりました。過呼吸になってしまいました。人が多すぎたからでしょう。このときは曇りでした。 永田町の駅を降り、「ああ、今日は天気が悪いから残念だな」と思っていると、もう改札口を出られないぐらい多くの人が集まっていました。相当多数の方が、「集団的自衛権行使というのはいかがなものか」と、怒りにうち震えていたときの、『東京新聞』のこの報道写真です。私はこれを自分の書斎に貼ってありますので、今日は剥がしてまいりました。
 皆さんも報道でご承知でしょうが、マザー・テレサ女史ではありませんが、一人の力は弱いものです。誰もが言います、「先生、そんなこと動いたって、世の中変わらない。」この頃腹が立ちます。20歳ぐらいの人が僕を説得するのです、「先生、もっと大人にならなきゃ」(笑)。76歳のおじいさんつかまえて、「大人にならなきゃ」とは! ジョークですが、ほんとそうなのです。そのような 若者が多すぎます。 これも時代の流れですが。ただ、私どもはよく言いますが、一人の力は、ほんとうに、それほど効果はありません。

じいちゃんって偉いんだね

 僕が少々嬉しかったのは、うちの娘がもう48歳で、かわいくも何ともないんですが、どちらかと言えば僕と反対でした。外国へ行ったりなどしておりまして。それで、先日少し我が家へ来たときに聞いてみると、沖縄のことを見たらしいのです。沖縄の紛争を。娘とは、だいぶ話ができるようになりました。
 皆さんご承知のように、若い警察官が、80歳、90歳近い方々を、座り込んでいる人を、ごぼう抜きにします。国民にあのようなことさせてはならないのではないでしょうか。政府が国民を分断しているではありませ んか。 ちょうどそのとき、彼女は小学校3年の娘といっしょにテレビを見ていたらしいのです。
 私のこのような方向に対して、必ずしも賛成ではなかった娘が、自分の子ども、僕の孫に対して、「おじいちゃんは、こういうことをやってるんだ」と言ったそうです。「何で?」「あんたたちが、少しでも平和に暮らせるように、じいちゃんはこんなことやっている」と言ったら、「えー、じいちゃんって偉いんだね!」偉いんですよ!(笑) 初めて聞きました。
 何も自慢ではありませんが。しかし、娘も様々な状況下で、様々なものを抱えながら生きていく中では、考えが違ったとしても、それはそれで尊いのです。 ただそのように孫に言ってくれたということは、ちょっと嬉しいです。本邦初公開であります(笑)。自慢ではありませんが。今日は、宮城先生のお手配で、本当に尊い時間をいただきました。 (終)

追悼李実根さんと高暮ダム「追悼碑」ー共生への歩み・上

浄土真宗本願寺派僧侶、元私立小中高校教師吉川徹忍


 はじめに

 2020年3月25日夕方、李実根さん(広島県朝鮮人被爆者協議会=朝被協・会長)がお亡くなりになった(享年90歳)。
 李さんご家族の依頼で、お通夜・葬儀など一連の行事を導師として執り行った。
 私が李さんに出会った1981年夏以来39年間、家族のようなお付き合いをしていただいた。最後にお会いしたのは2月20日。握手した手を離されず、後ろ髪を引かれる思いで介護施設「アリラン」を後にした。コロナ感染拡大の影響で、その後お会いすることはかなわなかった。
 李さんが「朝被協」を結成し会長に就任したのは、1975年8月2日。 翌月の9月5日、李さんは藤村耕市先生(三次地方史研究会)の案内で、深川宗俊氏(歌人)らと共に初めて朝鮮人労働者の強制連行・強制労働問題調査のため、高暮ダム(現庄原市高野町)を訪れた。「県北の現代史を調べる会」は、李さんらの訪問を契機に生まれ、『戦時下広島県高暮ダムにおける朝鮮人強制労働の記録』(1989年7月)に結実した

1.高暮ダムと朝鮮人強制労働

 高暮ダムは中国山地の奥深い広島県北部、広島市街地から北東120㌔にある。神野瀬川上流の高野町(現庄原市)高暮地区に1940年~1949年、戦時体制強化のため、「聖戦貫徹」をスローガンに建設された。高暮地区、隣接下流の君田村(現三次市)住民の反発にも関わらず、農家、田畑・山林を強制的に安く買い上げられた。
 1937年からの日中戦争での労働力不足を補うため、1525歳の青少年含めた朝鮮人労働者約2000人が連行され、強制労働に従事させられた。かれらは《集団》と呼ばれ、過酷な労働とたこ部屋同然の非人間的扱いを受け、多くのいのちが犠牲となった。堰堤には何人かの朝鮮人労働者が立ったまま埋められているとの地元住民の証言もある。地獄のような酷使に耐えかねて山中に逃亡するも、捕まりリンチを受けたという。
 しかし、地域住民たちによる「逃亡援助という心温まる話も少なくない」(李実根『プライド共生への道~私とヒロシマ~』(2006年7月、汐文社)』)。逃げてきた朝鮮人に地下足袋を与えたり、こっそりおにぎりを持たせて県境を越えた島根県赤名(現飯南町)方面に逃がした証言もあった。ダムのためといって、家や田畑を奪われ夫を戦死させられた君田の小野久子さんは、おにぎりを渡したという。「私もあの人たちも戦争の犠牲者です。犠牲者同士助けあうのはあたりまえです」と述べている。
 記録に残そう!朝鮮人犠牲者追悼だけでなく、君田・高暮住民の温かい思いも込めて。この李さんの《共生への第一歩》への願いが、藤村先生をはじめ県北の教師・ジャーナリストたちによる研究・調査で前掲の『記録』となった。広島高校生平和ゼミナールの生徒たちも、1980年代から広島朝鮮中高級学校との交流を始め、1986・1991・1993各年には高暮ダムフィールドワークに取り組んできた(『朝鮮人強制連行・強制労働問題「歴史を学ぶ高校生」』1994年6月)。

2.追悼碑建立をめざして

 1980年5月から、北海道北の極寒地・朱鞠内(雨竜)ダムで、殿平善彦さん(深川市)たち浄土真宗本願寺派僧侶を中心に朝鮮人強制労働・たこ部屋労働犠牲者の遺骨発掘運動が始まった。同年9月以来、度々殿平さんは広島で遺骨発掘と韓国への遺骨返還経過の講演と、李さんとの交流を深めてきた。李さんも殿平さんに呼ばれ、朱鞠内含め北海道各地で「朝鮮人強制連行・被爆者問題」の講演を重ねた。
 朱鞠内ダムに、朝鮮人強制労働犠牲者追悼と東アジアの平和と和解のための「願いの像」除幕式が執り行われたのは1991年10月6日。翌月の1125日、本願寺広島別院で殿平さんの講演会。隣にいた李さんは、「高暮ダムにも追悼碑を作ろう」と私に語られた。李さんも北海道講演の折、「願いの像」を訪れた。
 朱鞠内の碑は北海道電力の協力を得られず、ダム堰堤下流の民有地に設置。李さんは語った。犠牲になった朝鮮人犠牲者のためには堰堤・ダム湖畔に碑を置きたい。ただ電力会社敷地内に朝鮮人犠牲者碑の前例は全国にない。李さんは「中国電力を説得する」と述べて、本社に通っては断られ、悔しさを私に吐露された。
 1992年の暮れ、通って3~4回目頃の李さんに笑顔。中電が断る口実は民間団体には提供できないという。本音は、自分たちの負の過去を象徴する碑を敷地内には設置したくないようだと。ただ李さんの熱意に中電の担当者は、「地方公共団体への寄付は可能だが…その後は責任を持てません」と呟いたそうだ。ピンときた李さん、私に「今から高野町に行ってくる」と言い残し、藤村先生を誘い自家用車で高野町役場に向かった。
 町長室で対面した、高暮住民の田中五郎町長(当時)は共感し、「高野町が中電から場所の寄付を受けましょう。そこに碑を作ってください」と述べた。町長は人権と平和に理解があった。以後李さんは、町長を終えた後も田中さんを尊敬し大切にされた。場所は堰堤そばの湖畔の「一等地」。それからは時間をかけて、募金を呼び掛ける個人・団体の選定、モニュメントの形などの相談を受けてきた。(つづく)