雪で倒壊した強制労働資料館の再建を 

北海道 朱鞠内の「笹の墓標展示館」

殿平善彦
本願寺派一乗寺住職
日本宗教者平和協議会代表委員・北海道理事長

戦時下に強制労働を
強いられた人々

 アジア・太平洋戦争の時代、不足する労働力を補うため、日本政府と企業は中国、朝鮮から労働者を連行して強制労働をおこないました。その数は中国人約4万人、朝鮮人70万人以上と言われ、北海道では日本人のタコ部屋労働もあり、重労働やリンチなど過酷な扱いを受けて多くの犠牲者がでました。
 今日、日韓間で「徴用工問題」となって論議されているのは、過去の強制労働をめぐって、日本側が補償すべきか否かが問題になっているのです。日本政府は1965年日韓条約締結時に、日韓請求権協定を結び、すべては解決済みであり、一切の支払い義務はないと主張しています。そのため犠牲を強いられた朝鮮人への賠償は、犠牲者が起こした裁判で和解に至ったわずかな事例以外は行われてきませんでした。犠牲者の遺骨も中国へは1950年代に返還されましたが、朝鮮人の遺骨は政府も企業も長く返還に取り組もうとしませんでした。

朱鞠内ダム工事、
鉄道工事犠牲者

 北海道の幌加内町朱鞠内では、1938年から43年まで、三井財閥の王子製紙が資金を出し、飛島建設が元請けとなった巨大土木事業、雨竜ダム建設と鉄道工事がおこなわれ、膨大な日本人、朝鮮人が使役されました。タコ部屋に拘禁された重労働の結果、日本人約190人、朝鮮人約50人が死亡したことが明らかになっています。

市民と東アジアの若者が
取り組んだ遺骨発掘

 朱鞠内では1980年5月に市民や宗教者によって、ダムの近くの笹やぶの中から犠牲者の遺骨が発掘されました。1997年には韓国、在日、日本、アイヌの若者たちの手で発掘が取り組まれ、合計で24体の遺骨が地上に導き出されました。町役場から発見された「埋火葬認許証」に記されていた本籍地を尋ねて、遺骨を遺族に届ける運動も続けられました。

笹の墓標展示館・旧光顕寺

 ダム湖の近くに真宗大谷派末寺光顕寺があります。1934年に本堂が建設され、翌年に工事が始まったので、犠牲者は光顕寺に運び込まれました。
 光顕寺は偶然にもダム工事、鉄道工事の犠牲者の寺になったのでした。そのため、戦後も犠牲者の位牌が寺に残されました。過疎化で住職の去った光顕寺は、市民運動が管理することとなり、1995年、犠牲者の遺骨を安置し、強制労働の歴史を展示する資料館「笹の墓標展示館」として公開されました。
 1997年からは遺骨発掘のための東アジア共同ワークショップの拠点にもなりました。境内地には犠牲者を記憶し追悼する「碑」や「彫像」が建てられ、日本と韓国、台湾などの若者が和解と平和を求めて集う場になり、日本各地や韓国からも参拝者、見学者が来るようになりました。

倒壊した展示館を再建しよう

 多雪地帯の朱鞠内で2019年2月、2メートルを越える雪が展示館の屋根に積もり、本堂が傾き、倒壊の危機に瀕しました。
 関係者の相談の結果、日本で唯一の強制労働犠牲者を追悼し、歴史を展示する「笹の墓標展示館」を守ろうと、再建のための実行委員会が結成されました。「笹の墓標再生・和解と平和の森を創る実行委員会」は3000万円の予算を立て、2022年の完成を目指して募金を呼び掛けています。
 日本政府はナショナリズムを振りかざして朝鮮半島への植民地支配を合法だと主張し、過去を不問に付そうとしています。強制労働は日韓問題にとどまりません。多くの日本人も犠牲になりました。第2次大戦下では、ドイツでも行われ、多くの犠牲者がでました。ドイツでの強制労働の検証が始まったのは1990年代になってからであり、世界でも現在進行形の歴史的課題なのです。
 10月には旭川で日本宗教者平和会議が計画されています。朱鞠内もぜひご参集ください。

公開講演会=京都宗教者平和協議会で

日本仏教の歴史と「戦争」
―憲法9条は仏の願い― ➃

山崎 龍明 師 武蔵野大学名誉教授


「法に背き」

 この「法に背き」というのは、そういう意味合いを持った言葉です。要するに、彼らは「国家に背いた者」となりました。そのために、「三条河原で住蓮、安楽の2名が首を斬られた」という伝説がありますが、歴史的には、僧侶は死罪という罪名であっても殺されていないようです。やはり役人はお坊さんを殺せませでした。たたりがあると困ると思ったのでしょうか。殺していません。それで、親鸞・法然さんは越後と土佐の国に、流罪、遠島になりました。それが「念仏弾圧事件」と申し上げるものです。

「非僧非俗」

 8名流罪そのとき、親鸞聖人は「しからばすでに僧にあらず俗にあらず」といいました。「国家から『あなたは坊さんではない』と言われたのだから、私は僧ではない」と、そういう意味です。「非僧」は「僧に非ず」です。普通「僧に非ず」と言えば、単なる「俗」ですが、親鸞さんは、また「俗に非ず」とおっしゃった。その「非俗」というのは、「さりとて単なる俗として生きるものではない」という意味です。私はこの発言は、非常に重いものだと思っています。だいたい「僧侶であるか否か」というのは、当時は官が決めておりましたから、当然のことですが、親鸞聖人は、そのこと自体も実はおこがましいことであると言われました。「俗に非ず」というのは、ある意味では親鸞聖人の思想性とでも言いましょうか。頭の上から脚の爪先まで、煩悩、怒り、腹立ち、ジェラシー、そのようなものでいっぱいだけども、どっこい「単なる俗を事として生きる人間とは違います」という表現が、「非俗」ということでしょうか。
 私たち真宗僧侶はそのことに少々甘えすぎているのではないかと思います。「俗に非ず」という発言の意味は、このようなものです。
 次に「しからばすでに僧に非ず、俗に非ず」の内容です。お経の中に、「出家した者は国王に向かいて礼拝せず、父母(ぶも)に向かいて礼拝せず、六親に使えず」云々と続きます。これは『梵網経』というお経にあります。出家をして世俗を超えた者は、世俗を相対化しなければならない。親は尊敬すべき、恩を感じるべき存在ですが、親であっても、「命のすくい」という一面になれば、親は礼拝の対象ではありません。親鸞聖人が教行信証に引用している、『梵網経』にある言葉です。
有名な言葉です。

他力本願

 次に今日特にお聴きいただきたいところでありますが、「日本仏教における戦争」、戦争というのは、「近代の戦争」を意味します。
 戦争といえば、日清、日露、第一次世界大戦、第二次世界大戦。とりわけ第二次世界大戦では、「皇国教学」というものがありました。
 伝統仏教教団では、『国体と仏教』という本などがたくさん出ていました。現人神(アラヒトガミ)を中心とする教学理解の変質です。これはもう、恐ろしい。
 例えば浄土真宗は、「他力」ということを説きます。「他力」というのは、特に「他力本願」などは、自分は何もしないで、他の何かによって幸せになることと誤解されます。
 しかし、親鸞聖人はどうも違います。「自分の信念でもって懸命に生きても、なかなかその通りに生きることが難しい」。つまり、己の根本的な限界と言いましょうか、そのようなものを知らされるときに、大いなる流れに身を委ねることによって、道が開かれてくるのです。それを親鸞聖人は「本願他力」という言葉で表現しました。
 なぜ親鸞聖人が「自力」という、比叡山や高野山のような「お山の仏教」、そういう方との仏教を、「仏様のように尊いお方で、私たちはとてもその仕方では仏(ほとけ)にはなれない」と、考えられました。「すでに仏になり給へる人の」などという文章もあります。そのようなことがわかるのですが、ただその中で、やはり考えていかなければならないのは、ある著名な龍谷大学の先生が仰るには、「なぜ自力を捨てて、親鸞聖人が他力を受け止めたのか。理由はたった一つだ。」はっきり言いましょう。それは自力というのは、「異国(とつくに)ぶり」、「異国(いこく)」と書きますね。「外国ぶり」です。自分が何かをすれば「俺がやったんだぞ!と威張るのが、外国人なのだ」と。「異国ぶり」です。
 他力を、戦時中には、「武勲を立てて武勲を離れる世界」と表現したのです。自分が戦争に行って功績を挙げても、私が功績を残したと一切言わないのが日本人であり、日本精神の美徳であると。ご承知のようにそれが他力であって、「親鸞聖人が自力を捨てて他力を取ったのは、そのような意味である」という解釈は、これはもう100%間違いなのです。

戦争への協力と責任

 それが昭和16年(1941年)に明治書院から刊行された『真宗の護国性』という本に出ています。各教団ともにこのような本を出しました。私たちの悲しい歴史です。そのような時代でした。「皇国教学」「決戦教学」という語がとびかいました。また、「戦時教学指導本部」(西本願寺)などができました。いわゆる「非常時には非常時の仏教者の生き方がある」という部署ができ、戦地に僧侶を、従軍布教師を派遣したり、さまざまな軍事活動をしました。仏教婦人会は浄財をたくさん集めて軍用機を献納したり、そういう歴史を司るのが、「戦時教学指導本部」というところです。私は、日本の仏教を、「この世は儒教、あの世は仏教」と申しました。
 明治の明如という門主さんが詠んだ「後の世は弥陀の誓ひにまかせつついのちを安く君に捧げよ」という和歌は、まさに「この世は儒教、あの世は仏教」の思想に繋がります。
 先ほど少々先走りましたが、高木顕明とか内山愚堂、竹中彰元、あるいは植木等というタレントのお父さんである植木徹誠。この人も変わった方で、僧侶であって、洗礼まで受けています。あの戦争中に様々なことをしておられました。 

植木等さんから聞いた話

 植木等さんから聞いた話ですけれども、昔はよくヘリコプターからビラを撒かれました。子どものころ集団で歩いているときに拾った、「お尋ね者」のビラの中に、植木等さんのお父さんも入っていたそうです。危険人物です。非常に嫌な思いがして、顔を上げられなかったと、氏は言います。そのときに、担任の先生が独り寄ってきて、こう植木少年に告げたのです。「植木、お前の親父は生まれて来るのが50年早かったんだよ」と。こう言われて、子どもながらに気持ちが楽になったと。植木さんの話によると、警察に捕まると拷問されます。風呂の水の中につけられるそうです。これは嘘ではありません。お父さんが息子に語った話ですから。皮のベストを着けられるそうです。それが水を吸ってくると、徐々に締められ息が苦しくなってきます。そのようなことをお父様から聞いたことがあるそうです。
 僕がいつも講演に行くお寺の50メートル離れたところが、植木等さんのお宅でした。立派なお宅です。右側に植木等さんの入り口があり、隣に植木徹誠、お父さんの入り口。そこに共産党の掲示板がありまして、なかなか面白いものでした。植木さんもそういうお父さんを理解していた方ですから、私はいつもそれを見ながら、通っていました。

愚かな母の大罪です

 私にとって忘れがたい人と言えば、昔と言ったら失礼でしょうか、マッチという歌手がいましたね。近藤何と言う名前でしたか(近藤真彦)。名前が出てこない時には、皆さんの協力をいただいています。その人の『ブルージーンズメモリー』という映画があったとき、私はそれを息子と京都で見ました。 その監督をした人(河崎義祐)が、B級戦犯として日本で始めて処刑され、日本の戦犯処刑の第一号ですが、由利敬の母親と逢ったそうです。そのお母さんはツルさんと言いますが、由利敬という人は、親一人子一人で育てられた人のようです。ピストルの技術が卓抜で、いつも大会で優勝するような腕前だったそうです。それを買われて、大牟田の捕虜収容所長になりました。僕は先年そこへ行って来ました。親一人子一人です。お父さんがいないから、この子をきちんと育てねばと、軍国の母として、お母さんは懸命に子どもを育てたそうです。その結果、優秀な軍人になった。そのために、母親と若い恋人を残して処刑されなければならなかった。『ブルージーンズメモリー』という映画を作った監督さんが、そのお母さんの話を聞いているときに、お母さんは、「愚かな母の大罪です」と仰った。
 戦後皆、国に騙されていたというときに、「愚かな母の大罪です」と言ったことが、監督の心を捉えたのです。私が聞いた話ですが、息子さんの由利ケイというのは尊敬の敬と書きます。昔岩手県の水沢に、原敬という宰相がいましたね。あの名前を頂いて付けた名前だそうです。ですから、子どもの頃から腰にサーベルをつけて、
「僕は将来軍人になるんだ」と言っていたそうです。ある時お母さんは、お寺にその子を連れて遊びに行ったそうです。そして、遊ばせるために、寺の子どもにサーベルを渡すと、そこの住職がきっぱり断ったというのです。「寺の者はそういう物では遊びません」と言われた。何もわからないお母さんは、何ておかしなことを言う住職なんだろうと思ったという話も、聞いたことがあります。しかし、戦争が終わってから、そのことがよくわかった。絶対にこの戦争は正しいと信じていた私が、そして立派な子どもに育てようという、育てなければならないという親の気持ちが、息子を死に至らしめたのではないかということが。お母さんの痛切な懺悔(さんげ)となりました。それが「愚かな母の大罪」の言葉に繋がります。
〈次号につづく〉

立正平和の会

「ヒバクシャ国際署名」とNY行動への取り組みについて


理事長 河崎俊栄(日蓮宗本延寺住職)

本年は、被爆から75年にあたり昨年の原水爆禁止世界大会・国際会議宣言は、平成27年に採決された核兵器禁止条約は、平成27年度の平和ノーベル賞にICN・被爆者の方々の運動が認められ受賞された。核兵器廃絶を願う人びとに勇気と希望を与えた。
 核兵器禁止条約は核保有国に対する大きな政治的・道義的圧力となっており、核保有国の抵抗や逆流は守勢の現れだと指摘。安倍政権は被爆者の願いに背を向け、裏切り、禁止条約の発効を妨害している。
 こうした逆流を打ち破って被爆国日本で禁止条約に署名する政府をつくるなら、核兵器廃絶に向けて世界を大きく動かすことができます。日本で「ヒバクシャ国際署名」の大飛躍を起こそうと訴えた、「国際会議宣言」を学び、行動に踏み出そうと呼びかけています。
 立正平和の会では、諸先師の立派な働きにより、5年毎に開催された国連軍縮特別総会に3回・核不拡散条約再検討会議に3回宗務総長のメッセージを国連事務総長に提出して大きな成果をあげた。
 今年は日蓮宗管長・宗務総長のメッセージを国連事務総長に提出できます。会員にはヒバクシャ署名簿5枚と・代表団派遣カンパをお願いした。短い時間ですが事務局・役員一丸となって努力しています。
 昨年10月に日本宗平協主催による日本宗教者平和会議㏌那覇・宮古島会議で決議された「被爆75年・2020年にむけ宗教者の役割を果たしましょう」の呼びかけを学び、核不拡散条約再検討会議に署名簿の提出・「原水爆禁止世界大会㏌ニューヨーク」関連諸行事のなかで具体的に「国際的かつ宗派を超えた宗教的儀式・祈り」の取り組みが呼びかけられています。
 核兵器禁止条約は、122カ国によって採択されて、批准35ヶ国、調印79ヵ国、この条約を早期に発効させるためには、50ヵ国以上が批准しなければなりません。そのためにはニューヨークでの会議の成功・世界大会の諸行事の成功裏に草の根からの運動、市民社会と諸国政府の共同の力を大きく結集するこの行動に、宗教者としての役割を果たそうではありませんか。 合 掌

ニューヨークの原水禁世界大会・NPT行動の参加に当たって

京都宗平協  出口 玲子



 私が小学校低学年の頃、当時の幻燈(スライド)の授業がとても楽しみで、和室で暗幕を閉め、ある日「広島の原爆の話」をして貰ったことを今も鮮明に覚えています。なぜなら、途中で先生が台本を読めなくなって、泣き出されたからです。被爆した広島の先生が子ども達を連れて逃げる時、子ども達が「水が欲しい!水が欲しい!」という場面でした。
 私が初めて原水禁世界大会に参加したのは、1970年夏、東京での大会でした。何千人という人たちの熱気と、特に被爆者の方の証言に感動したことでした。当時は運動の分裂などで大変な時でしたが、「原水禁運動の原点は、被爆者である」という言葉を聞き、今も私の核廃絶運動の根幹になっています。署名に立つときも、私は「広島や長崎のあの悲劇を、どこの国にも起こさせないために!子ども達に平和な地球を残そう!」と訴えています。
 京都宗平協では、毎月一回清水寺で署名に立っていた時代もありましたが、今は京都教職員組合の女性部の6・9行動に行ける人が合流させて貰っています。その女性部の6・9行動は、この1月9日で1276回目となりました。49年間1回も休むことなく、たった一人でもやってきたという伝統的なもので、頭が下がります。
 清水寺では、観光客が殆どで、最近は東南アジア、特に中国、台湾からの観光客が目立ち、韓国からの人が減りました。季節によっては修学旅行生も多く、1人が署名をすると次々としてくれます。署名のお礼に羽ばたくツルを渡すと、皆さん、特に海外の方が喜んでくれます。1月6日は小島さんと二人で、30筆の署名が集まりました。(写真参照) 
 生協や被爆者懇談会などで組織する「ヒバクシャ署名京都の会」でも、年に何回か河原町三条などで署名行動をしますが、清水寺とは反応が違います。観光客もいますが、買い物客や通りすがりの方が多く、足を止めて下さる方が少ないのです。ところが1月18日に立った時には、ローマ教皇の話をすると、足を止めて署名をして下さる方が多く、私がこの署名を持ってNYに行くことを話すと、激励して下さる方もあり、逆に励まされました。
 やはり昨秋のローマ教皇来日の影響は強く、「核兵器の保有は、それ自体が倫理に反している」との核兵器廃絶へのメッセージが、世界中に大きな影響を与えていると実感しました。この署名行動には京都宗平協からは3人が参加し、22筆の署名が集まりました。(写真参照)
 これで、京都宗平協で集めたヒバクシャ署名は、2017年以来、現在合計3274筆です。
 私は10年前、核不拡散条約(NPT)再検討会議のニューヨーク行動に、多くの方々のご支援を受けて参加させて頂きました。今年は被爆75年、私の人生の殆ど全てです。核兵器禁止条約の発効を目指し、「核兵器のない世界」に向けた歴史的転機を築く年となるように、人生最後になるかもしれないとの想いで、参加の決意をしています。 お一人お一人の核兵器廃絶への熱い想いのこもった署名の重みを携えて。
 京都宗平協  出口 玲子(日本キリスト教団信徒)