滋賀宗平協結成30周年記念のつどい


 「滋賀宗平協結成30周年記念のつどい」を9月24日、講師に松本サリン事件の被害者河野義行氏を招き、本願寺八幡別院(近江八幡市)において開催しました。
 1989年10月に三井寺において結成総会が開かれ、それから30年、核兵器廃絶、平和と民主主義確立の旗を掲げて活動してこられた先達の意思を大事に引き継ぎたい。とりわけ、安倍政権のもとで戦争国家への危機、国民の命と人権が粗末に扱われている今日、宗教者として果たさなければならない使命の自覚と運動の発展を期し、「記念のつどい」の成功に向け取り組みました。
 湖東地域の寺院・教会に約350通の案内状送付、民主団体の協力を得て県内一円に約16000枚のチラシ配布、会場の本願寺八幡別院の周辺には約300枚のチラシをポストインしました。おかげで当日は、宗教者、信者、主婦、保守系市会議員など多彩な人々74人の参加で、会場一杯の活気あるつどいになりました。
 開会行事では、日本宗平協を代表して、長田譲師の挨拶をいただきました。京都宗平協、大阪宗平協、和歌山宗平協からも多数参加いただき大きな元気をもらいました。また、近江八幡市長をはじめ、立憲民主党、国民民主党、日本共産党、それぞれの滋賀県代表者の参加あるいはメッセージをいただきました。これは、宗平協の運動が認知されつつあることと同時に、市民・民主団体の運動が政治変革の共同の輪となってきていることの現れであろうと思いました。
 開会セレモニーでは、ミスタージョウシン=楠本恭久師(佛光寺派常信寺住職)の鮮やかな手練れと軽妙な話術のマジックで会場が一気に和やかになりました。
 河野氏の講演『今を生きるしあわせ』は、「結果に執着しない、未来にも不安をもたない」という言葉から始まりました。なぜなら、過去は変わらないし、未来はわからないので、今を一生懸命生きていると述べられました。
 1994年6月27日松本サリン事件が起こり、次の日から犯罪者とされ、警察の「任意」という強制的取り調べと、社会からは家族へのいやがらせ、友人への脅迫、縁者にも「離婚せよ」などの言葉が投げつけられるなど、身体的命と社会的命を奪われた。とりわけ警察は、最初から河野義行を犯人と決めつけ調査した。「犯人でないことを証明しろ」と何度も言われたが、何もしていない者がしていないことを証明することほど難しいことはない。長男に対しては、「お父さんは自白した、
お前も知っているんだろう。全部言え」と、してはならない行為をした。警察は無実の者を守ってくれるところでなく、犯人をつくるところだという弁護士の言葉に納得したとも語られました。また、速報を競うマスコミも警察幹部のリークにもとづき「近所の会社員が薬品の調合を間違う」などと犯人が確定したかのような報道をする。挙げ句の果ては実名さえ公表するという人権侵害が行われた。と松本サリン事件一連について詳しく述べられました。
 最後に、このような仕打ちに耐え切れたのは妻と友人であった。もし私が逮捕されたら妻はどうなるだろう。病院も追い出されるに違いない。なんとしても無実の罪に屈することは出来ないと思った。妻は寝たきりであったけれど大きな仕事をしてくれた。そして、100%私を信じ支えてくれる友人がいたからであると締めくくられた。(木田昌志記)

関東大震災朝鮮人犠牲者追悼集会


 9月1日、関東大震災犠牲者追悼実行委員会は、墨田区横網町公園の追悼碑の前で式典を開催しました。 今年は関東大震災96周年に当たります。当時、大混乱・不安の中で「暴動が引き起こされている」「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が襲ってくる」などといった流言飛語が飛び交い、全く罪のない朝鮮人が数千人、中国人が約700人も当時の天皇の軍隊・警察や自警団のカマ、トビ、刀、槍などによって虐殺されました。
 日本の社会主義、労働運動の指導者たち10数人も国家権力によって殺されました。しかし、日本政府は、今もなおこのデッチあげ事件を明らかにせず、未だに調査も謝罪もしていません。虐殺事件への真の責任を取ることが求められます。
 また、これまで東京都は慣例として、追悼式典には代々東京都知事が追悼文を寄せていましたが、昨年から知事になった小池百合子氏は追悼文を拒否し続けています。この対応に厳しい批判の声が広がり、参加者増に反映しました。今年の式典参加者は700人以上となり、昨年より100人余増えました。
 午前11時、式典は日朝協会東京都連合会事務局次長で墨田支部長の小島晋氏の司会で進められ、開式の言葉で、実行委員長で日朝協会東京都連合会長の宮川泰彦氏は、「震災後50年を迎えた1973年に追悼碑が建立されて以降毎年9月1日に追悼式典が執り行われてきた」。「多くの在日朝鮮人がいわれのない被害をうけ犠牲になった、二度と繰り返してはならない」「世代を越えて語り継いでいかなければならない」と感謝とともに今後の協力を呼びかけました。次いで、日本宗教者平和協議会・浄土真宗本願寺派の小山弘泉僧侶が読経を行いました。
 その後、韓国無形文化財第92号太平舞保存会・日本東京支部長で韓国伝統芸術研究院代表の金順子氏が「鎮魂の舞」を舞いました。 各界の追悼の辞の後に大震災被災時間の午前1158分に黙祷をしました。歴代総理の方々のメッセージ紹介後、閉会のことばがあり、最後に参加者一人ひとりが献花しました。
東京宗教者平和の会 小山弘泉・事務局長

東京宗平会第13回総会開く


 東京宗平会は、9月11日渋谷区内で第13回総会を開催。総会は山崎龍明代表世話人の開会挨拶で始まりました。山崎氏は、「今日本はこのままでいいのかと云う異常事態だ」「令和になって新しいと云うが何も変わっていない、モリ・加計問題も解決していない、張本人で側近の萩生田氏が大臣になった。しかも、大臣の大多数が国民会議派で固められ、まさに友達内閣だ」と安倍政権を批判。「いまこそ宗教者が云っていかなければならない時」と参加者を激励しました。
 続いて議長団に平沢功世話人、岡田隆法世話人を選出したあと、総会への提案を小山弘泉事務局長が行いました。小山氏は、はじめに、東京宗平会が2006年の結成以来、東京・首都圏で宗教者の平和運動を広げる事をめざし「平和の祈りを行動の波へ」をスローガンに平和運動を進めてきた。日本宗平協主催の運動に参加するとともに、首都圏の平和運動や学習会などの取り組みに参加。また、都内の平和・民主諸団体との共闘を進めてきました。生きとし生けるものの尊厳を守ることを本分に「安倍改憲No!」「戦争する国づくり」反対をかかげ、国会前行動や地域での宣伝行動に参加し3000万署名にとりくんできたと述べ、「核兵器のない世界、非核平和の日本」へのスローガンのもと原水禁大会、国民平和大行進への参加、原発再稼働反対。また横田基地へのUV22オスプレイ配備に反対、辺野古新基地建設反対、日韓国際フォーラムやモンゴルで開催されたアジア仏教徒平和会議など国際活動にも参加してきました。ついで、①2018年活動報告、②2019年活動方針案、③2018年会計報告がされ、会計監査報告が有り、確認されました。質疑や補足発言などのあと、④2019年予算案、⑤役員人事案が提案されました。
 討論が行われ、規約改正について事務局長が、「東京宗平会は個人加盟を10年間貫いてきたが3年前、団体加盟も認めることで確認された経緯となぜ東京宗平会から東京宗平協に変更するかについて提案しました。それは、既存の「平和運動団体」には、「立正平和の会」「真宗平和の会」「天理教平和の会」などありますが連携を強めて、東京での設立ということになれば加入の展望は広がります。また、「特定秘密保護法に反対する牧師の会」や地域の「九条の会」や「広島・長崎の火」を継続している寺院や教会もあり、組織加入と云う展望が見えてきていると方向性について発言。向こう一年議論して行くことで確認しました。それも含めて全体の議案が採択されました。参加者全員が発言し、心の通い合いも感じ励まされる総会でした。

■書評 中島三千男著『天皇の「代替わり儀式」と憲法』


 奥田 靖二

 本書は大阪宗教者平和協議会の講演会(2018年6月29日)の講演を活字化したもので、著者の話を聞くようでわかりやすい内容です。今年5月の元号改正、令和天皇即位の報道が大きくなされ、引き続く「代替わり」に関する取り組みにも大掛かりな報道が予想される中でこの問題に関する学習に大いに役立つ著書です。
 皇室の中からも「身の丈に合ったものに・・」の声を無視して諸準備が進められ大嘗祭の行われる神殿の建設には19億円ともいわれる巨費がつぎ込まれ、わずか2日の儀式で取り壊されます。国民の中にある平成天皇に対する「親しみ」の感情や、日本の「伝統的行事」(これは当たらないのですが)という雰囲気が意図的に宣伝されて、なんとなしにこのような皇室への意見が言いにくいようなムードが作られているように思われます。
 本書の結論部分で指摘の「日本国憲法の原理にふさわしい即位儀式」が望まれます。安倍政権の政治的利用の意図を見抜き、ぜひ学習の資料として活用がのぞまれます。出版先、ファックス06・6465・1255へどうぞ。
 日本宗平協・代表委員  奥田靖二(浅川神社宮司)

モンゴルで出逢った先達の足跡


 荒川 徹真

 6月21日から23日の三日間モンゴル、ウランバートルのガンダン寺で行われた、アジア仏教徒平和会議(ABCP)の総会及び、50周年記念式典に参加する機会をいただいた。
 開会の6月21日は祖父の鈴木徹衆師の丁度一周忌のその日であったので感慨深い思いでガンダン寺を訪れた。
 ガンダン寺ではABCPの50周年を記念した壮大なセレモニーが新しく建設されたという講堂で行われた。会議期間中にその講堂の二階中央ではABCPとその本部があるガンダン寺の歴史に関する展示が行われていた。その展示の中に、今までのABCP総会や会議、または友好団などで本部モンゴルセンターに贈られた記念品などが各国ごとに展示されていた。
 このショーケース((写真上)の中身は今まで日本仏教徒からABCP本部に贈られた品々である。仏像や日本人形、日本山妙法寺の先達の団扇太鼓、1976年に日本で総会が開催された時に贈られた仏像などがあった。
 そのケースの中に、ある写真があった。
カンボジアの大虐殺、クメール・ルージュ崩壊の直後、カンボジア、ベトナムの両国仏教会からABCP本部へ、カンボジアへの緊急調査団の派遣の要請があった。日本からは代表として鈴木徹衆師が派遣されて1979年4月、カンボジアの地に赴いた。これはその時に徹衆師が撮った写真と手記と思われる。師が亡くなって一年のこの時に師の遺したものにモンゴルで出会えるとは、驚きとともに感慨深いものであった。
50周年記念セレモニーでは、カンボジア代表として虐殺(当時、カンボジアではほとんどの僧侶が殺された)から生きのびたテップ・ボーン師がご高齢の身体を押して参加され、感動的な挨拶をされた。会議の中で師は、カンボジアが内戦で荒廃し、国内事情が非常に厳しい時にABCPは手を差しのべてくれたと語っていたのが印象的であった。
 ABCPは50年前の1969年、アメリカのベトナム侵略戦争に反対しベトナム人民、宗教者を支援する仏教徒の共同組織として組織された。それ以来、アジアは苦難と変化の50年であったと思う。徹衆師は1967年に北爆化のハノイも訪れているし、その時代の各国の先達の身をていした活動がABCPの礎になっているのであろう。さらにそれは、日本が東アジア、東南アジア各国を侵略し、筆舌に尽くし難い惨禍をもたらしたという深い反省と懺悔の念があったからこそできた共同であると思う。
 そんなABCPの現在、アジアと世界の平和の為にできる役割はなんであろうか。今回大きな全体会議はなく、各国、各センター代表1、2名の代表者を出しての集中討議となったが、日本代表団は岸田正博団長と英語通訳の小野恭敬師の活躍により、新しい規約と今大会の宣言に核兵器廃絶と軍縮の文言を盛り込むことが出来た。この点で日本代表の役割は大きいものであり、またいくつかの国の代表から軍縮や核廃絶、非核地帯の拡大などの観点からの日本の役割についてさらには期待が寄せられていることも耳にした。
 今回実に16年ぶりの総会ということもあり、今後の方向性も含めて各国手探りの状態での再スタートであったように感じた。 20世紀に比べアジア各国の経済発展が著しいのは喜ばしいことであり、モンゴルでも平均年齢が30代だと聞いて、その発展の勢いを肌で感じ、それに比べてわが国の今後の衰退を予期させるものでもあった。  アジアの現在の平和の状況を見ても、日本では先の大戦での日本の侵略及び植民地化の行為を正当化もしくはなかった事のように主張する者たちが政権に居座っていることで、残念ながらわが国自身がアジアと世界の平和にとっての重大な不安要素になってしまっている。
 そんな時であるからこそ、それぞれの国の宗教者や仏教徒同士の直接の交流が、争いを避けることに貢献することができると信じる。総会などの場だけでなく、普段からのやり取りや交流がより大切に感じた。今は各国の僧侶諸師もメールやSNSを活用して、以前より手軽にやり取り出来るという条件がある。
 ただ、以前はインターネットのような便利なものがなかったのにも関わらず、困難を乗り越えて助け合い、人間的な友情を育んできた、そのような先達の足跡に触れることが出来て、私にとっても非常に意義深い参加であった。今後のアジア仏教徒平和会議の発展と日本センターの活動を進めていくことを祈念し、帰国後、徹衆師の墓前に参加の報告のお参りをした。

「手を差し伸べる相手は誰か」

 水田 全一

 とうとう日韓軍事協定破棄にまでなってしまった。徴用工問題の韓国司法当局の判決に端を発し、日本の対韓輸出規制強化に対する対抗措置が、ついに安全保障の分野まで拡大したということだ。
 もっとも日米韓の同盟は北朝鮮に対抗するものであり、軍事的緊張を和らげるのであれば無きに越したことはない。このような軍事的協力よりも体制の違いをこえて、地域の平和的な関係を構築することに努力すべきであろう。
日米同盟、韓米同盟を絶対とする硬直的な思考を超えた平和な地域を作る外交努力をこそすべきである。すでに板門店の境界線を米朝、朝韓の最高指導者は手を携えてまたいだのである。一人取り残されているのがわがシンゾーくんである。
 外遊の多さを外交と考える彼には平和を構築する戦略も哲学もない。だからこそ最も友好関係を大事にせねばならぬ隣国に、抜き差しならぬ対立を作り出してしまうのである。彼が最も大事な問題と強調する拉致被害者の問題についても、これでは解決の見通しは出てこない。中国も含めて東北アジアに平和的な関係をどうすれば構築できるのか考えるべきである。
 政府間のぎくしゃくした関係は国民の間における友好感情の悪化にまでも発展し、両国間の旅行者の激減をもたらしている。韓国の航空会社は相次いで日本への便を廃止あるいは減便している。日本各地の観光地も彼らの減少によって困難に見舞われだした。幸いにして訪れている若者たちの言葉は、友好感にあふれたものが多い。国民の間の亀裂はまだ修復可能であると思われる。これ以上の悪化を食い止めなければならない。
 冷静に問題の出発点に立って考えるとき、かつての日本が韓国を植民地にしていた事実、それを認めることから始めなければならない。そして、戦後の日本、言い換えればわれわれはその償いをしているのかを冷静に考えなければならない。
 朝鮮が植民地であったとはどういうことであったか。収穫したコメは日本へ運ばれ、ついには土地も取り上げられた。安価な労働力として日本へ渡ることを余儀なくされ、更には鉱山や炭鉱、大企業の工場で奴隷的な労働に従事する以外生きる道はなかった。戦時中にはさまざまの甘言で強制労働に従事させられ、いわゆる「慰安婦」に身を落とさざるを得ない女性もいたことは、まぎれもない事実である。
 日本各地にはいわゆるコリアタウンが存在した。一部大都会の商店街は別にして、場末の貧民窟をなしていた記憶はわたしの町でも鮮明である。同級生の洪君は朝鮮へ帰国したが消息は知れない。ただ彼の姉はホルモン屋を営んで健在であった。同じ専攻であった大学にも洪君はいた。彼も祖国へ勇躍帰国したが、やはり消息は知れない。植民地化の爪痕はこのように存在している。
 生まれ育った故郷朝鮮で先祖伝来の生業を続け、祖国が独自の発展・近代化を遂げておれば彼らの現在は明るく希望に満ちたものであったと思われる。それを奪ったものが、日本による植民地化であった。償いの必要は明らかと思はないか。
 翻って立場を変え、もし日本が植民地とされていたならば、と考えてみよう。生業も土地も奪われ宗主国へわれわれは流浪しなければならなかったとしたらという想像力が必要だ。炭鉱や鉱山で強制労働に従事し、わが娘が「慰安婦」に貶められていたならばと考えた時、椅子に座った少女像を非難し声高く撤去を求めることができるか。隣に置かれた「いす」に腰かけて沈思黙考することこそ求められているのではないのか。
 現在の日本の現実を冷静に直視する眼があれば、韓国にこのような対応をすることはできないはずだ。日本の現実それは首都上空の制空権を放棄し、沖縄をはじめとする各地の巨大な出撃基地の存在を許し、屈辱的な地位協定の密約を結び、アメリカ国土防衛のためのミサイルシステムや攻撃用戦闘機の爆買いを強いられる。この現実は植民地そのものではないか。
 自らのおかれている現実を自覚せず、作り上げられた虚構の「歴史」に安住して隣人を蔑視する姿は見苦しいものである。しかも、それが「宗主国」への目に余る追随に堕するとき、見苦しさは唾棄すべきものとなる。すり寄り手を差し伸べて得意然とした笑顔はまさにピエロの笑顔である。
 私たちは誠意を込めて東アジア地域の平和構築のために手を差し伸べなければならない。いうまでもなく、その相手は韓国であり朝鮮・中国なのである。