夏の参議院選挙で
安倍政治の暴走を終わらせよう


日本宗教者平和協議会
 日本宗教者平和協議会(日本宗平協)は、宗教者・教団の戦争協力・加担の責任の自覚とその反省に基づき、宗教・信仰の違いをこえ、生きとし生けるものの尊厳を守り、信教の自由・政教分離、9条改憲阻止、戦争法廃止、辺野古新基地建設阻止、核兵器のない世界、原発ゼロ、安倍政権の暴走ストップなどの諸行動に取り組んできました。
 この夏、参議院選挙(告示7月4日、投票・開票7月21日)が行われます。
 今度の選挙では市民と野党が共同して、32の一人区の選挙区で野党共同の候補者が決定しました。
 日本宗平協が掲げる「憲法9条改悪阻止」「核兵器禁止条約の批准」「辺野古新基地建設反対・基地撤去」などの実現のために安倍政権に抗する野党を支持をするものです。
 安倍政権は、集団的自衛権行使容認の解釈改憲に続き、安保法制=「戦争法」を強行し、「戦争する国」づくりを推し進めています。
 いのちと平和な未来にかかわる諸課題での国民的運動の共同の教訓を活かし、市民と野党の共闘という壮大なたたかいに合流し、現在と未来のために目前の参議院選挙で、市民と野党の共闘の勝利で新しい希望ある政治に道を開き、最悪の安倍暴走政治にストップをかけ、早期退陣に追い込みましょう。

2019年度 拡大全国理事会を開催


 2019年 日本宗教者平和協議会拡大全国理事会が、5月20日、21日の両日、岐阜市内で開催されました。地元岐阜宗平協の尽力で、各地からの参加者は地元岐阜の皆さんも含めて約40人を数え盛会となりました。
 初日、荒川庸生理事長代行は、開会挨拶の中で、現在の改憲の危険な情勢に触れ、今こそ宗教者が立ち上がる時、『平和のいのりを行動の波へ』のスローガンのもとに発信していくことの大切さを述べました。
 二日間の進行は、大原光夫副理事長(京都)、議長団には、小野和典(静岡)、小倉雅昭(大阪)長田 譲(大阪)の三氏が選任されました。
 2019年度運動方針案として、森修覚事務局長から議案が一括提案されました。
 はじめに、核のない平和な世界の実現に向けて、核兵器禁止条約批准達成の現状や、ノーベル平和賞を受賞し、性暴力根絶の国際社会への取り組みの広がりの国際情勢、そして国内では、民意無視の辺野古新基地建設問題、天皇交代「儀式」をめぐる改元過熱報道、原発ゼロ、九条改憲阻止への取り組み等々。問題発言続出の現政権の無法状態の認識を通して、以下の提示が続きます。
 Ⅰ 安倍九条改憲阻止、「戦争する国」づくりを許さない。 Ⅱ「平和のいのりを行動の波へ」①信教の自由・政教分離 ②核兵器廃絶、三・一ビキニデ―墓前祭と世界大会 ③日本宗教者平和会議(本年度は沖縄開催予定)④沖縄県民と連帯し、辺野古新基地建設を許さない⑤原発ゼロの未来を⑥個人の尊厳・人権擁護・格差是正 Ⅲ宗教者の平和の願いを総結集する日本宗平協の組織の充実・発展を ①全国の加盟組織の充実と発展を ②四大取り組み(墓前祭・全国理事会・原水爆禁止運動・宗教者平和会議)を結節点とする活動 ③日本宗平協の諸活動の報告・伝達・各地の活動を反映させることに力を注ぎ、機関紙『宗教と平和』の充実を図る(以上 運動方針案)
 そして、規約改正案と人事案、次に財政報告案が提案されました。
 記念講演は、立川武蔵氏(宗教学者、国立民族学博物館名誉教授)により、『宗教者の今日的役割と期待』の講題で行われました。立川氏は、『仏教の空思想の意義』として、まず、インドにおける思想史(宗教史)の変遷の中から、密教の理論的根拠となる「空思想」を「大日如来」と世界との関連を五つの視点から述べられました。
 特に現代の私たちに向けての提言として、私たち人間の増大する欲望の制御にこそ「空の思想」が手向けられるべきだとの視点が、参加者の共感として伝わりました。遺伝子組み換えの技術の適用の判断を現在の私たちの暮らしの中で考えていくこと、その有用性と危険性の両面が問われていることを改めて認識しました。
 全体を通しての討議では、全国各地からの参加者の発言が続き、①宗平協未結成の地からの組織化意見 ②鳥取からの結成報告 ③各地方での活動状況報告・課題 ④他の団体との協働 等が話し合われました。また、今回、規約改正に伴う人事案(別掲)も協議、代表委員・代表理事制を確立する検討案も協議の上、他の議案と共に承認されました。
 特別講演として、『戦争は罪悪である』と主張し投獄された真宗大谷派明泉寺住職(当時)竹中彰元師の復権までの経緯を、大東仁師(真宗大谷派圓徳寺住職)が語りました。大東師は、『一殺多生』(一人を殺して多くを救う)の言葉を引用し、かつて教団がこの『一殺多生』を「慈悲」と言い換えた事実を紹介しました。「戦争は彼我の命を奪う」…人殺しを肯定し平等を否定した史実を我々が受け止め、彰元師の復権の意義を改めて学びました。
 次に、松島勢至師(真宗大谷派伝香寺住職)から、現在係争中の「大垣警察市民監視事件」(中部電力の子会社が、風力発電所建設計画の学習会を開いた松島さんたち二名の個人情報を、県警大垣署の警備課長らが同社に伝え、住民運動つぶしの相談をした事件)の経緯についての報告がありました。
 最後に、大江真道代表委員の挨拶で二日間の理事会を終了しました。

「戦争は罪悪である」竹中彰元師の明泉寺を訪ねて


 5月21日の日本宗平協拡大全国理事会終了後、オプショナルツアーとして、反戦平和を貫いた竹中彰元師ゆかりの垂井町の明泉寺を20余名で訪ねました。
 岐阜市内から車に分乗して明泉寺へ向かいました。約一時間、竹中半兵衛重治ゆかりの地・垂井町に到着。竹中氏陣屋跡櫓門のすぐ傍に竹中彰元師が1867(慶應3)年に誕生した明泉寺がありました。
 山門の左脇には「戦争は罪悪である(竹中彰元師之寺)」との石柱が。本堂には彰元師の略歴や反戦発言当時の史料が展示されている本堂にて現在の17代住職の竹中真昭師(写真)から彰元師(14代)の人物と生涯について説明をお聞きしました。
 布教使として活動していた竹中慈元(出生名)が、1917(大正6)年、当時の真宗大谷派法主の彰如から「彰」の字を下付され、出生名の慈元から「彰元」に改名したこと。仏教やキリスト教などの宗教界も戦争を推し進める国家に積極的に協力・加担していくようになり、1931(昭和6)年9月の満州事変から、1937(昭和12)年7月には日中戦争(盧溝橋事件)に突入、直後の9月15日、出征兵士を見送る道中において出身地の岩手村の在郷軍人に対して彰元師は、「戦争は罪悪であると同時に人類に対する敵であるから止めたほうがよい」と大きな声で戦争を批判したこと。
 その後も、同年1010日に近隣の寺院での法要において6人の僧侶に対し「此の度の事変について他人は如何に考えるか知らぬが自分は侵略の様に考える。徒に彼我の生命を奪ひ莫大な予算を使ひ人馬の命を奪うことは大乗的な立場から見ても宜しくない。戦争は最大な罪悪だ」と発言し、この2回の発言によって彰元師は逮捕され、「陸軍刑法第99条(造言飛語罪)」に抵触するとして送致され、有罪判決を受けました。
 真宗大谷派は1938年11月、彰元師に懲戒処分を下し、布教使の資格も剥奪されたことなどを学びました。反戦を貫き、彰元師は1945年の敗戦の年の10月に78歳で亡くなりました。
真宗大谷派は処分から70年、2007年9月に彰元師の処分を取り消し、10月には「竹中彰元師復権顕彰大会」が明泉寺で開かれ、当時の熊谷宗恵宗務総長が謝罪を表明し、名誉を回復したこと。その宗派声明において、「竹中師の志願に耳をかたむけることなく、非戦をとなえ教えに生きんとした僧侶に対し、処分を下したこと自体が、宗派が犯した大きな過ちであります。さらに今日まで放置し続けてきたことを思いますと、まことに慙愧に堪えず、心より謝罪いたします」と表明したことなどを知る貴重な学びのときとなり、感謝でした。
長良川 鵜飼い
 初夏の訪れを告げる「鵜飼い開き」(5月11日)から10日、21日夜には長良川の鵜飼いを満喫しました。前夜の雨で見学できるか心配されましたが、乗り場付近で「鵜飼い」の説明を聞いて、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」と詠んだ芭蕉を思いながら無事乗船、出発。
 綺麗な夕焼けを眺めながらの食事の後、いよいよ鵜飼いの始まりです。最初は一艘ごとに篝火の下で鵜匠に操られる鵜たちが目の前を下っていきます。謡曲『鵜飼』の「鵜舟にともす篝火の・・・」と。そして最後は、鵜舟が横一列に並ぶ「総がらみ」で最高潮に達し、拍手も沸きあがりました。やがて鵜舟の篝火は遠ざかり、まさに「消えて闇こそ悲しけれ・・・」の心境をちょっと感じられた想いで舟をおりました。 (S・H)

訃 報


 はりま宗平協で活躍された青木敬介師が逝去されました。
 青木師は1932年、兵庫県御津町(現在のたつの市御津町)生まれ。龍谷大学卒業。1958年、浄土真宗本願寺派西念寺住職に就任。60年代から自然環境をよくする運動や非戦・平和、脱原発の運動に取り組み始め、71年に漁師や労働者らと「播磨灘を守る会」を結成し、代表に就任。85年には中曽根首相(当時)の靖国神社参拝に対し、違憲訴訟を起しました。2000年には全国自然保護連合理事長に就任、02年には同聯合の代表に就任されました。
 長い間、日本宗平協の理事、常任理事を担当されました。
 著書に、『仏教とエコロジー―播磨灘の環境破壊から』(同朋舎出版)、『穢土(えど)とこころ―環境破壊の地獄から浄土へ』(藤原書店)、『寒僧記』(探究社)、『「縁起」と地球環境』(自照社出版)
ほか

「ヒバクシャ国際署名」宗教界への働きかけ

途中経過報告
 広島宗平協  吉川 徹忍 

「浄土真宗本願寺派各寺院ご住職・門信徒の皆様へ(署名のお願い)」
 広島の川とりわけ元安川は、72年前の夏、原爆によって無念にも殺されてしまった人々の悲しみのこもった聖なる場所です。何年経とうとも、人類として追悼を続けるべきヒロシマの川です。
 そこに「船」とは思えない飲食のための建造物が新たに造られたことは、ヒロシマを引き継ぐ市民として納得することはできません。
私たちは、ヒロシマの川面を見るたびに、底深く眠る死者の無念さと非核への希求を感じます。
 1945年の広島の川で引き起こされた惨劇を思うなら、そこで飲み食いする気にはなれない筈です。それが復興、観光、という名でまかり通るならそれは道徳的腐敗に堕することです。原爆ドームの足下、元安川に建造された 「かき船」は即時撤去されるべきです。
 人類が核を持って過ちをくり返さないために、非人間的悲惨の極みの記憶を人為的に消し去り風化させることは何としても防がなくてはならないと思います。
 広島がヒロシマであり続けるための取り組みを粘り強く進めていきましょう。同封の署名へのお力添えをよろしくお願いいたします。
2017年4月23日   森瀧春子(かき船問題を考える会 共同代表)
【一人の被爆者として】
登世岡浩治さん(浄土真宗本願寺派 安楽寺前住職)(かき船問題を考える会 共同代表)
 私が被爆したのは 旧制中学4年生・15歳で、12歳の最愛の弟は被爆死しました。永い間、あまりにもつらくて悲惨すぎて、被爆体験を話すことをためらっていました。1994年は被爆49年ですが、仏教では50回忌にあたる年でした。タイ国の平和シンポに参加し、求められて初めて被爆体験を話しました。その後毎年、地元牛田小学校と牛田早稲田小学校それぞれ3年生児童の前で体験を語り継いでいます。
 原爆資料館には私自身は恐ろしくてとても入館できません。弟たちが眠る場所だから。子ども達には原爆の恐ろしさとむごさを見てほしいと資料館の見学を勧めています。同時に、資料館に入るのをためらっている被爆者は多いと思います。
 そんな場所にかき船を移転させて営業するとはとても許しがたいことです。ドーム周辺は聖域の場所です。広島の7つの川には当時たくさんの大の字になった死体が浮かんでいました。死臭の絶えない場所でもありました。同胞がたくさん亡くなられた悲しみの場所です。
 ここに、いつのまにやら料亭船かき船「かなわ」が、原爆ドームのバッファゾーン内に置かれました。悲しみの川を痛めつけてはいけません。かき船などとんでもないことです。世界中から資料館を訪れる方々はこのかき船レストランをなんと思うであろうか。1人の被爆者としてあの場所にかき船を置くことは許しがたい思いです。場所を移すべき(例えば京橋川沿い)であると思います。

【同悲同感の地】
諏訪了我さん(浄土真宗本願寺派 浄寶寺前住職)
 私の寺は原爆投下までは、旧中島本町といわれた今の平和公園の中にある広島平和都市記念碑(通称「原爆死没者慰霊碑」)から西へ10mの地にありました。この地域は当時の繁華街でお寺の宗派はいろいろですが10カ寺ありました。
 1945年春、私は中島国民学校の6年生・12歳でしたが、三良坂町(現在の三次市)のお寺に疎開しました。原爆投下により広島は焦土と化しました。亡くなった多くの方は安芸門徒の方々でした。
 原爆投下から1か月と10日後、私はすべてが焼き尽くされ変わり果てた寺の跡地に立ちすくんでいました。両親と姉がいましたが3人とも被爆死しました。私一人になるということは全く考えていませんでした。遺体を見たわけではないし、信じる気にもなりませんでした。私と一緒に疎開していた児童の中にも、家族がみんな死んで一人になったものも多くいました。
 あれから70年が過ぎましたが、世界遺産としての原爆ドームから元安川、平和公園一帯は爆心地で、被爆死者たちを出した悲惨な地域です。この地は戦争・原爆を引き起こした人間の独善性に気づかせ、如来さまのお心をお聞かせいただき、すべての者が同じ立場で同悲・同感する平和の原点の場所でもあります。
 この場所に飲食を共にする「かき船」が設置されたことは似つかわしくありません。心の底から死者を思い追悼し、再び同じ過ちを繰り返さず、世界平和を願うためにも「かき船」を撤去して欲しいと望んでいます。
 報告:吉川徹忍(広島宗平協・事務局)