歌とトークの鈴木君代さん
 3月1日午後焼津市文化センターで開かれた「被災65年2019年3・1ビキニデー集会」のリレートークで、京都宗平協の鈴木君代さん(真宗大谷派僧侶・シンガー・ソングライター)が『一本の鉛筆』『兵戈無用』の歌声で平和、ヒバクシャ国際署名、基地はいらないなどの訴えが、大ホールいっぱいに響きわたり、会場の参加者の胸を打ちました。
 ステージ上で揺れた各宗教者の旗・法衣・服装も平和への大きな発信力となりました。

2019年
被災65年3・1ビキニデー
 被災65年3・1ビキニデー行動が2月28日、3月1日の両日、焼津市内で行われ、全国各地から50人が参加しました。とりわけ本年は、1964年の第1回墓前祭執行から55年を経過し、墓前祭を守り継続してきた、故鈴木徹衆師、故日隈威徳氏のお二方を偲び、多くの参加者が焼津に集いました。
 また、第五福竜丸の乗組員であった、見崎進さんの葬儀が執り行われた日とも重なりました。
 被災65年の3・1ビキニデーの行動が2月27日の「国際交流会」、日本原水協全国集会、墓参行進、久保山愛吉墓前祭、焼津集会など「核兵器禁止条約を力に、核兵器のない世界、非核平和の日本の実現」をテーマに繰り広げられました。

宗教者
平和運動交流集会開く
 日本宗教者平和協議会は28日、焼津で「3・1ビキニデー宗教者平和運動交流集会」を開催しました。
 岸田正博副理事長の司会で進められ、荒川庸生理事長代行が開会あいさつで「このビキニデーの集会は1年の核兵器廃絶を求める国民平和大行進、世界大会、平和の取り組みの緒となるもの。焼津の地から、地元へ、それぞれの教団へ、宗教者として行動を広げていきたい。沖縄での県民投票で辺野古基地建設ノーの県民の意思実現のために宗教者も頑張ろうと、秋の宗教者平和会議を沖縄・名護で開催したい」と述べました。
 第Ⅰ部では、殿平善彦北海道宗平協代表・浄土真宗本願寺派一乗寺住職から、『朝鮮人遺骨返還運動』についての報告を聴きました。
 殿平師は約1時間の報告の中で、北海道で発掘された朝鮮人遺骨の返還に関わる一連の経過を伝え、北海道から日本各地を経由してソウルに至るまでの人々の連帯の蓄積を述べました。既に『宗教と平和』上でも掲載し、一般紙、TV等でも報道されていましたが、遺骨の返還に関わる事実が何を語り、現代に何を伝えようとしているのかを改めて学ぶことができました。
 殿平師が、「死者が死者となるために」「いくら遅くとも死者は追悼され、強いられた犠牲は償われなければならない」と結んだ最後の一節まで、師の報告に参加者一同大きな感動を覚えました。

墓参行進・
久保山愛吉墓前祭
 3月1日、前日の雨も上がり暖かい港町焼津の朝。早朝から約1300人が駅南口に集い、行進垂れ幕・宗平協の旗を先頭に弘徳院まで行進しました。愛吉さんの好きだった深紅のバラの花を手にして、行進し献花、各団体からの供花も祭壇・碑前に飾られました。
 墓前祭は京都宗平協の出口玲子さんの司会進行ですすめられました。荒川庸生理事長代行による開会挨拶の後、第Ⅰ部の法要が焼津市の弘徳院松永弘善副住職(表紙〇写真)、焼津市仏教会代表が勤めました。焼津・広島・長崎市長からのメッセージが紹介され、第五福竜丸平和協会の山本義彦理事長が挨拶を述べました。
 第Ⅱ部の、各界からの誓いの言葉は、日本原水爆被害者団体協議会の児玉三智子事務局次長、原水爆禁止世界大会実行委員会の野口邦和運営委員会共同代表、全国労働組合総連合の長尾ゆり副議長、新日本婦人の会中央本部の米山淳子副会長、宗教者として天理教平和の会の矢野太一師、日本共産党中央委員会の島津幸広前衆議院議員、日本民主青年同盟の橋爪春人静岡県委員長、3・1ビキニデー静岡県実行委員会の谷健二静岡大学教授が述べました。(各誓いの言葉は次号で紹介)
 小倉雅昭大阪宗平協理事が閉会挨拶し墓前祭を終了しました。

3・1ビキニデー集会
 墓前祭終了後、3・1ビキニデー集会が焼津市文化センターで開かれ、引き続き多くの宗教者も大ホールでの全体集会に参加しました。

故鈴木徹衆師を偲ぶ集い
『故鈴木徹衆師を偲ぶ集い』が宗教者平和運動交流集会のⅡ部として開かれ、京都宗平協作成の徹衆師の講演の様子や、本年1月に逝去された日隈威徳氏スピーチが映像で紹介され、『在りし日』を偲びました。
 真宗大谷派僧侶鈴木君代さんのギター演奏による追悼ミニコンサートが催され、続いて、参加者から徹衆師への想いがリレートークのかたちで語られました。
 親族を代表して、孫の荒川徹真さんが謝辞を述べました。終了後、会場を移して偲ぶ会懇親会も40名近くが参加しました。手描きの遺影は、徹衆師の甥に当たる鞠川俊介さんが筆を執り、供花は地元静岡宗平懇の手づくりで、遺影の前には銘酒が「献上」されました。

京都宗平協が作成したDVDで熱く語る鈴木徹衆師の日本宗平協の結成の話、日隈威徳氏の墓前祭の話など2月28日の鈴木徹衆師を偲ぶ集いで披露されました

被災65年3・1ビキニデー
久保山愛吉墓前祭へ挨拶・メッセージ

挨 拶 
公益財団法人 第五福竜丸平和協会
山本義彦代表理事・静岡大学名誉教授
 久保山愛吉さんがビキニ実験で被ばくされて、今日は65周年目です。それもその年の9月23日に息を引き取られたという忌まわしい結果となりましたが、それを教訓として、この国の人々は原水爆実験禁止・核兵器廃絶運動を繰り広げ、長い持続的な運動の展開によって、ようやくICANがノーベル平和賞を受賞する結果を生み出す、国連の核兵器禁止条約制定への道筋が見えてきました。まさに愛吉さん、すずさんご夫妻が天から見守ってくださっているおかげと深く感謝したいと思います。
むろんまだまだ、国連加盟国の締約国をふやさなければならない課題が山積している一方で、アメリカのトランプ政権の登場が対ロシア、対中国敵視とも言うべき核維持と一層の高度化を狙う被爆国および当のアメリカやロシア、中国の実験による後遺症に苦しむ人々に対するとんでもない仕打ちにも当たる蛮行がなお繰り広げられようとしています。とはいえこのアメリカが北朝鮮との和平を探る核保有問題での取り組みそれ自体は東アジアの平和のために歓迎すべき状況変化がこの一年間におきていることも正しく評価しておきたいと思います。
 核による脅しの政策は人類平和への挑戦そのものであり、人類史への冒涜といわなければなりません。この国の政府も「核の傘」信仰をきっぱりやめ、正々堂々と核禁止条約に参加し、さらに諸国への参加の呼びかけを行なうことを強く願っております。このことは久保山愛吉さんの墓前に向かって、私たちがなしうる最大の貢献ではないかと信じています。私たち久保山さんの墓前に集う者は、このことを肝に銘じる責務があるという思いを深くかみしめています。
第五福竜丸を保存展示する都立第五福竜丸館は、建設から42年を経て、昨年夏前からの約9カ月をかけて東京都による改修工事をおこなってきました。これまでにない大規模工事を経て、来る4月2日にはリニューアルオープンいたします。
 第五福竜丸平和協会は、オープンにむけての準備を進めるとともに、再び皆様方に、広く久保山さんの「原水爆の被害者は私を最後に・・・」との願いを伝えるとともに、「核なき世界」の未来を求めての航海に旅立つ予定です。まだまだ苦難はつづくでしょう。しかし人類史的な大きな転換を強く求め続けることが私たちの使命であると信じております。どうぞ久保山さん、私たちを温かく見守ってください。
 2019年3月1日    久保山愛吉さんの墓前にて

メッセージ
焼津市長 中野 弘道
 本日、「被災65年3・1ビキニデー 故久保山愛吉氏墓前祭」の開催にあたり、謹んで哀悼の意を表します。
 太平洋マーシャル諸島にあるビキニ環礁での米国の水爆実験により、マーシャル島民や近海で操業していた多くの船や船員が被災してから、本年で65年が経過しました。
 この間、本日お集まりの皆様をはじめとする、世界各国の多くの人たちによる熱心な核兵器廃絶運動が行われています。
 「核兵器のない世界」の実現は、私たちの共通の願いでありますが、世界には依然として多くの核兵器が存在しており、私たちの願いは、未だ遠い彼方にあると感じております。
 焼津市では、毎年6月30日に核兵器廃絶と恒久平和の実現を訴える市民集会をはじめとした平和推進事業を通じて、市民が平和を愛する心を持ち続けるよう、引き続き全力で取り組んでまいります。
 結びに、皆様方の運動が大きな力となり、「核兵器のない世界」の実現につながりますことを念願いたしますとともに、御参列の皆様の御健勝と御活躍を心からお祈り申し上げます。

広島市長   松井  一實
「被災65年3・1ビキニデー 久保山愛吉墓前祭」の開催に当たり、心から哀悼の誠を捧げます。
 1945年8月6日8時15分、広島の空に「絶対悪」である原子爆弾が炸裂(さくれつ)し、立ち昇ったきのこ雲の下、何の罪もない多くの命が奪われ、街は破壊し尽くされました。かろうじて生き延びた被爆者も脳裏に焼き付いた地獄絵図と放射線障害により、心身は蝕(むしば)まれ、今なお苦悩の根源となっています。
 あれから74年、世界にはいまだ1万4千発を超える核兵器が存在し、意図的であれ偶発的であれ、核兵器が炸裂(さくれつ)したあの日の広島の姿を再現させ、人々を苦難に陥れる可能性が高まっています。また、世界では自国第一主義が台頭し、核兵器の近代化が進められるなど、各国間に東西冷戦期の緊張関係が再現しかねない状況にあります。人類は、歴史を忘れ、あるいは直視することを止めたとき、再び重大な過ちを犯してしまいます。だからこそ、私たち市民社会は、「ヒロシマ」を「継続」して語り伝え、核兵器廃絶に向けた取組が、各国の為政者の「理性」に基づく行動によって「継続」するようにしなければなりません。
 一昨年、核兵器禁止条約の成立に貢献したICANがノーベル平和賞を受賞するなど、被爆者の思いが世界に広まりつつあります。被爆の実相を知り、核兵器のない世界の実現に向けた努力を行うことの重要性が改めて認識されるようになる中、各国の為政者には、NPT(核不拡散条約)に義務付けられた核軍縮を誠実に履行し、さらに核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取組を進めることが求められています。
 為政者が「理性」と洞察力を持って核兵器廃絶に向かって行動するために、市民社会は多様性を尊重しながら互いに信頼関係を醸成し、核兵器廃絶を人類共通の価値観にしていくことが重要です。そうした意味で、皆様が、久保山愛吉氏の「原水爆の犠牲者はわたしを最後にしてほしい」という御意志を引き継ぎ、今日まで長きにわたり墓前祭を開催され、核兵器のない平和な世界の実現訴えて続けておられることは誠に意義深く、その取組に対し深く敬意を表します。
 本市も、世界の163か国・地域の7,700を超える平和首長会議の加盟都市とともに、為政者の行動を後押しする環境づくりに全力で取り組んでいく所存です。皆様には、今後とも「絶対悪」である核兵器の廃絶と世界恒久平和の実現に向け、共に力を尽くし行動してくださることを心から期待しています。
 終わりに、御参会の皆様の今後ますますの御健勝と御多幸を心よりお祈りいたします。

長崎市長   田上 富久
 「被災65年3・1ビキニデー久保山愛吉墓前祭」が執り行われるにあたり、長崎市民を代表し謹んで哀悼の意を表します。
 日本宗教者平和協議会の皆様におかれましては、故久保山愛吉無線長の「原水爆の被害者は私を最後にしてほしい」という言葉を心に刻み、宗教の垣根を越えて世界恒久平和に向けた様々な活動に取り組まれていることに対し心より敬意を表します。
 1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、長崎の街は一発の原子爆弾により、一瞬にして壊滅的な被害を受けました。すさまじい爆風と熱線により7万4千人の尊い命が奪われ、7万5千人が負傷しました。あの日から74年を迎える現在も多くの方々が放射線による後傷害に苦しんでいます。
 昨年の平和祈念式典に、現職の国連事務総長として初めて参列したグテーレス国連事務総長は、「長崎を最後の被爆地に」と呼びかけました。核兵器禁止条約が誕生し核兵器禁止国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞したことを力にと11月には国内外のNGOが集う「第6回核兵器廃絶地球市民集会ナガサキ」が5年ぶりに開催され、ナガサキから世界へ核兵器廃絶に向けた力強いメッセージを発信しました。
 長崎市は、世界から核兵器がなくなるその日まで、市民社会や多くの都市と連携し、恒久平和の実現に向けて、今後とも着実に歩み続けてまいります。
 「被災65年3・1ビキニデー久保山愛吉墓前祭」を通して、皆様が核兵器廃絶の声を大きく発信し、市民社会から核兵器廃絶の機運がさらに高まることを期待しています。
 最後に、皆様の今後ますますのご健勝とご活躍を心からお祈り申し上げます。


謝 辞
 被災65年3・1ビキニデー日本宗平協主催55回目の「久保山愛吉墓前祭」は冷たい空気の中でしたがつつがなく務めることができました。120団体・個人の皆さまのご協賛、1300人参列に心から御礼申し上げます。3・1ビキニデーと墓前祭をスタートに、5月の国民平和行進、原水爆禁止世界大会を大きく成功させ、国連での核兵器禁止条約の発効とともに久保山愛吉さんの遺言「原水爆の犠牲者は私を最後にしてほしい」の実現に尽力してまいります。3・11東日本大震災の東電福島原発事故から8年目を迎え、核兵器とともに原発とも人類は共存できないことが明確になりました。被爆者・原発事故被害者へのまっとうな補償と国内外問わず原発から完全な撤退を求めます。
 日本と世界の平和と民主主義にとって、沖縄の現状はあまりにも異常です。「辺野古新基地」建設の埋め立ての賛否に限る2月の県民投票で70%以上が反対に明確な意思表示したにもかかわらず安倍自・公政権は「結果を真摯に受け止める」と言いながら埋め立ての土砂を投入し続けています。憲法原則「国民主権」(主権者は国民である)がないがしろにされれば「平和主義」「基本的人権の擁護」の日本国憲法の3原則が根こそぎ葬られることになりかねません。私たちは強い危機感もって立ち向かってまいります。
              日本宗教者平和協議会   理事長代行  荒川 庸生

戦後日本における宗教者の平和運動
―中濃教篤師の業績を中心として―

立正平和の会・日蓮宗本立寺・住職 遠藤 教温

 日蓮宗現代宗教研究所(現宗研)が、中濃教篤師を取り上げ、第28回法華経・日蓮聖人・日蓮教団論研究セミナー(公開講座)を開催した 。去る1月31日、東京池上の日蓮宗宗務院で開かれたセミナーは、「戦後日本における宗教者の平和運動」~中濃教篤師の業績を中心として~と題して開催。日蓮宗の若手僧侶など宗門内外から90名が参加した。
 宗教者平和運動に幾多の業績を残し、現宗研の設立に関わり、第5代の所長も務めた中濃教篤師は、2003年4月に遷化。同年、遺族が段ボール箱30箱に上る師の資料を現宗研に寄贈した。資料は現宗研で一部整理された後、保管されたままであったが、今回の講師の一人、愛知大学国際問題研究所研究員の坂井田友起子氏が閲覧する機会を得て、中濃師の資料は陽の目をみることに。坂井田氏の話では、普通、段ボール箱の中の資料は整理されていないものが多いが、中濃師の場合は整理されていたとのこと。師の性格を示す一端か。
 坂井田氏は、同じくこの日の講師の大谷栄一佛教大学教授に「中濃資料」の目録化について諮り、大谷教授が日本学術振興会の研究費補助を受けた「戦後日本の宗教者平和運動研究」の一部として2016年から資料整理、データ入力開始。現宗研も協力し、今年1月に整理作業が完了して、現在目録校正作業中とのことである。
 この日は4人の講師がそれぞれ次のテーマで講演した。最初の講師、立正大学院の戸田教敞師は、「中濃教篤師の業績と資料概要」、次の大谷栄一教授は、「起動する戦後日本の宗教者平和運動:中濃教篤資料と細井友晋資料の分析から」、次の坂井田友起子研究員は、「中濃教篤と戦後の日中友好運動:日中仏教交流懇談会を中心に」、最後の永岡崇大阪大学招へい研究員は、「新宗教と平和運動:大本・人類愛善会の活動を事例に」であった。
 戸田師は、中濃師の略歴を資料提示し、近現代宗教史において活動のための理論を構築した実践活動家と評価。「中濃資料」の整理に携わった立場から資料整理の経緯を述べるとともに、資料概要について、袋入り資料四四八六点、書籍一二六七冊、総数五七五三点であったこと。資料種別は、雑誌、雑誌切抜き、冊子、書類、新聞切抜き、新聞コピー、自筆メモ、自筆原稿、スクラップファイル、写真、書簡など。内容は、①妹尾義郎関係(妹尾義郎記念会、等)②平和運動関係(原水禁大会、日蓮宗世界立正平和運動、等)③新宗教関係(創価学会、顕正会、等)④人権問題関係(日蓮宗人権対策室、等)⑤アジア仏教関係(ABCP、日中交流、等)に分類整理したと報告した。
 近現代日本の「宗教と国家」「宗教と政治」に関心を持ち、近代日本の日蓮主義運動や戦後日本の宗教者平和運動の研究に取り組んできた大谷教授は、戦後日本の宗教者平和運動のキーパーソンである中濃教篤師と京都立本寺貫首だった細井友晋師の資料に出会えたことは戦後日本の宗教者平和運動の研究にとって極めて大きい意義を持つもの、と述べた。
 資料を通して中濃師の思想と行動が更に明らかにされ、戦後宗教者平和運動史の解明に貢献されることを期待するところである。
坂井田研究員は、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会の活動や、日中仏教交流懇談会の中心的存在として日中友好交流に果たした中濃師の功績は大きいと評価し、中国仏教協会の趙樸初居士と中濃師との交流を紹介した。
 永岡研究員は、新宗教の平和運動の事例として大本・人類愛善会を取り上げ、中濃師との関わり、戦前の弾圧から戦後の平和運動への流れと課題を報告提起した。
 参加者との質疑応答で、立正平和の会の小野文珖師は、「中濃師の平和運動の原点は妹尾義郎との出会い、との指摘であるが、師の原点に終戦時、戦争責任を感じて自殺した加藤文輝立正大教授の存在があったのでは」「加藤教授の遺体を抱きかかえたと中濃氏から聞いたことがある」と発言。大谷教授は「資料がないのでわからない。教えてほしい」と述べた。私は、日中仏教交流懇談会(日中仏懇)に関わっていたので、坂井田氏に、「文革を支持して中国仏教者との交流を続けるべきだとする人達が日中友好宗教者懇話会(宗懇)をつくり、今日に至っているが、宗懇では文革をどう総括しているのか」と質問した。答えは、「総括していない」であった。
 ともあれ、日蓮宗が中濃教篤師を取り上げて公開講座を開いたことで、師の業績が更に明らかになれば嬉しい。

山家妄想  さよなら 仏教
〇「新しい仏教の地平を求める再誕の旅」と帯に記された一冊。「寺よかわれ」と叫んだ高橋卓志氏の新著である。医師であり作家の鎌田實氏が「誰もやったことのないやり方と考え方がいっぱい。オドロキ。さよなら古い仏教、さよなら古い日本、さよなら古い自分。不思議な本だ。」と推薦する。
〇著者は臨済宗妙心寺派準別格地一級神宮寺(長野県松本市浅間温泉)に生まれ、日中戦争中従軍布教使として杭州にあり、帰国後は教団の総務部長もした父君のもとで副住職をしていた当時から、さまざまのユニークなアイデアで寺の改革を進めたと自負する。
〇それは前著「寺よかわれ」に続き、この書でも具体的に紹介されている。行動力もすさまじく、鎌田医師とともにチェルノブイリの被ばく子供たちの救援活動や、ホスピスなどの新しい活動の調査のための度重なる訪欧などを精力的にこなす。年に五〇~六〇の葬儀を手の込んだアイデアで執行し、その準備には莫大な労力を必要とすると思うのであり、まさに超人的の表現がふさわしい。
その具体的な活動についての評価は下すことを差し控えるが、彼の紹介しているいくつかの事柄についての感想は述べることが出来る。
〇彼は住職就任にあったって檀信徒に「世襲を断つ」と宣言した由である。わが子には跡を継がせないというのであり、事実そのとおり実行している。「二人の息子を持ちながら、その子たちに寺を継がせない」のは「師匠と弟子」の関係でなく「親子」の関係でいたかったからと告白している。
〇私事になるが、わが父は師匠より「羅児はだめだ」といわれたというが、かつてはそれが禅寺の常識とされていた。羅児とは肉親の子供のことで釈尊の実子・羅睺羅に由来する。かわいがられて育った子はダメということであろう。わが父は小学生であったわたしを「自分は本尊様に嫁いできた」が口癖であった母も同意して、本寺に「小僧」として託した。わが子を仏弟子として育てる一つの在り方である。
〇門前の小僧習わぬ経を読むというが、幼い時から朝課の看経(朝のお勤め)を共にし、持鉢を用いて食事するなど禪寺に生まれた子供が自然に禪寺の子になるように育てるのが、禪寺に住む者のありようであった。もちろん「寺を出て、一般のものに伍して生活できない」態の人間では駄目なのであるのだが。安定した経営の自坊を継がせるのはためにならぬと世襲を拒むのであれば、住職のない他の寺の経営を託してもよいではないか。同じ部内の二寺の住職を兼ねてもいるのだから。
〇神宮寺は住職・副住職のほか、事務長など数人のスタッフを抱えているらしい。年間五〇~六〇の葬儀をこなす寺であれば当然であろうが、人件費も相当なものであるとともに一つ一つの葬儀に手間をかけるというのであるから法務も多忙であろう。この多忙さの中で紹介されているような多岐にわたる活動、とくに海外への旅行を含むそれは両立しうるのか。理解しにくいところである。
〇最後にかかわった葬儀について次のように記している。訃報に接したのち長野から千葉へ四時間半をかけてタクシーで駆け付け、死者の着替えをさせて長野への搬送手続きをする。京都の大学で担当している一〇時の講義に間に合うように新幹線に乗る。五月八日の通夜・九日の葬儀を「究極の葬儀」としてすませ、翌一〇日別の葬儀の後任住職の引導を聞き終えて寺を去ったという。
〇いま著者はタイのチェンマイの大学で「妥協のない上座部仏教の修行・発揚の地から本格的な『再誕』の旅を始めよう」としているという。「タテマエの僧衣を脱ぎ去って、僕なりの仏教にたどり着こう」というのだ。
〇「寺よかわれ」と叫んでいた彼は、いまや寺を見限ったのみならず、仏教にもさよならをして己ひとり「再誕の産湯」につかろうとしているようだ。産湯を終えた彼が見る光景はどのようなものになるのだろうか。さよならをした仏教にかわる素晴らしい姿を期待できるのだろうか。
(2019・2・24)  水田全一・妙心寺派の一老僧