2018年日本宗教者平和会議in山形・鶴岡


講 演
「平和への権利」国連宣言と地域協同組合運動
=揺りかごから墓場までの協同実践と「平和ピラミッド」構想= 大高全洋

~国連軍縮週間と21世紀の展望~
1.人間の視野と視座:〈下図〉
2.2001年から始まる21世紀は第3の千年紀(ミレニアム)の夜明け
3.歴史的現在は「戦争の20世紀」から「平和の21世紀」への夜明け前ーサルの時代 ニンゲンの時代 核(文明)の時代 何処に向かう これからの時代ー
 第2次世界大戦後(1945)と東日本大震災・原発惨事(2011)そして世界最終戦争の危機
4.今年の国連軍縮週間(102430
2016・1219 「平和への権利」国連宣言の採択
2017・7・7 「核兵器禁止条約」採択
 しかし世界は、新たな(米中)冷戦がはじまり、経済大国中心に核軍拡競争が激化。
 米国軍産複合体はトランプ政権下で史上最強:グローバルな新自由主義市場経済の限界とその止揚が緊要/「世界にはわたしたちの必要を満たしてくれる資源が十分ある。しかし、一人の人間の欲望を満たすには十分ではない」(ガンジー)
5.与えられた課題と限定
地域における平和的生存権の確保と非営利・協同セクターの役割と課題―「平和ピラミッド」構想。“Act Locally, Work Globally!”―
1「平和への権利」国連宣言とこれから
1.「個人の最高の物質的幸福が健康であるように、平和は人間社会最高の物質的幸福である」(トルストイの日記 1906・4・2)
2.ガルトゥングの平和学
(1)平和とは「あらゆる種類の暴力の不在または低減」
(2)暴力の3種類:①直接的暴力、②構造的暴力、③文化的暴力
(3)積極的平和主義(Passive Pacifism)と消極的平和主義(Active Pacifism)
注.安倍晋三の「積極的平和主義」は海外で”Proactive Contributor to Peace
3.「平和への権利」国連宣言
(1)はじまり
(2)平和への権利(Right to Peace)とは:1人ひとりの個人が、国家や国際機関に平和を要求できる権利。平和に生きる権利、平和的生存権 (Right to Live in Peace)、平和を享受する権利(Right to Enjoy Peace)と同義
(3)「状態」としての平和から「権利」としての平和概念に深化
(4)採択された国連宣言の条文:前文:略
 第1条 すべての人は、すべての人権が促進および保障され、ならびに、発展が十分に実現されるような平和を享受する権利を有する。
第2条 国家は、平和および無差別、正義および法の支配を尊重、実施および促進し、社会内および社会間の平和を構築する手段として、恐怖と欠乏からの自由を保障すべきである。
 第3条 国家、国際連合および専門機関、特に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は、この宣言を実施するために適切で持続可能な手段をとるべきである。国際機関、地域機関、国家機関、地方機関および市民社会は、この宣言の実施において支援し、援助することを奨励される。
 第4条 平和のための教育の国際および国家機関は、寛容、対話、協力および連帯の精神をすべての人間の間で強化するために促進されるものである。このため平和大学は、教育、研究、卒後研修および知識の普及に取り組むことにより、平和のために教育するという重大な普遍的な任務に貢献すべきである。
 第5条 この宣言のいかなる内容も国連の目的および原則に反するものと解釈してはならないものとする。この宣言の諸規定は、国連憲章、世界人権宣言および諸国によって批准される関係する国際および地域文書に沿って理解される。
4.これからの課題
(1)「平和への権利」国連宣言を広く知らせること
(2)「宣言」から「条約」へ
(3)日本で平和的生存権を認めた判例の先駆性の自覚とたたかいの展開
 ①1973 長沼訴訟札幌地裁判決:
自衛隊基地周辺の住民が第一攻撃目標になる危険の下に生活を強いられていることから平和に生きることを侵害していると判断
 ②2008 名古屋高裁判決:イラク戦争への加担・協力が強制される場合にも平和的生存権が侵害されていると判断
 ③2009 岡山地裁判決:第3次自衛隊イラク派遣差止め訴訟において、平和的生存権はすべての基本的人権の基底的権利であり、自由権的基本権であるとして最も積極的に判断
(4)地方といわれる地域での平和的生存権の確保と実践理論の構築
 ●日本国憲法前文:われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 ●第25条 ①すべての国民は、健康で文化的な生活を営む権利を有する。 ②国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
(5)深瀬忠一「総合的平和保障基本法試案」の継承     (文責・編集部)

エピローグ―「平和ピラミッド」構想に学ぶ
西森茂夫の「平和ピラミッド=平和形成体」試論 
1.平和的生存権確立の第一歩は人類が直面している危機の本質を知ることである。その危機は①急性のもの(核などの戦争)、②慢性のもの(生存基盤である環境破壊など人間生存の危機)があり、ともに現代の社会システムに由来する。それらは、特に資本主義社会の効率化の暴走に起因するが、それだけではない。私たちの生活向上の要求が経済的価値基準にもとづく短期的最適条件の追求へと偏向し、地球の有限性との矛盾に逢着していることの認識が重要である。
2.現代は人間と人間との矛盾の根底にある自然と人間との基本矛盾が顕在化している時代である。その克服に向けての第一歩が地域に根づいた平和ピラミッド=平和形成体づくりである。危機から人間を解放する真の自由への道の第一歩となろう。
3.平和ピラミッドと平和形成体という用語は彼の造語で、生物学における生態ピラミッドと形成体(ホロン、holon)という概念を応用したものである。
4.平和ピラミッドは、土台に植物群落があり、草原から森林、単層社会から複層社会へと安定した状態に向かって遷移する「生態ピラミッド」にヒントを得ている。地域に形成される平和ピラミッドは地域住民の共同および自然との共生の関係をつくりだす仕事の発達によって、権力や大企業の収奪から独立した生活文化圏のひろがり、つまり住民自治の発展によって成長し変化する。
5.生物学でいう形成体は生物の個体発生に特別な役割を果たす部分で、この形成体なしに胚は正常な発育をしない。高度に発達した産業社会において平和ピラミッドをつくり上げるためには、何らかの形成体が必要である。したがって平和ピラミッドは平和形成体でもある。
6.平和ピラミッドは生態系の概念と同様に地域性をもつ概念であり、地域によって多種多様である。と同時に地球を一つの平和ピラミッドにするという意識にもつながるものである。その機能は①自ら変革する機能、②社会に働きかける機能、③相互に働きかける機能、④ともに楽しみ自己表現を享受する機能、を備えており、近代的原理をもつ組織である。
7.平和ピラミッドはタテ軸が空間、ヨコ軸は時間で、四次元の世界である。その時間軸の現在は過去と未来をつなぐブリッジ(架け橋)である、という歴史意識を表現している。人間も含め自然界にあるすべてが歴史性をもち、たえず過去から学び、未来に責任をもつ長期的視野で考える習慣を身につけなければならない。人類の歴史は真の平和と自由を実現する歩みであり、そのプログラムの作成と実践が各地域の平和ピラミッドに課せられた国際的かつ人類史的任務である。
8.〝地域〟の原点は市町村の基礎自治体である。しかし、より小さい「コミュニティ」や、より大きな都道府県・広域圏を〝地域〟と考えてもいい。要は固有の生態系をもった生活圏に、固有の豊かな暮らしをつくっていくのが「平和」の内実なのである。なお彼は立論の起点を里山においており、森から里山、川、海辺、海へと流域単位で地域を捉えていることが刮目される。
9.従来、「生活」と「暮らし」の領域は、いのちと労働力の再生産、人格形成の場として考えられてきた。しかし「生活」の場である〝地域〟を生産と消費の行なわれる場として統一的に捉えることが必要である。さらに人間の活動と環境要素を統一的に捉えることによって、歴史の発展の前提をなす人間の物質的生活を全的に把握できる。また、そのことによって人間の主体的活動もいきいきと捉えられる。
10.私たちは労働者かつ消費者であり、また住民・国民でもある。これらいくつかの次元を統一する主体としての人間であってこそ「自由」を手に握ることが出来る。
11.資本主義社会の労働者は、物質的生産過程の主要部分では資本の直接支配におかれている。しかし、地域社会での生活は資本から独立した生活が可能である。労働者は資本に対して労働力は売るが、人格まで売りはしないからである。〝地域〟には生活過程における人格的独立と自由の可能性、民主主義的権利を発達させる足がかりがある。
12.この資本と権力から形式的にも独立した〝地域〟の特性に着目し、ここに民主的な共同体を組織していくことは、生産の場でのたたかいを軽視するものではない。また偏狭な「地域主義」に陥ることでもない。むしろ〝地域〟における住民としての能動性の高まりや、自律的な決定・執行過程を内部にもつ「共同体」の存在は、生産の場での労働者のたたかいを励ますものである。一方、労働組合は自らの労働力商品を出来るだけ高く売る要求=高賃金要求だけでなく、人間的な生活を守り向上させることを目的とする組織になることによって、地域でのたたかいとの連動が相乗され、平和ピラミッドの拡大・強化に貢献する。
13.日常のさりげない毎日の暮らしのなかで直面する悩みが、実は今日の世界構造そのものから直接生まれている課題となっているという事実から、〝地域〟に根ざすことが世界を変える力につながっていくことに確信をもちたい。
14.〝地域〟に形成される平和ピラミッドは、その底辺で繰り広げられている住民の生活の基本要素を医・職・充・治として捉える。医は医療と健康、職は生活資料の生産・流通・消費の全過程、充は充実感・生きがいをつくる教育・文化活動、そして治は自治・政治参加である。これらによって資本の攻勢に対してたたかいの戦略とたたかいの砦を手中にす ることが出来る。
15.個々バラバラにされていた住民は、たたかいのイメージを鮮明化し、展望をもつことによって、新しい「共同」と「協同」を生じ、受動文化から能動文化へ、そしてより積極的に歴史形成の主体として意識することが出来るようになる。
16.「平和資料館・草の家」(Grassroots House A Peace Museum in Kochi City, Japan)は平和ピラミッドの生活拠点(生活センター)であり、将来的には「総合協同組合・ホロン」が運営主体になろう。なお「草の家」という名称は単に人民・民衆の意味合いに留まらず、植物・自然をも意味している。また、平和資料館は細胞の核に相当し、歴史的事実を示す資料はDNAといえる。
17.平和と民主主義の関係を生活のレベルで捉える平和ピラミッド=平和形成体論は現代の統一戦線の理論でもある。

京都宗平協総会記念講演

天皇の「代替わり」儀式と憲法 (終)

歴史学者・神奈川大学名誉教授  中島 三千男

Ⅴ「平成の代替わり儀式」
(1989年~90年)はどのように行なわれたか
 さて、これまで「代替わり儀式」が時代によって大きく変化した事、江戸時代までは葬送儀礼においては「墳丘式陵墓」に変わり「堂塔式陵墓」が一般化し、葬儀も寺・僧侶によって行われたこと、また即位儀礼においても「袞冕十二章」に見られる中国(唐)風の装束、また「即位灌頂」に見られる神仏習合的儀式が一般的でありましたが、近代になって天皇をを中心とする国民国家を形成するために神勅神話、国家神道の教義ともいうべき天皇制正統神話に純化された儀式が行われるようになったことを述べてきました。
 登極令に規定された「践祚」にしろ「大礼」(「即位の礼」、「大嘗祭」)にしろ、そこでの儀式はこれまで見て来たように、この天皇制正統神話を可視化する儀式でありました。さらにこれにダメ押し的に付け加えるならば、そもそも大礼全体がまず「賢所の儀」に始まる「宮中三殿」での儀式に始まり、それで終わるというものでした。さらにその中の「即位の礼」にしても「大嘗祭」にしても、ここでも「賢所の儀」に始まる「宮中三殿」の儀式に始まっているのです。この他にも、伊勢神宮や神武天皇山陵に勅使を派遣したり、奉幣したり、さらには親閲したりと徹頭徹尾、天皇制正統神話につらぬかれているのです。
 さて、1945年の日本の敗戦は大きな社会の変革でありました。近代に創られた主権者・統治権者としての神権的・絶対主義的天皇制、それを支えた天皇制正統神話や国家神道は以下の数々の宣言、法律、施策によって否定されました。
 1945年12月の「神道指令」では「国家指定の宗教乃至祭式に対する信仰或は、信仰告白の強制より日本国民を解放するために…」、「日本政府、都道府県庁、市町村、あるいは官公吏、属官、雇員等にして、公的資格において神道の保証、支援、保全、監督ならびに弘布をすることを禁止する。…」として国家神道は解体されました。
 1946年1月1日の「天皇の人間宣言」(「新日本建設に関する詔書」)では「朕と爾等国民との紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものにあらず。天皇を以て現御神とするー架空の観念に基くものに非ず」と天皇の神格を否定しました。
 そして1946年11月に公布された日本国憲法では、「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」(憲法前文)。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」(第1条)と象徴天皇の存立理由を主権者である国民の総意に求め、それを天照大神の神勅(「天壌無窮の神勅」)に求めた戦前とはっきり異なることを示しています。
 さらに、憲法第20条においては、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」。
「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない」。「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と信教の自由と政教分離がはっきりと謳われているのです。
 また、1948年6月の「教育勅語等排除に関する決議」(衆議院)では、教育勅語の「根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている」、これは「明らかに基本的人権を損ない、且つ国際的信義に対しても疑点を残すもととなる」としてその排除の措置を決議しています。
 小熊英二氏は「朝日新聞紙上」で次のような事を述べています。「戦後と言う言葉が、戦後はもう終わったとか何度かその概念の有効性を疑う議論はあったが、それにも拘わらず今日に至るまで使われ続けているのは、戦後という言葉が建国と同じ意味をもって多くの日本人に受け止められているからであろう」。
 つまり、多くの日本人は敗戦を通じて新しい国に生まれ変わったと認識してきたのです。司馬遼太郎の言い草で云えば「国のかたち」が変わったのです。
 だとするならば、明治維新の変革を契機に「代替わり儀式」の在りようが大きく変わったように、戦後、最初の代替わり儀式であった「平成の代替わり儀式」(1989年~90年)は戦前の天皇制正統神話に基づくものとは大きく異なる形で行われるべきでありました。
 事実、戦後の皇室典範においては「戦前の皇室典範」に明記されていた「天皇が崩ずるときは皇嗣即ち践祚し祖宗の神器を承く」(第10条)、「即位の礼及大嘗祭は京都に於て之を行う」(第11条)「践祚の後元号を建て、一世の間に再び改めざること明治元年の定制に従う」(第12条)のように「践祚」や「大嘗祭」、「祖宗の神器」(三種の神器)を受けること、元号を建て「一世一元」にすることは規定されず、即位に関連する事項としては、ただ「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」と「即位の礼」のみの執行が規定されているだけでありました。
 しかし、現実に行われた「平成の代替わり儀式」では「践祚」や「大嘗祭」も「即位の礼」の一環だと強引に拡張解釈して、戦前の登極令に規定されていた30余の儀式、「賢所の儀」「皇霊殿・神殿」の儀、「神宮」や「神武天皇山陵」に勅使を発遣する等の儀を含めてほぼそのままの形でおこなったのです。
 但しもちろん「引き算の論理」あるいは「読み替えの論理」というトリックを使って。即ち、30余の儀式の内、宗教的性格の薄い、あるいは薄いと強弁しうるものについては、表現を若干変えることも含めて、あるいは一部新設して「剣璽等承継の儀」(登極令の「剣璽渡御の儀」)、「即位後朝見の儀」(同「践祚後朝見の儀」)、「即位礼正殿の儀」(同「即位礼当日紫宸殿の儀」)、「祝賀御列の儀」(新設)及び「大饗」(登極令に同じ)の5つの儀式を「国事行為」として行い、後は宗教的性格が強いとして」「皇室行事」として位置づけて執行したのです。ただ、大嘗祭はまるまる宗教的儀式であるので国事行為とはしませんでしたが、大嘗祭の性格を天皇が神聖性を身につけるために行うものとの考えを否定、隠蔽し、国家国民の安寧と五穀豊穣を祈念する儀式と位置付けるとともに皇位が世襲であることに伴う一世に一度の極めて伝統的な皇位継承儀式として「公的性格」を持つ行事としておこなったのです。こうして、戦前の天皇制正統神話にもとづいて作られた登極令の30余の儀式を一つ一つ「国事行為」「公的儀式」「皇室行事(私的儀式)」と位置付けて(「読み替えの論理」「引き算の論理」)、結局全ての儀式をおこなったのです。
 なお、30年前の「平成の代替わり儀式」の段階では、一般的には「国事行為」は国の行事として内閣の予算から、そして「私的行事」は皇室行事として宮内省予算の皇室費のうちの内廷費から、そして大嘗祭のような「公的儀式」と位置付けられたものは皇室費の内の宮廷費から支出されたと理解されていました。内廷費は皇室の私的生活を支える予算で、宮中祭祀なども政教分離原則を考慮して、ここから支出されています。
 しかし、今日では「公的性格」を持つ儀式とされた大嘗祭だけではなく、皇室行事(私的行事)とされた「賢所」などの宮中三殿の儀式、普段なら宮中祭祀として内廷費から支出行われている儀式も、公的性格を持つ宮廷費から支出した事が明らかになっています。即位行事の一環として行われたものであるという位置づけからでありましょうが、宮中祭祀の公的化、政教分離原則の曖昧化として注視しておく必要があります。
 また、こうした政教分離原則に関わる点だけではなく、国民主権原理からも「即位後朝見の儀」の「朝見」(臣下が参内して天子に拝謁する事)の言葉のように、また、「剣璽等承継の儀」に女性皇族が同席できないことなど国民主権の原則や「両性」の平等の原則などの憲法の原理と抵触する側面を強くもっているものでありました。
Ⅵ 憲法原理にふさわしい即位儀式を
 さて、「平成の代替わり儀式」が戦後の国家理念と異なる、戦前の登極令に準拠した天皇制正統神話にもとづくものであり、憲法の国民主権や政教分離、男女の平等などの憲法原則に抵触するものであるということを指摘しました。
「Ⅰ」のところで指摘したように、政府の「基本方針」では今回の代替わり儀式を「平成の代替わり」に準拠して5つの行事を国事行為として行い、大嘗祭も公的性格をもった儀式として執行しようとしています。
 しかも重大なのは、政府がこれまで公式に明らかにしてきたのは、この5つの国事行為と1つの公的儀式として行う儀式だけで、あたかも今回の代替わり儀式はこの併せて6つの儀式が行われるだけと勘違いしている人が多いのです。しかし政府は直前まで隠していますが、「平成の代替わり儀式」に準拠するというのは、先に指摘したように、この他の「宮中三殿」に関わる儀式や伊勢神宮や神武天皇山陵に関わる多くの宗教儀式、宮中祭祀の儀式を含む30余の儀式も行われるのです。
 「平成の代替わり儀式」の際にはそのような本質を持つものであったため、社会党や共産党だけではなく、キリスト者を中心に多くの宗教者や民主主義勢力が批判の声を挙げました。しかし、今回は全く無風です。わずかに日本共産党が憲法原則に沿った儀式を行うべきだと政府に申し入れをしたり、政教分離の会や日本カトリック司教協議会、日本基督教団総会議長他二、三の宗教団体が反対の声明を出しているだけです。民主的勢力にいたっては中央段階の声明は管見のかぎりゼロです。
 この背景には、戦争責任等の問題が絡んでいた昭和天皇と違って、現天皇は安倍政権に対抗する護憲の天皇であるという認識が横たわっていて、そのような天皇が関わる儀式が悪いものになるはずがないという思い込みがあるのではないかと思っています。しかし、儀式行事を取り仕切るのは安倍政権であることを忘れてはなりません。
 これとは対照的に、安倍政権を支える日本会議や神道政治連盟に繋がる人々は今回の代替わり儀式にあたって最低限「平成の代替わり」儀式のやり方を踏襲する事、出来れば「平成の代替わり以上に登極令に戻す」ことなど、平成より「天皇制正統神話」の理念に一歩でも二歩でも近づくものにすることを目標として精力的に動いております。
 これまで述べてきた政府の「基本方針」そのものがこれらの人々の運動の結果、成果なのですが、マスコミ報道によると、これらの人々が、現在最も強く働きかけいるのが、新元号の決定時期です。当初は安倍政権自身も国民生活の影響を考えて半年以上も前に早目に新元号を決定する予定でした。ところが戦前の登極令に規定しているように、元号と新天皇の即位をセット(一世一元の制の理念)に考えるべきだというこれらの人々の働きかけによって、現在は限りなく新天皇の即位の時期に近くなっているとの事です。
 安倍政権は現在、当面4項目に絞って改憲することをめざしていますが、そもそも自民党の改憲案の中には「天皇は日本国の元首であり…」(第1条)、また第6条第5項では「…天皇は国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的行為を行う」と天皇の権威を高め憲法上の活動の範囲を広めようしています。さらには第20条信教の自由規定の第3項では「国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。」に「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」と「特定の」という文言や「社会的儀礼又は習俗的行為」を名目に、神道儀式を政教分離規定の対象から外し、厳格な政教分離規定を曖昧なものにしようと狙っています。
 こうした点は今まで述べて来たように、天皇の代替わり儀式にも直接関わる問題ですが私がより深刻に考えていることは改憲草案に流れている、戦前回帰的性格、「戦後レジームからの脱極」、「日本国憲法は恥ずべきものである」という考えに基づいて、戦前の天皇制正統神話に基づく登極令的「代替わり儀式」を挙行させることの意味です。
 「代替わり儀式」とは時代によって大きく変化する事、その意味ではその時代の国家社会の在りようを内外に示すものだとするならば、来年予定されているような「代替わり儀式」を行なわせることは、安倍政権が抱いている戦前と戦後の変革の意味を曖昧にする、いわば「明治150年」史観を大勢の国内外の賓客、そして国民の前で目に見える形で演じてみせ、記憶の中に刻み込ませることになるのです。
 1945年の敗戦以降、私たちは、また日本の国家・社会は戦前とは異なる理想、夢、物語を抱いて歩んできましたが、その歩みの死を宣告されるようなものです。
 憲法9条の改悪に反対する多くの団体が、来年行なわれようとしているこの憲法の理念に真っ向から対立する「代替わり儀式」についてもしっかりと学習し、各団体、個人が批判の声明を出し、国民主権や政教分離といった憲法原則にふさわしい代替わり儀式にするよう政府に要請することが早急に求められているのではないでしょうか。終

(本稿は2018年6月29日、30日に行われた大阪宗教者平和協議会、京都宗教者平和協議会主催の講演テープを編集部が起こしたものである。)
【訂正】『宗教と平和』第596号、3頁上段後ろから7行「上皇妃」↓「上皇后」に訂正

鳥取県宗教者平和協議会(準備会)結成アピール

 日本宗教者平和協議会(略称・日本宗平協)は、宗教宗派の違いを超えて、平和と人類の幸福のために寄与するため、「共同」する団体で、「心の内なる平和と外なる世界の平和」のために「平和の祈りを行動の波へ」をスローガンに1962年の創立以来、平和と自由・正義と人間の尊厳を守る取り組みを進めてきました。
 鳥取県では、今日まで、個々の宗教者がそれぞれの立場で平和と自由・民主主義等の活動を行ってきていますが、県内の宗教者の共同の行動は実現して来ませんでした。
 今日、はじめて県内の宗教者が宗教宗派を超えて、「鳥取県宗平協」結成をめざして集まることができたことは、歴史的で重要は一歩です。今後、「鳥取県宗平協」結成までを準備会として宗教者の「共同」の活動を広げていきます。
 国会では、11月29日、自民・公明の与党によって、衆院憲法審査会が強行開催されました。これは、今臨時国会での「9条改憲案提示」が、国民世論の前に困難な状況に追い込まれたことを、安倍政権が強行突破を図ろうとしたもので、「9条改憲」への強い執念と焦りの表れです。さらに、原発再稼働、消費税10%増税などの悪政をも加速しています。
 このような時に、宗教者が声を上げることは大きな意味と役割があります。
 そこで、鳥取県宗教者平和協議会(略称・鳥取県宗平協)結成にむけて、よりたくさんの宗教者の当会への参加を呼びかけます。
2018年11月30日
           鳥取県宗教者平和協議会(準備会)
世話人  瀬山 会治(日本聖公会) 信原 和裕(真宗本願寺派) 真壁 紹範(曹洞宗) 山名 大朗(真宗本願寺派) 事務局長 渡辺 大修(曹洞宗)

「遺骨奉還宗教者市民連絡会」結成と壱岐への朝鮮人遺骨移管 (上)
   広島県宗教者平和協議会事務局長 吉川 徹忍 
(浄土真宗本願寺派僧侶、非核の政府を求める広島の会常任世話人)

はじめに
 2018年1030日、韓国大法院は元徴用工4人が新日鉄住金に対して損害賠償を求めた裁判で支払いを命ずる判決を確定した。これに対して安倍政権は「完全かつ最終的に解決している」として全面拒否し、ほとんどの日本のマスメディア論調が、政府の態度に追随した。
 しかし1991年8月の参議院予算委員会で、当時の外務省条約局長は日韓請求権協定について「個人の請求権そのものを消滅させたというものではない」と明言している。2007年4月、中国の強制連行被害者が西松建設相手の裁判でも、日本の最高裁判所は「個人の請求権を実態的に消滅させることまでを意味するものではない」と判示した。1811月5日、「弁護士有志声明」は、「世界人権宣言8条」に触れ、重大な人権侵害に起因する個人の請求権を国家が消滅出来ないことは、個人の人権侵害の救済を図ろうとする国際人権法に沿うとし、安倍政権の考えは国際法にそぐわないとした。
 日本は過去、朝鮮半島に不法な植民地支配と侵略戦争を行い、日本の企業も強制動員・労働を行い、全国の炭鉱・ダム・工場で悲惨な不法行為がなされ多くの人権・命が奪われた。1965年日韓請求権協定の交渉過程で、日本政府は反省も謝罪もしていない。日本政府・該当企業は被害者の思いに寄り添い尊厳・名誉を回復するために、韓国側と真剣で誠実な話し合いを行う必要がある。それなくして東アジアでの和解と友好、平和は築けない。
 もちろん未精算のまま日本に取り残されている「朝鮮人遺骨問題」もその一つである。
1 壱岐での朝鮮人犠牲者追悼
 敗戦後の1945年9月1718日は枕崎台風、101011日には阿久根台風が西日本を襲った。阿久根台風では長崎県壱岐島・芦辺湾に係留されていた闇船とも言われる徴用工と家族の人たちが乗船していた朝鮮への引き揚げ船が転覆大破した。芦辺町(現壱岐市)文書によると生存は33名、遺体168名が確認された。住民の手で島内に埋葬された。地元の天徳寺(曹洞宗)では遭難事故以来毎年10月、朝鮮人犠牲者追悼を執り行ってきた。1967年には地元有志が費用を出し合って「大韓民国人芦辺港遭難慰霊碑」建立。亡くなった出身地域との関わりで、1998年以降、水谷寺(韓国慶州市)と隔年で相互に合同法要を勤めてきた。仏国寺(世界遺産)や天徳寺・水谷寺に集う日韓の僧侶・市民が参列しての法要は今日に至っている。ちなみに9月の枕崎台風では対馬にも多くの朝鮮人の犠牲者が浜辺に打ち上げられていた。
2 深川宗俊氏らによる壱岐での遺骨発掘
 壱岐島に放置されていた朝鮮人の遺体に心を痛め注目したのが、今は亡き広島の歌人・深川宗俊氏(三菱広島・元徴用工被爆者裁判を支援する会共同代表、1921ー2008)だった。 深川氏は広島三菱重工業で朝鮮人労働者の労務管理をしていたが、見送ったはずの246人全員帰国していない事実が判明した。以後行方を追跡し、1976年8月、広島の市民団体の10数名と共に、芦辺町清石浜で86体の遺骨発掘、荼毘にふされ広島へ持ち帰った。深川氏執筆の『鎮魂の海峡』(現代史出版会、1974年9月25日発行)で詳細に報告された。しかし、三菱重工業との関連性示す手掛かりは出なかった(ただ全く無関係とも言い切れない)。
日本政府・企業は植民地政策で多くの朝鮮人を強制労働させ、何ら責任を取ろうとしていなかった。やむを得ず、帰国を願う朝鮮人は自分たちだけでなけなしの費用で木造船を手配し、玄界灘を渡らざるをえなく祖国を目の前に多くの遭難者が出たと言われる。深川氏の願いは何よりも不本意に異郷の地に渡り或いは連れてこられ、戦争が終わりやっと帰郷しようとした矢先に亡くなった遺骨を発掘し、故郷にお返しすることであった。時期、遺体の様子から対馬の遺骨が被爆三菱徴用工の可能性(韓国の政府機関「強制動員真相究明委員会」)が高い。
 ただ、深川氏たち広島の市民団体の取り組みがきっかけになり、「民間徴用者の遺骨問題は日韓外交の場や国会でも取り上げられるようになった」(週刊「仏教タイムス」、18年5月10日)。ついに1983・84年、政府(厚生省・外務省遺骨調査団)による対馬(壱岐島でも調査)で被爆三菱徴用工とみられる朝鮮人遺骨調査・発掘で45体が収集された。「日本政府自ら朝鮮人遺骨発掘に取り組んだ非常に珍しい事例」(「ハンギョレ新聞」(18年6月5日)となった。「深川氏らの熱意が事態を前進」(週刊「仏教タイムス」18年6月14日)させたことは間違いない。   (つづく)

山家妄想  第一次世界大戦と日本

〇第一次大戦終結100年となる1111日、ヨーロッパでは各地で大戦を記念する集会や戦没者を追悼する行事がおこなわれ、当時戦争反対を叫んだ人たちを思い起こし、現在も各地で続く戦争を終わらせるために行動すべきだと訴えられた。パリ郊外の米国兵士が埋葬されている墓地で予定されていた慰霊行事に、トランプ大統領が飛行機の欠航を理由に欠席したことに対しては批判の声が上がっている。パリ郊外で開かれた記念の式典には、あの麻生副総理が出席し60か国以上の首脳や国際機関幹部とともに無名戦士の墓のある凱旋門で戦没者を追悼したというが、日本ではいっこうに関心がもたれているようにも思えない。
〇第一次大戦の意義はなにか、日本とのかかわりはどうであったのかを振り返ってみることも、あながち意味のないことでもあるまい。広辞苑は「三国同盟と三国協商との対立を背景として起こった世界的規模の大戦争。サラエボ事件を導火線として1914年7月オーストリアはセルビアに宣戦、セルビアを後援するロシアに対抗してドイツが露・仏・英と相次いで開戦、同盟側と協商側との国際戦争に拡大。最後まで頑強に戦ったドイツも1811月に降伏。翌年ベルサイユ条約によって講和成立」とある。
〇社会科学総合辞典は「世界の再分割を目指す帝国主義戦争。30数カ国がまきこまれ、その死傷者数は2200万人(死者855万人)にのぼった」と記す。この多数の犠牲者の出現は、科学技術が戦車や飛行機など大量破壊兵器の飛躍的な発展をもたらし、毒ガスなど非人道兵器の使用によって前線と銃後の区別がなくなった戦争の様相の変化による。戦争は交戦各国の国内矛盾を深化させ、ロシアにおける「社会主義革命」敗戦ドイツにおける革命をもたらし、歴史は新しい段階に入る。ベルサイユ体制下では不戦条約の締結・毒ガスなど非人道兵器の禁止などの国際的合意がもたらされる。戦争犠牲者の追悼は、このような戦後の進化をもたらした犠牲への追悼・顕彰でもあるのである。行事への欠席に対する非難はその意味を貶めることへの非難をも含むのである。
〇この戦争に際して、アメリカは直接の戦場となることを免れ、「中立国として交戦各国に軍需品を輸出して、莫大な利潤を上げ、17年ドイツ潜水艦による通商破壊を口実にドイツに宣戦し、この大戦をへて債務国から債権国となり、戦後世界政治への発言力を強めた」また「日本資本主義もこの戦争を利用して本格的に独占資本主義段階に移行し、重化学工業や海運業を発展させ、『戦争成金』を輩出させた。また日本は日英同盟をたてに中国にあるドイツの軍事拠点を攻撃するという口実で、中国での利権拡張をめざし、山東に出兵し、青島、ドイツ領南洋諸島の北半を占領した」と前記辞典は説明する。
〇日本が中国政府に対し「21カ条の要求」を突き付け植民地化を図ったことが、アメリカをして中国政府に対ドイツ宣戦をさせることに結果し、日本の野望を阻止することになった。追悼・記念の行事に対する冷たい空気に示されるように、日本はこの大戦からの教訓を学んでいない。例えば、残虐兵器に関しても瀬戸内海の小島において毒ガスの製造を続け、中国平房で731部隊による人体実験など残虐な作戦の研究・実行を続け、敗戦後も実験資料を米国に提供する見返りに戦犯としての追及を免れ、戦後日本医学界の重鎮となったという。
〇姫路船場本徳寺には、小野市の「青野ヶ原収容所」に移るまで、ドイツ軍捕虜447名が収容されていた。病没した3名の墓標も姫路名古山墓地に現存する。本徳寺には捕虜の作ったドイツの城の模型もあった。大戦終了後「日本に残留して就職を希望するもの12名」という記録もある。ドイツ兵捕虜と日本人の心温まる交流も知られている。たとえ敵となろうとも同じ「先進国」の兵士にたいしては人間として接したのである。しかし中国に対しては膺懲すべき不逞の輩だった。
〇今100年の節目を迎える第一次大戦を振り返っても、アジア諸国に対する日本の責任は重くのしかかっていることを実感するのである。わたしたちはこの長く重い責任を自覚しているだろうか。
(2018・1120)  水田全一・妙心寺派の一老僧