2018年 日本宗教者平和会議 in 山形・鶴岡を開催
本年度の日本宗教者平和会議は、10月22日、23日、24日の3日間の日程で、山形県鶴岡市で開催されました。
東北での開催は初、本年は日本海を臨む鶴岡市にて、出羽三山の一つ羽黒山を巡り、修験道を育んで来た歴史と現状を学び、且つ、「西の灘・神戸、東の鶴岡」と称される地域共同組合の理論と実践を見聞する機会を得ました。
初日は行程の都合上、到着後羽黒山五重塔を見学し、深い杉木立の中に威風堂々とそびえ立つ平安中期建立(伝)の国宝が見学でき、翌日の講話に期待が増しました。
会場の休暇村羽黒に到着後、平和会議開催。岸田正博副理事長の司会・進行。参加者一同が自然災害の犠牲者に黙祷の後、荒川庸生理事長代行が挨拶。開催地山形宗平協から木村宏嗣会長が歓迎の言葉を述べました。
平和会議の講演は、大高全洋山形大学名誉教授。農業・食糧経済学、協同組合理論専攻の立場から、テーマを『平和への権利 国連宣言と地域共同組合運動』とし、サブテーマには、“揺りかごから墓場までの協同実践と「平和ピラミッド」構想”が掲げられ、約1時間の講演が展開されました。
冒頭、大高氏は、「世界には、私たちの必要を満たしてくれるものはたくさんある。しかし、一人の人間の欲望を満たすには充分ではない。」…マハトマ・ガンジーの言葉を引用され、国連軍縮週間が始まる中で、国連宣言「平和への権利」をめぐる現在の世界情勢への危惧を指摘しました。
そして、本論である、協同組合運動の理念と歴史の項では、国連の「平和の内に生活する権利」を生かす諸条項、日本国憲法前文や第25条の条文が紹介されました。世界の流れから日本国内でのあゆみの歴史、ここ庄内平野で展開されてきた生活協同組合共立社の地域協同実践の報告を聞き学ぶことができました。
私たちのくらしの中での様々な形態が、農協・生協・漁協・医療生協・福祉生協・森林組合・健友会等々の異種協同組合間の提携として鶴岡で実を結んできた経緯を学ぶと共に、「地域に形成される平和ピラミッドは、その底辺で繰り広げられている住民の生活基本要素を『医・職・充・治』と捉える」構想が話され、翌日の鶴岡市内各生協施設の見学へと期待が深まりました。
特別報告では、宗教ジャーナリストの柿田睦夫氏による『いま創価学会は?』のタイトルで講演。(内容の詳細は次号以降で紹介します。最新の著書『創価学会の変貌』の紹介もありました。
会が進むにつれて、地元山形からの参加者も続々と来場し、会場は満席を超え盛会となりました。(参加者は約80人)『平和の祈りを行動の波へ…共同ひろげ憲法九条を守りましょう』のアピール案を提案し採択しました。
2日目は、『山岳宗教集落のくらしと修験道』―「信仰のお山」と氏子のくらしーの講話が、出羽三山神社責任役員理事である斉藤三郎氏よりありました。月山農場代表取締役であり、生協庄内親生会専務理事でもある斉藤氏が、民俗宗教を母胎とし民間宗教者が支える修験道、山の神の世界を約1時間にわたり講演しました。河崎俊栄代表委員が閉会の言葉で締めくくりました。
その後のフィールドワークでは、まず曹洞宗泉流寺に参拝。この寺に明治末に生まれ32歳で早逝した反戦エスペランティスト・僧侶の斉藤秀一の生涯について、地元の鈴木良春氏の解説を聞きながら学びました。
午後、鶴岡市内の協同組合連携の各施設を見学。生活協同組合共立社を訪問し、松本政裕常任顧問から、安心して住み続けられるまちづくりの実践報告を聞きました。 次いで、『コープ協同の苑(共同墓地・納骨堂)』【写真】の視察、そして、医療生協やまがたの協和病院で黒子和彦医師から医療生協の歴史の講義と続き、まさに前日の大高教授の講演中の“揺りかごから墓場までの協同実践”の理論が具体的に展開されている現場をつぶさに見学することができました。
最後に、曹洞宗禅龍寺(木村宏嗣住職、山形宗平協)に参拝し、平和観音像拝観、国民平和大行進時の中継拠点報告を聞き二日目の行程を終えました。宿に向かう途中に見えた沈む夕日の美しさに感動しました。
九州大分から秋田まで、そして地元山形の多くの参加者で構成された今回の平和会議開催に当たり、山形宗平協木村宏嗣会長、大高敦子事務局長、加藤太一氏はじめ鶴岡市の方々の入念な準備と丁寧な案内に敬意と感謝を表します。盛会を共に喜び、今後の活動に生かすべく進んでいくことを期して鶴岡をあとにしました。(編集部)
天皇の代替わり儀式と憲法 ②
歴史学者・神奈川大学名誉教授 中島三千男
Ⅲ 天皇制正統神話(神勅神話)
さて、いままで見てきた近代以前の「代替わり儀式」は近代になって大きく改変させられていきます。それがどのように改変させられていったのか、神仏習合的仏教に変わって、その改変の理念とされた、国家神道の教義ともいうべき「天皇制正統神話」あるいは「神勅神話」と言うものを見ておきたいと思います。
近代以前の国家は基本的に支配身分だけを統合の対象にしておりましたが、近代国家というのは国民国家といわれるように被支配分のものをも含めてそれらを国民として統合するという特徴を持っています。明治維新に始まる日本の近代国家はそれを神権的天皇の押し出しによって成し遂げようとします。しかし、それまでの被支配身分の人々は京都市中の者を除いては基本的には肝心の天皇の存在を知りませんでした。
そのために、神仏分離(廃仏毀釈)を断行して神道中心主義を作りあげたり、1人の天皇の在世中は元号を変えない「一世一元制」を定めたり、旧来の五節句に変わり天皇・宮中祭祀中心主義の祝祭日を定めたり、全国各地を巡航して生身の天皇の姿を国民の前に晒したり、さらには教育勅語を中心とする教育政策など、さまざまな政策を駆使しあらゆる機会をとらえて、この神権的天皇像を国民の間に浸透させようとします。そして、それらの政策の理念に据えられたのが「天皇制正統神話」、「神勅神話」と言われるものです。
今日御出席の皆さんは、いわゆる戦後の民主教育の中で神話なぞ非科学的なものだと全く素通り、あるいは排除してきたと思うのですが、現在では違っております。学校教育(教科書)や漫画、アニメ等で今の子供たち、若者は私たちよりはるかに日本の神話と言われるものの知識を持っているだけではなく、それに対する親和性を持っています。その意味で私たちも神話と言うものについてしっかりした知識を持つことが大事だと思っております(もっとも神話一般と「天皇制正統神話」というのはイコールではありませんが)。
「天皇制正統神話」によれば日本の国土を作ったのは天上界(高天原)のイザナギノミコトとイザナミノミコトという男女神で、この二神は最後に光り輝く素晴らしい神を生みます。これが天皇家の祖先神(皇祖)とされる天照大神(アマテラスオオカミ)です。
次に天照大神は日本の国土を治めるために、孫のニニギノミコトを、九州の日向・高千穂の嶺に降ろします(「天孫降臨」)。降り立ったニニギノミコトのひ孫のカムヤマトイワレヒコは日本を統治するためには国中(くになか)に行かなければならないと、九州・日向を出て東方に向い大和の橿原宮で即位します(「神武東征」)。これが初代の神武天皇で日本という国もここから始まるというものです(「紀元節」、「建国記念の日」の由来)。以来、天皇家は現在の「125代」明仁天皇まで連綿と続いているというのです。この初代の神武天皇のことを「皇宗」(宗=首位の者)というのです。
また、天照大神がニニギノミコトを地上に降ろす時に大事な物(ㇾガリア=王位を象徴する物)と言葉(三大神勅)を授けます。
ㇾガリアとは三種の神器で、鏡(八咫の鏡・やたのかがみ)、剣(天叢雲剣・あめのむらくものつるぎ)、勾玉(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)の三つの品です。三大神勅とは「天壌無窮の神勅(てんじようむきゅうのしんちよく)」、「宝鏡奉斎の神勅(ほうきょうほうさいのしんちよく)」、「斎庭稲穂の神勅(ゆにはのいなほのしんちよく)」です。
「天壌無窮の神勅」とは「豊葦原の千五百(ちいほ)秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王たるべき地なり。よろしく爾(なんじ)皇孫(すめみま)就(ゆい)て治せ。行矣(さきくませ)。寶祚の隆えまさむこと、當に天壌(あめつち)と窮りなかるべし」というもので、美しい実り豊かな日本と言う国は神国であり、そこを治めるのは私、天照大神の子孫である者(天皇)だけであり、天皇とそれが統治する国は永遠に発展するというものです。三つの神勅の中で日本の国家(国体)の本質を表す最も重要な神勅とされ、ただ「神勅」と言われる場合はこの「天壌無窮の神勅」を指しました。
「宝鏡奉斎の神勅」は「此れの鏡は、専(もは)ら我が御魂として、吾が御前を拝(いつ)くがごと、斎(いつ)きまつれ」と
いうもので、この鏡は私、天照大神の魂として、私を拝するように大事に祀りなさいというもの。三種の神器の中で「鏡」というものの特別性を謳ったものであります。「鏡」というのは、天照大神そのものあるいは御分身なんですね。伊勢神宮(内宮)に祀られ、その聖なるレプリカ(写)が宮中三殿の中心、「賢所」に祀られているのです。
それから、次の「斎庭稲穂の神勅」は、「吾が高天原に御(きこしめ)す斎(ゆ)庭(にわ)の穂(いなほ)を以て亦吾が児に御(まかせ)せまつる」
というもので、高天原で育てられた一握りの稲束を天照大神がこれで日本人を育みなさいと授けるもので、日本人の主食とされてきた米の来歴やその大切さを教えるものであり、また、大嘗祭の由縁とされるものであります。
以上が三大神勅といわれるものですが、これは明治国家の政治的、精神的支柱の根本理念となりました。歴史学では、これを「神勅主権主義」といっています。例えば大日本帝国憲法の「告文」には「皇朕れ天壌無窮の宏謨に循い惟神の寶祚を承継し…茲に皇室典範及憲法を制定す…」とありますし、教育勅語をみましても「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠に徳を樹つること深厚なり」とあります。
従って、この三大神勅は事あるごとに国民の中に浸透させられていたようです。
実は、京都での講演を前にして上門玲子さんから『宗教と平和・京都版』(2018年6月号)を送っていただきましたがその中に日本宗教者平和協議会代表委員の大江真道さん(日本聖公会司祭)の「戦時中の記億の解析」という文章があり、そこで大江さん自身が通った旧制中学校(岐阜県高山市の斐太中学校、現県立斐太高校)時代の『生徒教典』(昭和18年6月発行)なるものの目次が紹介されていました(集会当日に大江先生より実物を拝見させていただき、重要な部分のコピーも戴きました)。全部で22にも及ぶ項目があるのですが4「五箇条の御誓文」、5「軍人に賜りたる勅諭」、6「憲法発布の勅語」、7「教育に関する勅語」(以下略)など私共も知っている勅語等がズラーっと掲載されているのですが、この1~3に三大神勅がそれぞれ掲載されているのです。大江さんは集会のたびごとに三大神勅を朗詠させられた、と書いていますが、この『生徒教典』は天皇制正統神話の浸透の様を知ることが出来るとともに、何よりも先の配列順序、4、5、6、7…の前に1~3あるということは、近代日本の根幹である政治(「五箇条の御誓文」、「憲法発布の勅語」)、軍事(「軍人に賜りたる勅諭」)、教育(「教育に関する勅語」)の基礎、前提にこの三大神勅、「天皇制正統神話」があることを如実に示しているように思います。
したがってまた、これから見る近代の代替わり儀式も、結論を先取りして言えば、この「天皇制正統神話」の理念のもとに作られ、この「天皇制正統神話」を目に見える形で(可視化)国民、また国際社会の前でパフオーマンスするものであるということです。
Ⅳ 近代の代替わり儀式
近代の代替わり儀式は、明治天皇の即位礼(1868・明治元年)や大嘗祭(1871・明治4年)、さらには英照皇太后(孝明天皇のに女御)の葬儀(1897・明治30年)などを踏まえて、法制的には皇室典範(1889・明治22年)と即位儀礼に関しては登極令(1909・明治42年)、葬送儀礼にかんしては皇室喪儀令、皇室陵墓令(1925・大正14年、実質は明治末年に出来上がる)などによって定式化されます。その特徴は三つあります。
一つはそれまでの神仏習合的また中国(唐風)の即位儀式を廃止し、天皇制正統神話にもとづくものにしたこと。二つ目は近代国民国家の理念を受けて国民統合の意味を重視したこと。三つ目はそれらの原則を維持しつつ部分的に西欧近代の王室の影響を受けて皇室儀礼の欧風化をしたことです。そして、これらは明治の初年からの試行錯誤を経て先の法制によって定式化されるのです。
皇室典範や登極令、皇室喪儀令・皇室陵墓令によって定式化された代替わり儀式について見る前に。そこに至るいわば過渡期の状況について見ていきたいと思います。
まず、明治天皇の即位の礼について。明治天皇は孝明天皇の死を受けて、1867(慶応3)年1月9日に践祚を行い即位しますが、その即位式は翌年1868年(明治元)8月27日に行われます。ここではそれまでの中国(唐)風の「袞冕十二章」の服制を廃止し衣冠束帯の姿で行われましたし、また同年3月の神仏判然令(神仏分離令、以後廃仏毀釈運動起る)を受けて、神仏習合的な「即位灌頂」他のものも廃止されました。また、直後の9月8日には明治と改元すると共に一世一元の制を定めました。
1871(明治4)年11月の大嘗祭は史上初めて「首都」とされた東京で行われましたが、大嘗祭に使う新穀を栽培する悠紀田、主基田はこれまで京都を中心とする畿内近国(丹波国や近江国)という地域的偏りをもっていましたがこれが打破し東京を中心として甲斐国(山梨県)と安房国(千葉県)から選ばれました(悠紀国は都を中心に東方、主基国は西方から選ばれることが原則ですが、なぜかこの時は逆になっています)。また同じく大嘗祭に供える「庭積机代物」(にわづみのつくえしろもの。各地方からお供えされる特産物、農林水産物を大嘗宮の庭に机を置いて供える)を全国から集めるという新儀を行いました。これはその後も継続されますが、これらは近代国民国家形成に伴う、国民の動員に対応したものでありました。
また、1897(明治30)年2月には英照皇太后(孝明天皇の女御)の葬儀が行われました。先に陵墓のところでみましたが、幕末の最後の天皇、孝明天皇の墓はそれまでの「堂塔式陵墓」ではなく「墳丘式陵墓」として復活した事を述べましたが、しかし葬儀そのものは泉涌寺の僧侶たちによって仏式で執り行われました。しかし、この英照皇太后の葬儀は場所こそ泉涌寺の境内で行われましたが、白木造り檜皮葺の御斎場が設けられ、また葬儀に僧侶が関わることは一切なく、喪主となった華族たちによって祭詞や誄が奏せられるなど神式で執り行われました(陵墓は孝明天皇の隣、後月輪東北陵)。これは後の明治天皇の大喪に引き継がれ、皇室喪儀令や皇室陵墓令に定式化されました。葬儀の場所や陵墓の位置が完全に寺(泉涌寺)から離れるのは明治天皇からであります(葬儀は東京・現明治神宮外苑、陵墓は京都伏見桃山御陵)。
さて、このように明治維新以降のいくつかの「代替わり儀式」の挙行を経て、明治政府は特に英照皇太后の大喪以降、1899(明治32)年に伊藤博文を総裁とする帝室調査制度局が設置するなど本格的な体系的な検討をはじめ、先に述べた諸法が皇室令として公布されたのです。
それでは本題の即位に関わる儀式を登極令から見ていきましょう。
この登極令による即位儀式の特徴はまず外形的には、これまで「践祚」、「即位礼」、「大嘗祭」と三段階で行われた儀式を「践祚」と「即位礼及び大嘗祭」とに二分化し、後者を「大礼」(大典)として「秋・冬」の間に連続して挙行することにした点であります。また、理念的には当然のことながら、先に述べた近代の代替わり儀式の三つの特色を全て備えていました。例えば二つ目の国民統合という点では先に述べた明治天皇の大嘗祭で見られた「庭積机代物」は引き継がれ、また「大礼」期間中は1年がかりで全国民による奉祝行事や記念事業が取り組まれました。三つ目の国際化、欧風化については即位の礼の「紫宸殿の儀」においてこれまで天皇のみの登壇であったのを、皇后も併せて登壇するようにしたこと(近代の一夫一婦制)や、洋風の宴会(大饗)を設定したことなどです。しかし、なんと言っても一番肝心な点は一つ目で述べた、国家神道の教義ともいうべき「天皇制正統神話」による儀式の演出であります。以下、儀式の具体的な説明をしながらこの事を見ていきましょう。
まず「践祚」の儀式から。「践祚」とは前天皇が亡くなった直後に皇位の空白を避けるために直ちに新天皇が即位する儀式で4つの儀式から成っています。「賢所の儀」、「皇霊殿・神殿に奉告の儀」、「剣璽渡御の儀」、「践祚後朝見の儀」です。前の二者の儀式の意味を理解するためには皇居にある「宮中三殿」という三つの神殿を理解する必要があります(図参照)。
「宮中三殿」とは「賢所」を中心に左右に「皇霊殿」と「神殿」を構えたものです。「賢所」は皇祖神である天照大神を祀っているところで、「三種の神器」の鏡は伊勢神宮に奉斎されていますがその聖なるレプリカ(写)を奉斎しているところです。
「皇霊殿」とは歴代の天皇・皇后・皇族の霊を祀っているところです。幕末までは歴代の天皇は位牌という形で仏式で祀られ、念持仏や仏具などと共に、京都御所清涼殿の「黒戸」というところに安置されておりました。これを神仏分離の際泉涌寺に移し、歴代の天皇などを神道式で祀る皇霊殿が出来たのです。
「神殿」とは天神地祇、八百万の神を祀っているところで、これも近代になって創られたものです。このように、「宮中三殿」の枠組み自体、明治期に創設されたもので「皇祖神」である天照大神を頂点に、皇霊及び天神地祇を包摂するという「天皇制正統神話」の理念を表しているものであります。後で見るように「大礼」の終わりも始まりも、そしてその中の即位の礼も大嘗祭もこの「宮中三殿」の儀式、中でも「賢所」の儀式で始まり終っています。そして、これは代替わり儀式だけではなく、国事における宣戦や講話、あるいは皇室の結婚などの重儀も同様なのです。それほど、「賢所」を含む「宮中三殿」での儀式は重要なものとされているのですが、それはとりもなおさず、そこでの儀式が「天皇制正統神話」の核心中の核心の儀式であることからなのです。
次に「剣璽渡御の儀」とはこれも天照大神から皇位の象徴として授けられた三種の神器の内の剣と璽(勾玉)を前の天皇から新天皇の下に移す儀式です。一番大切な鏡は賢所に固定的に奉安(御櫃に奉安されている)され、剣と璽(勾玉)だけが常に天皇の側(「剣璽の間」)に置かれているので、これを移すのです。しかしこの「剣璽渡御の儀」が行なわれる時に同時的に「賢所の儀」がおこなわれていますので、文字通り三種の神器に関わる儀式と言ってよいでしょう。
また、この儀式で重要な事は、皇位の継承を象徴する重儀であるということで、皇位継承権のない女性皇族の出席(陪席)は許されていないのです。
「践祚後朝見の儀」は践祚した新天皇が文武の高官(戦後は三権の長ら)を引見する儀式です。
以上が「践祚」の儀式です。この後、新天皇の下で前天皇の葬儀が1年がかりで行われます。それが終わって(喪が明けて)いよいよ「大礼」(大典)が始まります。
「大礼」の儀式の一つ「即位の礼」は「宮中三殿」に関する儀式が三つありますが、中心的儀式は「即位礼当日紫宸殿の儀」です。 これは「践祚」によって即位した新天皇が一定の時間をおいた後、改めて内外の賓客を招いて大掛かりな、ショー的な即位の式を行うものであります。大勢の内外の賓客の前で、立纓(りゅうえい)の冠をかぶり、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)に身を包んだ新天皇が京都の紫宸殿に置かれた「高御座」に「剣璽」を伴って登壇して、(同時に皇后も「御帳台」に登壇)、即位の宣言をしたあと、総理大臣が高さ6・5mもある「高御座」の前で仰ぎ見る形でお祝いの言葉(寿詞)を述べた後、万歳三唱をする儀式です。この「高御座」は大正天皇の即位式の時に作られたものですが、江戸時代までの中国(唐)風の壇に代えて、ニニギノミコトが高天原から日向高千穂の嶺に降臨する時に乗ってきた輿(玉座)を表象したものとされています。
もう一つの中心的儀式の大嘗祭も「宮中三殿」に関する儀式など6つの儀式からなっていますが中心的儀式は「大嘗宮」の儀です。この「大嘗宮」の儀は同じ結構(黒木造り、茅葺切妻屋根)の二つの神殿(東方に「悠紀殿」、西方に「主基殿」)を新しく建て、そこで同じ儀式を、時間をずらして行う儀式、「悠紀殿供饌の儀」(「夕御饌の儀」)と「主基殿供饌の儀」(「朝御饌の儀」)の二つの儀式が行われます。儀式の内容は亀卜により(「斉田点定の儀」)に定められた「悠紀斎田」、「主基斎田」で採れた新穀をもとにして醸された酒や食べ物(神饌)を天皇自ら皇祖天照大神にお供えし、その後全く同じものを新天皇も自ら食する儀式です。この儀式は毎年行なわれる新嘗祭の、新天皇が最初に行う一世一度の「大新嘗祭」としての性格をもつものであり、「神と人が同じものを食することによって神(天照大神)の神性を人(天皇)が身に付けるという「神人共食の儀式」でもあり、この儀式を経ることによって天皇が初めて神聖性をまとう事ができるとされていました。また、このような神聖なる儀式であるため、新設された大嘗宮(悠紀殿、主基殿等39棟、「平成の代替わり儀式」時には全体で約20億円)は儀式が終了した後焼却されます。またこの大嘗祭は三大神勅の一つ「斎庭稲穂神勅」に直接関わる儀式でもあります。
この即位礼と大嘗祭が終わった後「大饗」が「夜宴の儀」を含めて二日間に3回行われ、天皇とともに神饌で作られた、白酒・黒酒を含めた酒肴が大嘗祭の内外の参列者にふるまわれます。神事の後の直会的性格をもつものです。
以上が登極令によって定められた践祚及び「大礼」(即位礼及び大嘗祭)の概要です。天照大神の分身である鏡を祀る「賢所の儀」を含む「宮中三殿」での儀式、三種の神器の継承である「剣璽渡御の儀」、ニニギノミコトが「髙天原」から地上界に降臨する際の輿を模した「高御座」、「斎庭稲穂神勅」に由縁を持つ「大嘗祭」の執行など、まことに「天皇制正統神話」を目に見える形で演ずる、可視化する儀式であると言えましょう。 (つづく)
<今後の内容予定>
平成の代替わり儀式
憲法原理にふさわしい即位儀式を
山家妄想 「秋祭りと靖国神社」
〇播州路の秋祭りも終わりました。飾磨から始まって高砂・荒井・曽根・的形と沿海部のお宮、それは菅原道真の配流途次の由緒にちなんで造られた天満宮が多いのですがクライマックスは松原八幡宮、俗にいう灘の喧嘩祭りです。御旅所への途中の「ひろばたけ」と呼ばれる広場での三基の神輿の練り合わせは壮観です。年代ごとに分かれた練子が激しくぶつけ合い「しで竹」で押し倒します。今は危険と規制されていますが押し倒した神輿の上に登って見えを切る練子も出ていました。壊れれば壊れるほど神様は喜ばれるという。激しい格闘を終えて御旅所への山道を「ヨーイヤサー」の掛け声とともに登って行った後の、一瞬気の抜けた感じに襲われた「ひろばたけ」に神輿練り番以外の地区の屋台が次々と入場し、華麗な練り合わせを披露します。「ヨーイヤサー ヨッソイ」「ヨイヤッサ ヨイヤッサ ヨイヤーッサー」の掛け声がこだまして、差し上げられた屋台がもみ合います。周りの山の斜面の桟敷からは観客の掛け声と拍手。立ち上る砂煙と相まって興奮は弥増します。氏子だけでなく駆けつけた観客も一体となって祭りは最高潮を迎える。
〇練り番(毎年交替の今年当番の地区)の男性は地区から出て遠方に住んでいても帰ってくるのが当たり前と駆けつける。運送業の男性が明日は朝からトラックを運転するのだと、記者に語っていました。若者が都会へ出かけて寂しくなる故郷が、いっとき昔の姿を取り戻すのです。そして、いまは仕出し屋に弁当を注文することが多くなっていますが、桟敷に招待した親せきや取引先のお客に対してごちそうをふるまう。その支度は前夜来女性たちの仕事、大変ではあるがやりがいのある勤めでした。生きのいいコノシロを〆めた押しずし、各家で伝えられてきた特徴のあるなます・煮しめなどが大きな重箱に詰められて桟敷に担ぎ上げられて客を待つ。桟敷で接待の主役である主婦の至福のひと時でした。
〇少し内陸に入った地方でも、氏子たちにとってはうちのお宮のお祭りが日本一と自慢の祭礼が行われます。祭礼の日は次第に昔からの日にちよりも休日を選ばざるを得なくなり、10月10日の体育の日に変更した地区が多くなりましたが、それも祝日法の改正で日が一定せずややこしいことです。「日本の伝統」と口先で叫びはするが「伝統」の何たるか少しもわかっちゃいない輩の目先だけの仕業が、ここにも表れています。日本列島改造を叫び一極集中で地方を過疎に追いやりながら「美しい国」を叫ぶ欺瞞とは対極の、伝統を守る「愛郷」とも呼ぶべき民衆の力が秋祭りには溢れています。
〇一方で、靖国神社の秋季例大祭が行われました。なぜみんなでなければならないのか理解できないのですが(一人でひっそりと、しかし心を込めてお参りしてもよいでしょう)「みんなで靖国神社へ参拝する会」の国会議員たちが集団で参拝したそうです。閣僚の参拝はなく、首相は海外出張中で「真榊」をお供えしたということです。国際的な批判を恐れての行為で、真情は参拝したいということなのでしょう。問題は靖国神社が「官軍=天皇の軍隊」の戦死者、つまり天皇のために命をささげた者を追悼する施設(招魂社)に源を発する。かつては陸軍省・海軍省の所管であった事実と、天皇が親しく参拝することに一番の意味があった神社は、私たちの故郷の神社とは異質です。靖国神社の宮司さんが問題発言をして「更迭」されたというニュースにも接しました。戦争で犠牲になった人々(戦死した軍人だけで、民間の戦災での犠牲者は含まれていないのですが)を追悼することが、天皇家との関係が問題となることなく政治的や宗教的な立場の違いを際立たせることがない、政治的・宗教的立場を超えた全国民的な合意可能な施設の設立(それは千鳥ヶ淵の墓苑との関係にも関わりますが)であり、私たちの故郷の、秋祭りに沸き返るような「村の鎮守の神様」のお祭りのできるものでありたいと思うのです。そして、それは時の政権の恣意的な振る舞いによる「戦死者」の合祀を決してすることのないものである誓いを大前提にするべきと思うのです。(2018・10・20)
水田全一・妙心寺派の一老僧