談話 日本宗教者平和協議会 事務局長 森修覚
翁長前知事の遺志を継いで
沖縄知事選で玉城デニー知事誕生!
9月30日投票で行われた沖縄知事選挙でオール沖縄の玉城デニー氏が当選しました。会員、読者のみなさんのご支援に心から感謝申し上げます。
翁長雄志前知事の遺志を受け継ぎ、辺野古新基地建設に反対するオール沖縄の候補か、安倍政権言いなり、官邸丸抱えの新基地建設推進派かが問われた今回の沖縄県知事選挙でした。
沖縄県民の良識は、揺らぐことはありませんでした。沖縄県民と日本の民主主義の勝利です。この民意に安倍政権は応えるべきです。辺野古新基地建設反対を掲げた玉城デニー氏への支持は沖縄県民の意思を示したものです。安倍政権は民意を尊重するならば、辺野古の埋め立てを中止すべきです。
いま北東アジアの平和をめざす新たな流れが生まれる中で、日本の針路が鋭く問われています。沖縄知事選の結果は日本の未来を示す指針とも言えます。玉城デニー知事誕生で新時代沖縄のスタートです。
翁長さんの遺志を一人ひとりが受け継ぎ、何としてもデニーさんを知事に押し上げようと取り組まれた、オール沖縄「島ぐるみ宗教者の会」の皆さんのご奮闘に心から感謝と敬意を表します。
日本宗教者平和協議会は、辺野古に新基地をつくらせない島ぐるみ宗教者の会(略称・島ぐるみ宗教者の会)の呼びかけに応え、玉城デニー候補の支援・連帯を行ってまいりました。真の平和実現まで、あきらめずに頑張る決意です。
京都宗平協総会記念講演
天皇の「代替わり」儀式と憲法
歴史学者・神奈川大学名誉教授 中島 三千男
はじめに
宮城泰年先生から過分なご紹介をいただきまして、恐縮しております。
確かに1989年から90年にかけて、昭和天皇が亡くなり、今の明仁天皇が即位する、いわゆる「平成の代替わり」がありましたが、その時に、かなり集中的に近代の「代替わり」に関する研究を行いました(『天皇の代替りと国民』、青木書店、1990年)。その関係で今回もまたいろいろインタビューや論文執筆の依頼などが来ております。しかし、実はその「平成の代替わり」が終わった後は私自身主要な研究対象を現在の「海外神社」に移しましたので、この問題はその後、十分には深めてはおりません。
「代替わり」(儀式)が国民統合だけではなく、海外の植民地、帝国の形成にどのように役に立ったのか、あるいはこれまでの研究の中心であった1920年代後半の「昭和の代替わり」に変わって、1910年代前半の「大正の代替わり」研究といったものを手懸けたりしましたが、まだ未完に終わっています。
近現代の天皇制研究は「平成の代替わり」後、新資料の発掘や公刊が相次ぎ飛躍的に進むのですが、その意味で私など出る幕ではないのですが、しかし事この「代替わり」とくにその儀式については京都の高木博志さん等を除いては決して多くなく、それでやむを得ず依頼を引き受けているという状況です。
ただ、しいて言えば、あとで紹介するように政府は来るべき「代替わり儀式」は30年前の「平成の代替わり」を踏襲するとしていますので、私の30年前の研究、そこで明らかにしたことがまだ生きているという側面もあるのかなあと思ったりもしています。
私は現在73歳ですが、「平成の代替わり」が行なわれ時は43歳の頃で、55歳で即位した明仁天皇とは10歳余しか離れていません。それで、もう私が生きている間は次の代替わりは無いだろうと思っていました。多分、今日、出席の御年配の方々も同じような思いだったと思います。また、仮に私が生物学的に生きていたとしても、もう今日のように講演したり、発言したりすることもないだろうと思っていました。まさか私が生きている間にもう一度このような機会があるとは思ってもいなかったのです。
あとで触れますが、日本の歴史上、近代になって天皇の譲位、生前退位というものがなくなって、大正、昭和、平成と3代の「代替わり」を経る中で、私たち日本国民の中にもなんとなくそれが当たり前のように、何の疑問もなく今の明仁天皇も亡くなるまで天皇であり続けるであろうと思っていました。昭和天皇は87歳で亡くなりましたが、今の天皇は84歳。「お言葉」のタイミングを間違えたりテレビに映る歩きぶり等にさすがにお年を召されたなという印象を持ちながらも、まだまだ天皇の職務を遂行されるだろうと思っていました。
ところが、2年前の2016年7月13日、NHKの午後7時のニュースで天皇が生前退位する意向であるという事が流され、そして8月8日の午後3時にテレビで一斉に流された「ビデオメッセージ」(「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」。以下「8・8メッセージ」と略)に国民は驚きながらも、一斉にこの生前退位を容認する、当然視する方向に流れていきました。
マスコミ等によると安倍首相はこの数年、水面下で発せられていたこの天皇の生前退位の意向には無視を決め込んできたという事ですが、一旦この事が公にされて国民の世論も一斉にその方向になびいていくと、安倍一強と言われ思い通りの政策を強行してきた安倍首相も、さすがにこの流れに竿を指すことはできませんでした。そして現在に至っているという状況です。
Ⅰ 発端から今日にいたる経過
まず最初に、2年前にはまったく考えられなかった天皇の生前退位が、どういう経過を経て今日にいたっているのかということを改めて振り返ってみたいと思います。
第一段階はまず「発端」です。2016年7月13日の午後7時のNHKニュース、正式には天皇の「8・8メッセージ」で、自身の高齢化に伴い「象徴としてのお務め」を行う事が困難になった旨を切々と訴えられて以降、国民が考えてもいなかった「生前退位」を支持する方向で一斉に流れた段階です。第二段階は「有識者会議」と国会が関与した段階。その流れを受けて10月17日、菅官房長官の下に「天皇の公務負担に関する有識者会議」(以下「有識者会議」)が組織され、専門家からのヒアリングを含めて議論され、翌年2017年の4月21日に最終報告をとりまとめました。また、それとは別に同年1月には、衆参両院正副議長の下に各党・各会派が集められ検討の場が設けられ、3月には「『天皇の退位等に関する立法府の対応』に関する衆参正副議長による議論のとりまとめ」が出されました。第三段階は「特例法成立」の段階。政府は以上の二つの取りまとめを受けて「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」案(以下「特例法」案)要綱を各政党・会派に提示、そこでの議論を受けて5月19日「特例法」案を閣議決定、そして国会に提出。6月9日に可決され「特例法」が成立ました。
この「皇室典範特例法」の「特例」とは何か。ここは一寸説明しておきたいと思います。戦後の「皇室典範」も戦前の「皇室典範」を受けて、その第4条に「天皇が崩じた時は、皇嗣が直ちに即位する」と書いてあって、天皇が亡くならないと新しい天皇は即位出来ない仕組みになっておりました。これは近代になって初めて法制化されたものでそれ以前は生前退位、譲位というのも一般的に行なわれて来ました。従って、生前退位を実現するにはこの規定を改正するか、規定はそのままにしても生前退位を特例として認めるという法律を作る=特例法方式をとるかの二つの方法があったわけです。野党としては全体として第4条等を改正する「皇室典範」の改正を主張しましたが、与党は天皇の生前退位は原則として認められない。しかし、今回の昭和天皇の場合だけ特別に認めようという考えで、その意味で「皇室典範」の改正ではなく、あくまでも例外として「特例法」で対応しようとしたわけです。議論の結果、「特例法」にしても現明仁天皇以後の天皇にも適用できる先例になるという了解を得て、与野党が合意して特例法形式の生前退位となったのです。こうして光格天皇以来、約200年ぶりに生前退位(譲位)が行われることになったのです。
成立した「特例法」にはこうした趣旨・原則が盛り込まれると同時に、生前退位に関連する諸事項についても決定されました。即ち、天皇退位後の称号は「上皇」、皇后は「上皇妃」とする。これらの事務を担う組織を「上皇職」として新設し「上皇侍従長」、「上皇侍従次長」を置く。象徴としての行為(所謂「公的行為」)は全て新天皇に譲る。今の皇太子には男子がいないので、即位した場合、次の皇位継承順位第一位の秋篠宮を「皇嗣」(皇太子ではないが同じように待遇する)とし事務を担う「皇嗣職」を新設する。また退位の日程は皇室会議で決める等のことが定められました。
第4段階は「代替わりの大枠の決定」の段階。「特例法」に基づき、2017年12月1日に皇室会議が開催され現天皇の退位日(「特例法」の施行日)を2019年4月30日とすることが決定、従って新天皇の即位日は5月1日となりました。そしてこのスケジュールの決定に伴い、2018年1月9日に菅官房長官を委員長とする「天皇陛下の御退位及び皇太子殿下の御即位に伴う式典準備委員会」(「式典準備委員会」)を設置、3月31日のその第3回準備委員会で「政府の基本方針」を決定しました。
この「基本方針」ではまず基本的な考え方として、①憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したものであること、②「平成の代替わり」儀式は現憲法下において十分に検討されたものであるから、基本的な考え方や内容は踏襲するとしています。
次に天皇の退位に伴う具体的な式典については、2019年4月30日に現天皇の「退位の礼」として「退位礼正殿の儀」を国事行為として行う。さらに、皇太子の即位に伴う儀式については「即位の礼」として5月1日、「剣璽等承継の儀」と「即位後朝見の儀」を国事行為として行う。また、新天皇の即位を内外にお披露目する「即位の礼」として、10月22日に「即位礼正殿の儀」と「祝賀御列の儀」を国事行為として行う。さらに、国事行為ではないが11月(14日~15日が予定されている)に大嘗祭を公的性格を持つ行事として挙行する等のことを列挙しています。
また、この他関連行事として2019年2月24日に「天皇陛下在位30年式典」を内閣の行う行事として国立劇場で行う。さらに秋篠宮・文仁親王の「皇嗣」就任を祝う「立皇嗣の礼」を2020年のしかるべき時期に行うということも決められました。
基本方針の一つ「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重したもの」という、、個々の具体的な儀式の持つ意味については後で述べますが、ここではもう一つの基本方針「平成の代替わり」は現憲法下において十分に検討されたもの、ということについてだけ簡単に指摘しておきたいと思います。これは全く事実と違います。
1988年9月、昭和天皇が重態になり「代替わり」が予測された時、野党議員が「代替わり儀式」の具体的内容について説明を求めたのに対し「こういう時期なので、ひたすらご回復を祈っている段階でありレクチュアは勘弁してほしい」(88年9月26日)、「具体的内容につきましては、現在お答えのできる段階ではございません」(88年11月8日、衆院決算委員会、小渕官房長官答弁)と答弁を拒否していました。そして翌年1月7日、昭和天皇が死去(午前6時33分)した直後、新天皇の「剣璽等承継の儀」(午前10時)が行なわれる直前の閣議において、初めて「剣璽等承継の儀」や「即位後朝見の儀」の二つの儀式が国事行為として行われることが明らかにされたのでした。このように「平成の代替わり儀式は「十分に検討されたもの」とは決して言えないものなのであります。
現在はこの基本方針にもとづき、「平成の代替わり」にならって着々と準備が進められている段階です。基本方針によれば、「天皇陛下の退位及び皇太子の即位に伴う式典委員会(仮称)」(委員長は首相)を置く、また各府省の連絡を円滑に行う「天皇陛下の退位及び皇太子の即位に伴う式典実施連絡本部(仮称)」を設置(本部長は内閣官房長官)するとなっていますが、もうそれらの設置の前に動き出しているのです
例えば、天皇、皇后が「即位の礼」の「即位礼正殿の儀」において登壇する「高御座(たかみくら)」、「御帳台(みちょうだい)」はここ京都御所の紫宸殿に置かれているのですが、それが報道陣に公開されたとか、前回は警備上の都合もあってヘリコプターで運んだが今回は自動車で運ぶとか、またその解体修理代はいくらかかるとか、こういう報道がチョロチョロっと出されています(9月26日の昼のNHKニュースで高御座が皇居に運び込まれ、即位式の本格的準備が始まったと報道)。また、あとで具体的に見ますが大嘗祭に使う新穀などは悠紀(ゆき)田、主基(すき)田という二箇所の田から収穫するのですが、その場所は占いによって決めるのです。亀の甲羅を焼いて、そのひび割れ具合を見て、今回の悠紀田はどこの県、主基田はどこの県と決めるのです。じゃあ、その亀の甲をどうするかというと、アオウミガメです。これは、食べてはいけない、獲っちゃいけない貴重な生物です。ところが唯一、食用として伝統的に認められているところがあるんですね。それが、小笠原諸島なんです。だから今回も小笠原諸島の亀の甲羅を使いますと。そういうのが、チョロチョロっと新聞やテレビで出されます。このように実際には準備・検討が内々に着々と進められているのです。
Ⅱ 時代により大きく変化
さて、前段部分が長くなってしまいましたが、これからいよいよ本題に入りましょう。
まず、第一に政府が行おうとしている今回の「代替わり儀式」、先の基本方針でもみました様に、政府は「皇室の伝統」を尊重したものであると言っています。そして多くの国民も「代替わり儀式」がいかにも古くから、古代から連綿として続いてきたもののように思っていますが、それは違うという事です。確かに天皇制は古代からずっと続いているわけですから、「代替わり儀式」も基本的にはずっと行なわれてきました。しかし、それをどのような形で行うかは①天皇の権力の在り方や②その時代の支配的思想(宗教)といった二つの要因により、時代によって大きく変化してきたということ、そして結論から言えば、今政府が「皇室の伝統」として行おうとしている「代替わり儀式」は、たかだか今から150年前の明治以降に形作られた、極めて新しいもの、「近代に新しく創られた伝統」にすぎないという事です。
このことを具体的にみていきましょう。まず、今回は生前退位という事で前天皇の葬送儀礼はありませんが、「代替わり儀式」は大きく分けて、前天皇の葬送儀礼・譲位の儀礼と新天皇の即位儀礼の二つからなっています。そして、「代替わり儀式」が時代により大きく変化するという事は、この前天皇の葬儀、特に天皇の墓=陵墓のあり方に良く表れていますので、まずそれから見ていきたいと思います。
天皇の陵墓と言えば、皆さんは教科書でも習ったあの大阪府堺市大仙町にある百舌鳥古墳群の一つ、仁徳天皇陵(現在では大仙陵古墳と言われる)を思い浮かべる方が多いでしょう。墳丘の全長が約500m、高さ35メートルもある日本最大の前方後円墳で、世界でも最大級の墓の一つです。しかし、実際に、このような巨大な墓が造られたのは3世紀後半から7世紀にかけての古墳時代と言われる時代の中でも、4世紀末から5世紀にかけての一時代だけで、大王(天皇)の絶対権力の衰微と共に、また葬儀を簡略化する薄葬思想(646年薄葬令)の広がりや仏教の火葬の影響もあり以降墳丘は小さくなり、さらには墳丘さえ無くなっていくのです。
この墳丘を伴う陵墓を「墳丘式陵墓」と言います(「陵」とは丘と言う意味、丘のように大きな墓という意味です)が、これに替わり新しく登場してくる陵墓は「堂塔式陵墓」といわれるもので、後一条天皇(1036年没)が菩提樹院という三昧堂を建て、陵所に仏道を営むという新制がとられたのを嚆矢とし、白河天皇(1129年)没以降、仁孝天皇(幕末の孝明天皇の前の天皇、1846年没)に至る7百数十年の間、陵制の主流となります。墳丘に変わって法華堂や方形塔・九重塔等の塔が寺院内に設けられ、僧侶が葬儀を執行しました。
このことを最も象徴するのが泉涌寺にある「月輪陵・後月輪陵」(写真下)です。 この陵墓は一つの兆域、一カ所の拝所からなりますが、実はここには25人の天皇・皇后の陵墓の他、5つの天皇灰所、9つの皇子や後宮の墓が集置されているのです。特にここには幕末の孝明天皇を除き江戸時代初期の後水尾天皇(「108代」)から後桃園天皇(「118代」、以上月輪陵)、光格天皇(「119代」)から仁孝天皇(「120代」、以上後月輪陵)まで江戸時代の歴代の天皇13人の全ての陵墓が設けられているのです。一つの兆域に多くの陵墓等を集置しているわけですから一人一人の陵墓はそんなに広くはありません。例えば、「110代」(1654年没)後光明天皇の場合は石の唐櫃に埋葬、6・12㎡の基壇を設け、その上に高さ5・15メートルの九重石塔を置いたものです。先ほど天皇・皇后の墓を陵墓というのは丘のように巨大な墓を築くからだと言いましたが、この数㎡余りの「堂塔式陵墓」は字面の上からはもう「陵墓」とは言えないほど小さなものになってしまっているのです。そして、この陵墓の造作を含めて葬儀に関わったのは泉涌寺の僧侶たちで、江戸幕府の儒教興隆政策の中で後光明天皇の葬儀の時(1654年)それまで一般化していた火葬が土葬に変わって以降も僧侶が葬儀全般に関与するという形は変わりませんでした。
先にも述べました様に私たちは天皇の陵墓と言いますと教科書や奈良・京都の修学旅行で刷り込まれた巨大なものをイメージしますが、それは歴史上からみれば極めて短い期間のものであり、むしろ「堂塔式陵墓」の時代の方が圧倒的に長かったと言えるのです。
こうした流れを変えたのが幕末、明治維新直前になくなった孝明天皇の陵墓からで、以後、明治、大正、昭和の4代の天皇がこれに続いたのです。天皇の絶対的権力の回復、及び神仏分離、廃仏毀釈政策を経ての神道興隆政策、国家神道の成立という大きな時代の変化の中で「墳丘式陵墓」が復活したのです。
さて、「墳丘式陵墓」ー「堂塔式陵墓」ー「墳丘式陵墓」という変化のように、「代替わり儀式」は時代によって大きく変化するものだということを、いよいよ本題の即位儀礼で見ていきたいと思います。
天皇の即位儀礼は、7世紀末の天武天皇の時、古代律令国家の確立期に中国(唐風)の即位式の他に新たな即位儀礼として日本の稲作儀礼をもとにした大嘗祭というものが創設され、持統天皇から即位と大嘗祭の2本立ての即位礼が行なわれるようになります。さらに8世紀末、中国式の即位儀礼が本格的に挙行されるようになった平安初期の桓武天皇の即位から即位の礼が新天皇即位後、皇位の空白をなくすために直ちに即位をする「践祚」の儀式と即位後一定の期間をおいて大規模なお披露目的性格を持つ「即位礼」に分離して以降、「践祚」、「即位礼」、「大嘗祭」の三本立てとなっていました。
しかし、中世から近世初頭の天皇権力の衰微、経済力の衰えとともに大嘗祭の不執行さらには廃絶という事態を迎えます。室町時代、応仁の乱の前年、1466年(文正元)の後土御門天皇(「103代」)の大嘗祭で中断、約200年後の1687年(貞享4)東山天皇の時一時復活しましたが、この間「9代」約200年間にわたり廃絶しました。完全に復活したのは1738年(元文3)の桜町天皇(「115代」)の時からでした。
また、即位礼は継続して行なわれましたが、その様式は大きな変容を遂げていきます。即位礼はもともと律令制導入と関連して、当時の先進国である中国(唐)風の濃い儀式として行われていましたが、陵墓で見たように仏教の影響が強くなると「即位灌頂」という仏教色が入り込んできて、全体として神仏習合的な即位礼が行われるようになります。
「灌頂」とはもともと、古代インドの国王の即位等に行われた、灌頂水と呼ばれる水を即位する王の頭上に注ぐ儀式で、のちに仏教儀式にも取り入れられ、特に密教では伝法灌頂など重要な儀式となっていきました。平安時代末の院政期、仏法の興隆が王権の興隆に直結するという仏教的国家観が意識されるようになると、即位式の中に「即位灌頂」などの儀式が取り入れられるようになっていったのです。
これは天皇が即位礼時に大日如来の印相を結び真言を唱える秘儀で、この「即位灌頂」を行う事により天皇は密教における本尊、最高仏である大日如来と同一化し、極めて高い宗教的な権威を得ることになるというものです。当時の神仏習合の本地垂迹説、日本の天照大神はこの大日如来が神の形をとってあらわれたものであるという理論が背景にありました。
この「即位灌頂」というものが継続して行なわれるようになったのは伏見天皇(1288年)から幕末の孝明天皇(1847年)まで「32代」約550年の間であります。このような即位儀式における仏教的色彩はこの他にも「後七日御修法」(ごしちにちみずほう)等がありますが、いずれにしても、近代以前に行われていた天皇の即位儀式は私たちが思い描く王朝風の純神道式のそれとは大きく様相の異なるものであったことをしっかり押さえておく必要があると思います。
また、この即位儀礼における仏教色、神仏習合的な儀式と共にもう一つ私たちの常識、思いこみを覆すものとして即位時の天皇の服制についてみていきたいと思います。奈良時代の末頃から幕末の孝明天皇までの長きにわたり天皇の即位時の服装は、中国の皇帝やベトナムや琉球といった冊封国の王が被る冕冠(べんかん)をかぶり、また袞衣(こんい)といわれる龍など12の絵柄が入った服(併せて袞冕十二章・こんべんじゅにしょう)を着て行いました。私たちは天皇の即位式ではすぐ衣冠束帯姿を思い浮かべるのですが、このようなものは150年前の明治時代から始まったものなのです。
右の写真は後醍醐天皇の即位時のものといわれているものです(清浄光寺蔵「後醍醐天皇像」)。一目見ただけで皆さんはエエッと思われるでしょう。私たちが思い描く衣冠束帯姿と大きく異なるからです。頭上の冠が冕冠(べんかん)と言われるものです。服はよく見えませんがこれが袞衣(こんい)といわれるもので、その上に法衣をまとっていますね。さらにこれははっきり見えますがなんと密教の法具である金剛杵を両手に持っていますね。このような中国(唐)風、仏教色の濃い服制での即位儀式が中世から幕末の孝明天皇まで約800年間にわたって連綿と行われてきたという事です。
もっとも、この写真では切れていますが、実はこの頭上には「天照皇大神」、「八幡大菩薩」「春日大明神」の三つの付箋が大きく貼られており、その意味で純仏教風ではなくまさに神仏習合的なものであります(ちなみに明治維新期の神仏分離令により、「八幡大菩薩」の「菩薩」や「春日大明神」の「明神」などは仏教色の強い神号として廃止されました)が、それにしても近代以降の即位時の「純神道」式の態様とは大きく異なっていると言えましょう。
以上、葬送儀礼(陵墓)において「堂塔式陵墓」の定着や寺院僧侶の関与、即位儀礼における大嘗祭の中断や「即位灌頂」に見られる仏教的、神仏習合的色彩、さらには「袞冕十二章」に見られる中国(唐)風の装束など、「代替わり儀式」が時代によって大きく変化してきたことは理解できたかと思います。
そしてその変化の要因の一つは天皇の絶対的権力の衰微や、もう一つは支配的思想・宗教の変化、具体的には仏教的・神仏習合的宗教観念の定着、この二つの要因によってもたらされたものであったのです。(つづく)
今後の内容予定
天皇制正統神話(神勅神話)/近代の代替わり儀式/平成の代替わり儀式/憲法原理にふさわしい即位儀式を
この悲劇くり返させない 岡田隆法師が読経
関東大震災から95年の9月1日、まったく罪のない朝鮮人や中国人、日本の社会主義者や労働運動の指導者たちが軍や警察、自警団などによって虐殺されました。
犠牲者の追悼とアジアの平和と安定に寄与することを願い、震災における犠牲者の追悼と歴史の忘却を許さず、悲劇をくり返さない決意をこめて「朝鮮人犠牲者追悼式典」(主催は同実行委員会)が1日午前、東京・墨田区の横網町公園で700人が参加して行われ、東京・江戸川区の泉福寺の岡田隆法住職・日本宗平協事務局次長が読経し「表白」を捧げました。
開会あいさつで日朝協会東京都連合会の宮川泰彦会長は、小池百合子都知事が昨年につづいて追悼の辞を送付しなかったことを批判し、小池都知事が式典の意味を見つめるよう求めました。追悼のことばでは天災の犠牲者と虐殺による犠牲者を同一視する小池都知事の姿勢を「虐殺、加害の歴史を風化、忘却させるもので許されない」などと厳しい批判が表明されました。また、「虐殺はなかった」とか「朝鮮人への流言飛語は事実だった」などとする「虐殺否定論」に対し反撃の土壌をひろげることの必要性とともに、史上初の米朝首脳会談など、北東アジアの平和の流れをさらに前進させる決意が表明しました。
韓国無形文化財の舞踏家・金順子(キムスンジャ)さんが「鎮魂の舞」を演じ、参列者は黙とうし、献花しました。
山家妄想
創価学会の変貌
柿田睦夫著 新日本出版社
〇前年に「創共協定」が調印されていたことが1975年に発表された時の驚きと、1980年の「社公合意」による革新統一破壊、社会党の転落の始まりへの怒りをまざまざと思いだしながら、この書を受け取った。
〇プロローグで著者は「創価学会がなぜ『先生(池田大作氏のこと)はお元気』といい続けなければならないのか。言い続ける裏で何がどう進行しているのか」と、この書の主要テーマを示す。〇そして、「今や〝池田はずし〟の様相を呈するまでになっている。」これらと並行して「学会執行部が官邸に直結して政治的影響力を行使する。その方針を受けて公明党が動くという構図」が出来上がっているという。
〇まさに日本国憲法の政教分離の原則が破壊されているという「由々しき事態」を検証し評価することが、この書の目指すところと受け取った。
〇第一章は「安倍自民党政権を支える創価学会」であるが、学会と自民党・政権の間に介在しているのは『保身』と『利害』だといってよく、信念と理念には全く無縁であり、学会は選挙に際して大量の組織票を提供し「創価学会はいまや、自民党にとって最強の『支持母体』」なのである実態を実証するのである。
〇そして戸田二代会長が当時の岸信介首相を「友人」と呼び「私は宗教団体の王様、岸先生は政治団体の王様で立場が違うだけ」と述べた、まさに現在の自公蜜月を予言している歴史を紹介する。根はまさに深いのである。さらにすすんで創価学会によってつくられた公明党は、その支配下に置かれており、創価学会は公明党の「支持母体」ならぬ「組織母体」なのであるという。そして現在は「創価学会執行部と首相官邸が直接に協議して筋書きを決め、それにしたがって公明党が動く構図」が露骨になっている実態を明らかにする。
〇現在、三代会長池田大作氏は姿を現さない。その「池田不在」の下ですすむ「創価学会の変貌」を第二章は入念に明らかにする。
それは2014年の教義・本尊規定の変更に始まって、2015年池田開祖化とクーデター、2016年「創価学会仏」=未来の経典の謎、2017年「会憲」の制定と「四つの〝変貌″」を示して、「新しい権力の集中化と政権依存の深化」と意味を明らかにする。
巨大な宗教教団の変質の過程が克明に明らかにされ、それは教団自身の「歴史」を書き換えることも羞じぬ、この「宗教」教団の本質、すなわち現世利益を第一として自在に変貌する素顔が赤裸々に明るみの下にさらされる。
〇しかし、このことは当然「創価学会の実際と憲法原則との整合性」を問われることになり「これこそがいま検証されるべきこと」だと著者は指摘する。
憲法二十条一項後段の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない」という規定にもとづく「厳密な検証とオープンな議論が必要だ。それはこの国に民主主義を取り戻す課題と不可分のこと」と、著者はこの書を結ぶが、まさに至当な言だと考える。
〇わたしたちは、ともすれば他の宗教に関しては自らの問題と考えることを回避し聖域化していることが多い。その結果がオウムに見る如く多数の人々を巻き込み、信者自身にも取り返しのつかぬ災禍をもたらす事実を目にすることになったのである。
〇公明党の「組織母体」創価学会の変貌は、その事実を冷静に把握し検証する著者の長年にわたる地道な努力によって明らかにされた。
〇この「変貌」が日本の民主主義に及ぼす影響を正確にとらえて、いま破壊されようとしている日本国憲法体制を守る活動につなげなければならぬ。そのことがこの書によって示された私たちの使命であると考える。 (2018・9・14)
水田全一・妙心寺派の一老僧
*8・9月号で「三家妄想」2段目の最後の「日本で死刑執行は1988年11月以降は」は「1989年11月以降」に訂正します。