故鈴木徹衆師に寄せられたメッセージから(7月3日葬儀時に披露)


 1960年代、私の前に現れた宗平協の活動家たちは巨人のような存在でした。当時の宗平協の事務局、善光寺を訪ねると、壬生先生をはじめ佐々木千代松、松井勝重、高木幹太、中濃教篤などの面々とともに侍たちがぞろりとそろった景観は凄味さえあったのでした。鈴木師が北海道に講演にいらしたのも懐かしい思い出です。鈴木先生の葬儀に参列したいのですが、先約があり、難しいかもしれません。お許しください。
浄土真宗本願寺派一乗寺住職 殿平 善彦

徹衆さん
 「今、焼津から戻ったところだ」。と仰られたとのこと。一期の結まで、「墓前祭」を護り厳修されてきた、重き大きな事績を背負い続けていらっしゃったのでしょう。このお言葉は、徹衆師の「遺教」と思われてなりません。「仏遺教経」では「度すべき者は悉く已に度す・・・今より以後我が諸の弟子展転して之を行ぜ」と。そして釈尊は、「自灯明・法灯明」を説かれました。これを徹衆師に重ね合わせれば「自」とは宗平協のひとりひとり。「法」とは、「宗派・信仰の相違を超えて、内なる心の平和と外なる世界の平和を」構築することでしょう。誠実な信仰者としての徹衆師は、広く他宗派の諸祖師の教えの要をも勤学され、真言宗の行者としての在り方を鋭く突き付けられました。さらに、その学究は、宗教に止まらず、古今東西の哲学・思想にも及ばれ、縦横無尽な舌鋒が聞こえてきます。徹衆師の理念と運動の一期は、智慧と慈悲の実践の御姿であり、自利利他と言う仏教そのもののあり方です。
真言宗智山派多聞寺 岸田 正博 合掌

 鈴木徹衆先生のご逝去の報に接し衷心よりお悔やみ申し上げます。私が鈴木徹衆先生に初めてお会いしたのは、ベトナム戦争末期の1973年、当時の南ベトナム仏教協会訪日代表団を鈴木先生が案内されて広島に来られたときでした。広島市民対象の講演会が広島YMCA講堂で盛大に開催されましたが、当時は公安警察の監視が厳しく、警備上、宿泊所は三滝寺境内にあったライオンズクラブ研修所にしました。10数名の広島県平和委員会の方々が夜を徹して警備にあたってくださいました。その時の鈴木先生のお姿に接したことが私が日本宗教者平和協議会に参加するきっかけになったように思います。鈴木先生にはその後も宗平協を通して大変お世話になりました。謹んでご冥福を祈ります。
広島YMCA名誉総主事 林 辰也


追悼  鈴木さんを送る   日隈 威徳 
訃報を聞いて
 2018年6月21日、日本宗平協の前理事長で代表委員、全国革新懇の代表世話人である鈴木徹衆師が自坊で亡くなった。87歳の大往生である。
 その日、女婿の荒川理事長から電話連絡を受けた私は、ただ茫然自失、その日は仕事も何も手につかず、ボンヤリ時間をすごす。「宗教と平和」編集部から追悼記を書くようにと依頼され、引き受けたものの、さて、何から書こうか。
兄 事
 兄事という言葉が浮かぶ。兄のように尊敬して、つかえること、と辞書にはある。しかし私は、鈴木さんを尊敬し、兄のようにしたっていたが、つかえたわけではない。私は宗平協の会員ではないし、あくまでも、協力、共同をつらぬく関係である。
 そういう意味では、兄事というのは不正確かもしれないが、鈴木さんには、どうしても使いたい言葉だ。
出会いは
 一体、私は鈴木さんをいつ知ったのだろう。それは、1970年代のある日、故佐木秋夫先生の紹介で、とある喫茶店で、鈴木さんから、大谷派の問題を教えてもらったときである。「いわゆる『東本願寺問題』とは」と鈴木さんは書いている。
 「一般的に教団内の改革派と保守派の争いのようにいわれているが、それは一つの側面であって、問題は一部の政界に結びつく黒い利権屋による宗教団体私物化の策謀と、教団本来のあり方を求める宗門人とのたたかいであった」(「東本願寺私物化ねらう黒い勢力―教団正常化運動の前進」「赤旗」評論特集版1978年5月22日付、鈴木徹衆著『信仰・宗派の違いをこえて』新日本出版社2012年所収)。
 「東本願寺問題」は、素人目にはわかりにくい、複雑な様相を呈していた。
 鈴木さんの説明は簡にして要、問題の本質をズバリとつかみ、宗門人のたたかいの方向を示すものであった。
 これは宗門問題だけでなく、宗教者の平和運動についても、同和問題についても、鈴木さんの解説には、一点のクモリもなく、明解にコトの本質が説かれ解決の方向が指し示されるのであった。
 当時、宗教と政治の関係の探求を研究テーマにしていた私が、鈴木さんに兄事したのは当然である。これは、70年代なかばに、日本共産党中央委員会に宗教委員会が設置され、その専従に私がなって以後も、変わらなかった。
日本宗平協結成へ
 1962年、日本宗平協が結成されると、鈴木さんは、その事務局を担当して奮闘した。決議など諸文章の下書き、宣伝・カンパ活動と、事務局の仕事は大忙しである。
 後年、鈴木さんは当時を回想して、こう書き記している(「私の歩いてきた道から」『宗教と平和』2001年8月号~2004年6月号、『信仰・宗派の違いをこえて』所収)。
 「本山への課金が積もり積もって、まるで「サラ金地獄」のようになっていた。
 そんななかでも宗平協の事務局からは離れず、この仕事こそわが命と必死になって当面する事態に立ち向かっていた。
世界宗教者平和会議成功へ奔走
 それは第2回世界宗教者平和会議を成功させるための準備活動である。しかし、貧乏寺で私の行動どころか3人の子どもを育て、墓の草むしりをしている妻の思いはいかばかりであったか、そんな思いやりの余裕もない事務局屋だった。連日のように銀座や渋谷の駅頭などに立って『原水爆禁止・被爆者支援』『南ベトナム仏教徒支援』を訴え、第2回世界宗教者平和会議のためのカンパ集めに奔走していた。」
 自分の思いを文章にすることがない、あるいは不得手な「事務局屋」さんには、めずらしい一節である。
 臨終が近いとき、鈴木さんは、しきりに「家に帰らねば」と「焼津警察署に行かねば。約束がある」と口にしたという。英子さんは「ここは家よ」となだめたというが、家のことは妻にまかせていた鈴木さんの思いがうかがわれるではないか。そして焼津警察署!
3・1ビキニデー
墓前祭への攻撃
 焼津の第五福竜丸がビキニで被爆し、乗組員の久保山愛吉氏が亡くなったのだが、その3月1日を3・1ビキニデーとして、久保山氏の墓前祭を主催してほしいという日本原水協からの依頼にこたえて、宗平協は毎年、主催してきていた。
 しかし、「原水爆禁止運動と不可分のものとなっている以上、運動上の問題が墓前祭に持ち込まれるようになり、その開催方式にもいろいろと注文や干渉を受けたりもしたものであった」(「私の歩いてきた道から」前掲書、所収)。
 その最たるものが、宗平協の主催をはずして、共催にすべきだ、原水協後援をはずせという要求だった。
 社会党・総評ブロックの理不尽な要求はエスカレートし、組合を動員して、宗平協の墓前祭をつぶす、という。干渉は警察権力まで使って行われたが、宗教法人の境内には警察の権力は及ばない、と鈴木さんは断固拒否した。「あんたはタダの坊さんじゃないな」と署長がつぶやいた、と後で鈴木さんは語っていたが、しかし、そのときの緊張はたいへんなものだったろう。前の言葉が示している。
 境内に準備された墓前祭の一式を守るべく宗青協のメンバーが徹夜で監視にあたった。私もその一員として、境内で一夜を明かした。
 翌朝、無事を見届けて、浜に立ったときの朝風のここちよさが忘れられない。
鈴木さんの生い立ち
 鈴木さんは、1931年2月、小田原市の真宗大谷派寺院の次男坊として生まれた。
 14歳の春には、相模原の陸軍造兵廠の陸軍少年技術者養成所に志願入所し、毎晩なぐられながら、爆雷を抱いて米軍の戦車の下にもぐりこむ訓練にあけくれる少年兵生活を送った。やがて終戦。「女子挺身隊の姉や、土浦航空隊の兄にも無事我が家で再会することができた。中学に復学するチャンスはあったが、毎日餌を運ぶ親鳥のように、飢えから家族をまもるために食料を求めて買い出しに歩く母を見ていて、到底復学する気はなく、母を手伝って買い出しに静岡県三島の山中まで出掛けた。
 横浜の港湾労働者として日銭稼ぎに通ったり、印刷職工、製材所の材木運びまで、目茶苦茶に働いた。少しでも稼ぎの成果で小さな弟や妹たちの喜ぶ姿や母の助けになることがなにより嬉しかった。」(同上)。
 そうこうしているうちに、「1947年、父から、東京の父の姉の寺にいってくれるか、と相談された。軍国少年にとっては、父の頼みは上官の命令であり、父がそれを喜ぶならただそれに従うのみであった」(同上)。
寺の後継者に
 寺といっても、後継者のいない廃寺寸前の寺で、引き継ぐ財産も現金も一文もないので、翌日から寺の門前のメリヤス工場で職工として働くことになる。
 後年、日本共産党が宗教者との対話と協調を呼びかけたとき、それを「日共宮本私党」の策謀だと中傷した丸山某氏に対して、完腐なきまでに論破した鈴木さんは「仏教タイムス」紙に「歴史的教訓と仏教徒の責務ー宗教と共産主義の対話をめぐって」を寄せた(前掲書、所収)、そこで一人の共産党員との出会いを告白している。
 「それは、私が十六歳の頃、東京本願寺の焼け跡の本堂に毎年夏季講習に通い、真宗僧侶たる学習をはじめた時のことであった。若い時分によくある話だが、私も寺院生活と教学の矛盾に悩んだ。宗祖親鸞聖人の教えに生きて寺を捨てるか、寺に生きて教えを捨てるか、という択一の前に苦悩しながら勉強していた。それほど一人前の寺らしい寺ではなく、夏期講習の時期以外は日々の糧のために職工生活をおくっていたような状況であったが、寺院僧侶の生活は真宗の教えを学びはじめた素朴な少年の心にも深い矛盾を覚えさせ、このままではいい加減な僧侶になりさがるだけだ、本当の仏教に生きるならば、信仰生活をする労働者として生きていくことだ」と考えていた。
 そんな時、「お前が、もしそう考えて寺を出ることは自由だ。しかし、寺に縛られている檀家の人たちはどうするのか。法事やお墓詣りをする人たちは、本当の仏教を知らないままで、慣習に生きている人々に対する歴史的責任をどうするのか。お前が正しいと確信した教えを、まずお前のお寺で、信徒と共に実証することが大切じゃないのか」と意見してくれた職場の先輩の労働者がいた。
ゆるぎない信頼
 彼は、職場仲間に信頼されているまじめで勉強家の職工であり、共産党員であった。
 「私は彼の立派な意見にうたれ、その初志を堅持して大谷派の僧侶としての今日にいたった次第である」(前掲書所収)。
 ここに、鈴木さんの日本共産党、その党員に対する、ゆるぎない信頼の基点がある。
 それは、その後の平和運動をはじめ地域の公害問題やPTA活動などでも実証され、鈴木さんにとって不動の確信となった。
 その鈴木さんが、全国革新懇の代表をつとめたのも当然であろう。全国だけではない、地元葛飾の革新懇運動にも力を入れ、人々に信頼されていた。
 信仰・宗派の違いをこえて、団結し、共同行動をするという、世界史にかつてなかった、この至難の業のために奮闘した鈴木さんを失ったことは、宗教者平和運動にとって、大きな痛手である。同時によき理解者であった鈴木さんを失ったことは、日本共産党にとっても痛恨の極みであろう。
 だが、悲しみをのりこえて、私たちは鈴木さんの遺志を受けつぎ前進しなければならない。鈴木徹衆さん、見ていて下さい。わたしたちは負けません。

(全国宗教人日本共産党を支持する会代表委員)

宗教者と市民がともに学ぶ 講演のつどい

平和・憲法・アベ政治ー「浜 矩子――言いたい放題」

 同志社大学大学院ビジネス研究科教授  浜 矩子

 ただいまご紹介にあずかりました浜矩子でございます。本日は、この場にお招きをいただきまして、宗教者の皆さまが平和のためにお集まりになられるというすばらしい会合で話をさせていただけるというので、まことにありがたいことだなと思って感動してまいりました。
 本日は、小一時間ほどお時間を頂戴できるというふうに理解しておりますのでよろしくお願いいたします。
 この集会看板に艶やかに書いていだいております、「浜矩子 言いたい放題」とすばらしいタイトルを頂戴いたしましたので、目一杯言いたい放題、いろんなことを言わないといけないのかというふうにいま認識をしております。私が言いたい放題ものを言うことであれば、皆さまにおかれましては、さぞやそういうことならばもうこの私はいわゆるところの「アベノミクス」、私的にいえば「アホノミクス」の悪口をひたすら言いまくるのであろうというふうにご推察になられることかと思います。もしもそのようにご推察でありますれば、それはそのとおりでございますので、よろしくお願いいたします。
 そのとおりなのでありますが、今日は「言いたい放題」ということでございますので、たまたまなのですけども、ここ3日ほど前に遭遇したできごとを題材にさせていただいて言いたい放題に話をさせていただこうかなと思います。
反面教師的な
演題タイトル
 ということは、どういうことかと申しますと、ある講演依頼をちょっと前に頂戴しておりまして、いろんな講演依頼を頂戴いたしますけども、そのなかの一つの講演先から演題をこういうふうにしたいと思いますけど、よろしいですかというお問い合わせを頂戴しました。その演題が、一生懸命考えられたものであった訳ですけれども、ちょっとこの演題ではどうしてもしゃべるわけにはいかないなと思うようなものを頂戴したのです。
 先方としては、重い問題があるわけではないのですけれども、こういう書き方で書かれたタイトルで話すということは私はできないなというふうに思って、これではちょっとまずいですと。まあ、私としてはこれでは斯々然々(かくかくしかじか)で話せないので、演題を変えるか、講師を変えるかしかないというやり取りをして演題を変えて頂くというところに収まったのであります。掛川ではございません。念のために申し添えておきますが・・。
 別にそれでそうギクシャクした訳ではありませんでしたが、そういうことでは私はしゃべれないなと思ったタイトルをご紹介をいたしまして、なぜそれではしゃべれないのか、そこにどういう問題があるのか。これ非常にいま、我々が「チーム・アホノミクス」がやろうとしていることと関わって、犯してはいけない落とし穴に対して非常にいい警告を与えてくれる、まあそう言っては申し訳ないですけど「反面教師」的なものの側面をもっているタイトルのつけ方だったなあと思うので、それを題材にさせていただいて話をさせていただきたいと思っているのでございます。
 そこで頂戴をいたしました、決してこれでは私は話せないと思ったタイトルをここに書き出してみます。
 『改憲だけなのかアベノミクス、新三本の矢はどこに ~1億総活躍社会、働き方改革、全世代型社会保障~』という、こういうタイトルでいかがでしょうかというご提案を頂いたのでございます。
 賢明な皆さまは、すぐお判りだろうというふうにも思いますが、これはいけません。基本的に。なぜいけないのかということをこれから申し上げてまいりますけれども、なぜいけないかというのは、二つの点においてマズイというふうに私は思います。その二つの点というのは、どういうところかというと、我々は「チーム・アホノミクス」、まさに改憲をめざしてとんでもない勢いでゴリ押しをしようとしている訳でございますし、まあ、この「アホノミクス」の大将自身は、足元がちょっと幸いにして揺らいできておりますので、もしかするともう秋には去っていくことが若干期待できるかもしれないところになってきています。それはそれで非常にめでたいことではございます。
 ただし、ここまで情熱をこめて「打倒アホノミクス」でやってきた私としては、こういう格好で打倒の的がなくなるということになると、それで体調を崩すかもしれないと危惧もしております。いうなれば、「アホ・ロス」で病気になるという若干そんな気分でございます。まあ、そんなことを心配することができるようなところまで来たというのはなかなかめでたい事でございますが、ただし、「アホりで憲法改正をめざそうとしている自民党の改憲推進委員会というようなものもあるので、これからも我々は警戒を怠らず、鋭く見守り、そしてやっつける構えをとっておらなければいけませんけれども、それにしても先ずは、「アホノミクス」の問題点を見ていかなければいかないということです。
二つの基本的な心構え
 そこで、「チーム・アホノミクス」をやっつけていこうとするときに、我々が基本的な心構えの原点としてポイントが私はどうも二つあるというふうにずっと考えるようになってまいりました。
 それを最近特に強く感じているのですが、打倒アホノミクスに向かっての二つの心構えということで私が考えますことは、その一つは、「森を見て木を見ず」というのが心構えの原点その1です。そして、心構えの原点その2が「敵の言葉で語らず」ということでございます。
 「森を見て、木を見ず」、そして「敵の言葉で語らず」、この二つの原則をしっかり踏まえておくことがすごく重要だという気が私としてはしているのでございます。
 「森を見て木を見ず」というのはですね、もうこの「チーム・アホノミクス」がやらんとしていることの全体を、全体像として見て、こうアタックをかける。森の個々の木々の枝振りがどうであるかとか、この木はちょっとあやしげだけど、こっちの木はまあいいんじゃないかいうようなつまみ食い的な感覚をもって「アホノミクス」を見ては絶対にいけないということでございます。
 この個々の木々が、どのような姿形をしているか、どのような枝振りをしているか、どのような花を咲かせているかというようなことは、もうそこに目を取られてはいけない。どのような花を咲かせていようと、どのような枝振りの木であろうとそのルーツは全部同じである。おなじ土壌から生えてくる木々である。その土壌を形成している下心というものに、我々は眼を向けていなければいけないのであって、個々の木々のここがマズイとか、ここは良いとかいうふうなところに踏み込んでしまうと、まあ訳が判らないうちにローマの森の奥深くに連れ込まれていってしまうということであると。それが、「森を見て木を見ず」ということでございます。
 「敵の言葉で語らない」ということについては、もうちょっと後の方で申し上げたいというふうに思いのでございますが、まず、このメインタイトルの「改憲だけなのかアベノミクス、新三本の矢はどこに」という言い方、これは「森を見て木を見ず」という原則にすでにして違反をしていると。ほんとに申し訳ありませんが、ここに関係者はおいでにならないと思いますので。まあ、関係者にも説明しようかなと思ったりもしているのですが。それが、「森を見て木を見ず」の原則に違反しております。なぜかと言えば、お判りなるかと思いますが、「改憲だけなのかアベノミクス」と呼びかけているんですよね。「新三本の矢」はどこにいったのと言っている。 これは、「改憲という木」と「新三本の矢という木」があって、こっちばっかりじゃない、こっちはどうしたの、というふうに言っているのがこのタイトルの主旨でございます。「新三本の矢」とかいって偉そうにいろんな新機軸を打ち出してきたというのに、やってることは改憲に突っ走っているだけではないか。新三本の矢という方の木はどうしたんですかと問いかけている。それがこのタイトルのなかから滲み出てきている考えかたでございます。これは、そういう言い方をしたというところで、ちょっと敵の術中にはまっていく、そういうところがあるというふうに思われます。
 つまり、この二つを分けたというところですでに問題その1がある訳ですが、さらに問題その2として改憲だけなのか、「新三本の矢はどこに」といっているということは、新三本の矢をちゃんとやりなさいと言っているニュアンスですね。改憲はだめだけど、新三本の矢のほうはやってもらった方が良いという思いがここに滲み出ております。
 改憲はいやだけど、これはやってもらわなくちゃいけないというふうなことになっています。ここでまた更に深く敵の術中にはまっていき、ローマの森に更に深く踏み込んでしまっているというふうにいわざるを得ません。何故かというと、この「アホノミクス」の世界においてはこの新三本の矢なるものが、改憲に直結する関係性があるからでございます。
 改憲に向かっていくという下心、この土壌の上に新三本の矢というやつは生えているわけでございまして、こっちは良いけど、あっちはダメというような比べ方をするということ自体が、非常にことの本質を見誤っていくということになると思います。
戦後体制からの
脱却はどこへ
 じゃあ、しからば改憲というテーマと新三本の矢というテーマ。こっちは法律を変える話で、こっちは経済政策というふうに、あっちは法律の木、こっちは経済の木というふうに別の種類の木であるというふうに考えられている感じになっておりますが、実はこの両者のルーノミクス」の大将だけがいなくなったとしても、まだその背後においては彼よりもなお前がかツは同じでございます。この改憲というテーマと新三本の矢とか、オリジナルの三本の矢というやつもあった訳ですが、諸々の「チーム・アホノミクス」がくり出してくる経済政策と、この改憲というテーマのその両者をつなぐ根底にある下心、その下心は何であるかということでありますが、この両者を束ねている下心は何かということを実は、安倍首相、「チーム・アホノミクス」の親分ご本人がご自分の言葉で我々にちゃんと教えてくれています。
 それは、どういうことかというと彼が2006~07年の第一次安倍政権の時からくり返し言っていることでございますが、彼は次のように言っております。「自分が最終ゴールとしてめざしているのは、戦後レジームからの脱却である」と、彼は折にふれて言っております。戦後レジーム、戦後体制から脱却するということでございますが、戦後体制から脱却すると。
 ともかく、戦後という枠組みから脱却していきたい、飛び出していきたいということを彼はずっと言って、それが自分の最終ゴールであると言って憚らない訳でございますが、じゃあ戦後レジームからの脱却というのはどういう意味か。戦後体制から飛び出したい、戦後はいやだということになれば、行ける先は一つしかございません。これは、ものすごく実はシンプルな話でございます。
 「戦後はいやだ」ということになれば、もう行ける先は一つしかございません。それは、これはものすごく実はシンプルな話でございます。戦後はいやだというなら、もうこれは戦前に戻るしかない訳でございます。どう考えたって答えはそれしかないはずです。今から未来永劫、どこまで行ったって戦後は戦後なのでございますから、それが嫌だというならば戦前に立ち戻るということしかオプションはない、選択肢はない訳でございます。
 かくして。彼らがめざしているのは我々を戦前の世界に引きずり戻していくことなんだということが、親分ご本人の言葉から明確に判るわけでございます。
 戦前における日本の世界というのは、戦前の日本の世界というのはいかなる世界であったのかと言えば、「大日本帝国」の世界であった訳です。かくして彼らがめざしていくことは21世紀において、21世紀版の「大日本帝国」を構築するということ、そこにめざすところがあるんだということが、この戦後レジームからの脱却という言い方からものすごく素直な流れとして出てくるのでございます。
「世界の真ん中で輝く国」
 この21世紀において、「大日本帝国」を最構築する、再現するということをめざしているという訳であります。だからこそ、現行の日本国憲法は絶対に変えなきゃいけないというふうにこれまた実にシンポルなロジックでそこに到達をするのでございます。
 かくして彼らがめざすところはすべて、この21世紀の「大日本帝国」を構築するというところにいま焦点があたっている。そしてその21世紀版の「大日本帝国」が21世紀の「大東亜共栄圏」の中心に光り輝くということをめざしている。
 いみじくも2017年、昨年冒頭の通常国会の首相の施政方針演説で安倍首相は、自分がめざすところは「世界の真ん中で輝く国づくり」だと明言しております。すごいです。世界の真ん中で輝いているということでございますから、そもそも輝くんですが、輝く国づくりという言い方で、私はそもそもこの「国づくり」という言い方が気に食わないなというふうにいま思います。国づくり、国をつくっちゃう。そのような大それたことを我々は、彼に頼んだつもりは毛頭ございません。
 日本国という国はすでにしてしっかり、立派にあるわけでございますので、「建国神話」のごとき仕事を彼に発注したつもりは毛頭ない、ということで、なんと僭越なことにというふうに思いましたら、しかも、かてて加えて言うに事欠いて、「世界の真ん中で輝く国づくり」という訳でございます。
その同じ施政方針演説のなかで、「世界の真ん中で輝く国づくり」はどういうことかということについて彼は、次のようにも言っています。「アジア、環太平洋、そしてインド洋にいたる領域において、日本が平和と繁栄のために活躍する」ことをめざすんだというふうに言っております。
 ということでございますけども、平和のために頑張るのはいいのですが、それにしても、アジア、環太平洋、そして果てはインド洋におよぶ領域において日本が影響力を強めるんだというふうに明言してる訳です。
 このアジア、環太平洋、そしてインド洋にいたる領域ということになると、これは実は戦前の「大東亜共栄圏」より広い領域でございます。戦前の「大東亜共栄圏」のなかにはインド洋方面は入っていませんでしたから、それをさらに上回る広域なる世界の真ん中で光り輝く、そういう21世紀版の「大日本帝国」をめざしているんだということを宣言しているわけであります。だから改憲というテーマもそこに紐づいている訳でございます。
アベノミクスと
外交安保政策は表裏一体
 そしてさらに、じゃあ、そこにこの新三本の矢はどう関わってくるのかということでありますが、これについても、その関わり、このルーツは一つだっていうことを安倍首相がこれまたご本人の言葉で我々にしっかり教えてくれています。
 というのは、2015年4月に彼がアメリカに行ったことはご記憶にも新しいところだというか、ご記憶がよみがえることかなとも思います。まだオバマ政権時代、トランプおやじ時代に入る前のことでございますけれども、その時、安倍さんはアメリカで議会演説もいたしましたが、その他にもいろんなスピーチをやっております。
 その一つに、彼が、かの「笹川平和財団」のアメリカ支部というところでおこなったスピーチがございます。その内容は、その一言一句が笹川平和財団アメリカのホームページに掲載されておりますので、ご確認いただくことができますが、笹川平和財団でのスピーチで、彼は次のように言っております。
 「アベノミクス」と、ご本人でございますから「アホノミクス」とは言わないのでございますが、でももっともそのうち言うんじゃないかと思って私はちょっと期待をしております。ここまで私が、この「アホノミクス」という言葉の普及に努めてきたということでございますので、まあ、そのうちご本人もある日ある時、思わずポロッと口がすべって言っちゃうんじゃないかなあとその日を楽しみして頑張っていることでございますが、その時は、彼は次のように言っております。
 すなわち、「アベノミクスと私の外交安全保障政策は表裏一体の関係にございます」と、このように言ったんですね。そう彼が言ったものですから、質疑応答の時間に入って、当日の司会者はですね、「安倍首相、あなたは先ほど『アベノミクスとあなたの外交安全保障政策は表裏一体だ』とおっしゃいました。それってどういうことでしょうか。もう少しあなたの経済政策とあなたの外交安全保障政策の関係についてお聞かせください」とこういうふうに言ったのです。
 それに対応して彼は次のように申しました。「日本経済をデフレから脱却させることができて、日本経済が再び成長するようになり、日本のGDPを大きくすることができる」。
 GDPというのはご承知のとおりですが、国内総生産、グロース・ドメスティック・プロダクトの頭文字を取ってGDPでございますが、一国の経済規模をはかる最も総合的な指標、それがこのGDPという訳でありますが、GDPを大きくすることができる。
「日本経済をデフレから脱却させ、日本経済が再び成長するようになり、日本のGDPを大きくすることができるように、それに伴ってしっかりと国防費も増やすことができるようになります」と。このような意味合いにおいて強い日本経済を再生することと、しっかりした外交安全保障政策を建て直すことはまさに表裏一体、しっかりした外交安全保障政策の建て直しのためには「アベノミクス」が必要不可欠なのであると、このように彼は言っているのでございます。
 ここで、「アホノミクス」というものの位置づけが明確になった訳でございますね。「アホノミクス」を展開することで、日本経済をデフレ脱却をめざし、再び日本経済を成長させ、日本の経済規模を大きくしようとしているという訳ですが、なぜそういうことをやろうとしているのかというと、それは決して、決して日本国民のためによりうまくまわってくれる経済、日本国民をより幸せにしてくれるような経済をつくりあげるためではない。そういうことのためではなくて、ひたすら軍備増強が可能になるための経済基盤をつくる。そのために「アベノミクス」を展開するのである。そのような意味合いにおいて「アベノミクス」と自分の外交安全保障政策は表裏一体だということを明言している訳でございます。
21世紀版
「大日本帝国」づくり
 そして、その軍備増強をめざす自分の外交安全保障政策の最終的なゴールは21世紀版の「大日本帝国」の構築であるというのが、彼が考えていることの全体像が非常に判りやすい形で彼の「アホノミクス」の大将ご本人からの言葉のなかから浮かび上がってくる訳です。
 ですから、改憲だけなのか、新三本の矢はどうしたのかという言い方は、いま申し上げたような「アホノミクス」をめぐる安倍政権の構えとの関わりでは成り立たない言い方な訳でございます。
 新三本の矢というようなものを打ち出してくる「アベノミクス」「アホノミクス」というものは、これは21世紀版の「大日本帝国」の経済基盤づくりのためにこれをやると、21世紀版の「大日本帝国」の法制度上の枠組みづくりのために改憲をやるということですから、完全に同じ根っこからこの二つの木は生えてきている訳でございます。ですから、どちらか、どっちかというような並立的に並べて考えるものではないということは明らかであります。ですから、憲法改正で強兵、そして、「アベノミクス」で富国という、この「富国強兵」路線をもって、この「富国強兵」の乗り物に乗って21世紀版の「大日本帝国」に到達するというシナリオを彼らは描いているわけでございます。そういうシナリオを描いているのだっていうことが、この「チーム・アホノミクス」の親分の随所に非常に明確に出てきているということでございます。
 あくまでも、国家主義的な大帝国をつくり上げるというこの野望、その野望を実現するために、一方において改憲があり、一方において「アホノミクス」があるということでございます。
 ですから、改憲はいやだが、この新三本の矢は頑張って的に当ててほしいなぞという言い方は絶対に成り立たないのでございます。そういうこの選択肢であるかのごとく認識してしまうのは非常に非常に危険なことでございますので、絶対にやってはいけないとそういうふうに思うところでございます。   (次号に続く) (編集文責は編集部)

『非国民』とは誰か?(終)  池住 義憲


権力者と『非国民』
 『非国民』という言葉は、権力を集中させた権力者が用いてきた用語です。 権力者が自らの権力行使に反対する言動を行う国民に対して使ってきました。近現代の日本とりわけ日清戦争(1894~1895年)から15年戦争(1931~1945年)に至る期間、反国体的また反戦的活動や言論を行う国民に対して、時の権力者は特定な思想・価値観に基づいて、憎悪・非難・侮辱の意を込めて用いてきたのです。
 戦争遂行に協力しない者、翼賛体制を批判した者、反戦を唱える者、果ては戦時中に自分の家族の安全・生活を戦争遂行のための集団行動よりも優先させた者を『非国民』呼ばわりしました。
 2000万人のアジア・太平洋地域の人々、310万人の日本にいた人々を犠牲した戦争を推し進め、強要したのは、誰だったか。その精神的支柱となった「国家神道」(1889年)や「教育勅語」(1890年)を強要・強制したのは誰だったか。民主主義社会、自由社会を否定・崩壊させた人たちこそ、「非国民」ではないか。
 いま日本で、かたちを変えて、同じ状況が進行しています。「安倍一強」の下で、政権与党は特定秘密保護法や安全保障関連法など、憲法違反の法律の既成事実化を積み重ね続けています。そして今や具体的に憲法『改正』を提起するまでに至りました。
 憲法に緊急事態条項を盛り込むことによって、更なる権力の一元化を進めようとしています。9条改変・改悪によって、戦後私たちが護ってきた平和主義を蔑ろにしようとしています。こうした動きに抗(あらが)う市民に対して行政府の長(首相)は、挑発的語調で「こんな人たち」「あんな人たち」と、応援街頭演説で公然と言い放ちました。
権力者による9条解釈変更
 1946年11月に私たち主権者が国民主権・基本的人権・平和主義・地方自治・三権分立を五本柱とする平和憲法を制定してから、72年が経ちました。その後政権与党は、2度にわたって憲法9条の解釈を変えました。一度目は、1954年7月。必要最小限の実力組織としての自衛隊を創設した年です。外国から急迫不正の侵害があり、且つそれを排除する適当な手段がない場合は、必要最小限の“実力”行使を行うことが可能、としたのです。憲法解釈変更によって「個別的」自衛権の行使を可能にしたのです。
 二度目の解釈変更は、2014年7月1日。第二次安倍内閣は、臨時閣議で「集団的」自衛権行使を認める新たな解釈を決定しました。「万全の備えをすることが抑止力だ。戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなっていく」と強調して。日本と密接な関係にある他国の対する武力攻撃が発生し、これによって日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から脅かされる明白な危険があるなど3つの要件を満たせば、自衛の措置として武力の行使は可能としたことです。「集団的」自衛権の行使を憲法解釈変更によって可能にしました。それを法制化したのが2015年9月19日成立の安保関連法です。
キリスト者からみた9条
 9条は、戦争放棄・軍備不保持・交戦権否認を定めた、世界でもっとも先駆的な条項です。9条と同じ理念を探ると、紀元前8世紀にまで遡ります。旧約聖書イザヤ書2章4節には、「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない」と書かれてあります。
 その後も、たとえば紀元前5世紀頃には「法句経」(釈尊の言葉と大乗仏教の教え)の「殺すな、殺させるな、殺すことを許すな」、1~2世紀頃の新約聖書「マタイによる福音書」の「あなたの剣をもとの処におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる」(2652節)などがあります。
 近年では1926年内村鑑三の新文明論に、「わが日本が国家的宣言を発して、国家の武装解除を宣言し、こうして全世界に戦争のない新文明を招来し得るなら、それはなんと素晴らしい日であろう」などもあります。
 このように9条の理念は、三千年近い人類平和を求める願いが積み重なって、世界でもっとも先駆的な日本国憲法に成就・成文化されているのです。
権力者に抗(あらが)う
 しかし日本社会の権力者は、9条解釈変更をベースにして、いまや憲法そのものを変えようとしています。巧妙なやり方で緊急事態条項を盛り込んで、権力の更なる集中と強化を目論んでいます。こうした安倍自公政権とその補完勢力に、私たちはどう抗(あらが)うか。
 私は、憲法に拠って立ちます。憲法を盾として立ち向かいます。憲法は、私たちの自由と権利を護るもの。そのためには、私たちが権力を縛り続ける必要があります。これまで起こった権利侵害や抑圧は、例外なく権力者による権力乱用によるものだからです。冒頭に引用したジョン・アクトン卿の言葉は、こうした歴史事実を踏まえたものです。
 私たちは憲法99条で、天皇や内閣総理大臣を始めとする国務大臣・国会議員・裁判官・公務員らに憲法を尊重し擁護する義務を負わせています。もし私たちが「これは、おかしい!憲法違反だ!」と思ったら、主権者として暴走にストップをかけることです。
 権力者による憲法解釈は変わっているが、憲法は、9条は、一語一句変わっていない。私たち市民は、この現行憲法を使って、これ以上の権力者の暴走を止めることです。憲法違反の法律は、その効力を有しません(憲法98条)。憲法に拠って立って、権力者の違憲な行為に対して、プロテスト(抵抗)する。自分のまわりで。出来得る範囲で。
私はこれを、「服従しない権利」と呼んでいます。
 悪法に対しては、服従する必要はない。1930年代にガンディが塩税法に反対した非暴力不服従運動のように。1950年代にキング牧師がバス車内人種分離法に反対した非暴力不服従運動のように。今こそ、憲法に拠って立ち、「服従しない権利」を行使すべき時だと思う。
「非国民」たれ!
 「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれ、日本の議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務めた尾崎行雄(1858~1954年)は、不敬罪に問われてもなお、戦前の翼賛体制を批判しました。そして、戦後の日本人に対し、「非国民たれ!」と言いました。
 そう、そうです。権力者に媚びを売るのでなく、「忖度」するのでなく、諦めて沈黙して容認するのでなく、憲法が保障する基本的権利を享有するすべての人(国民)の権利と自由を脅かすあらゆる動きに対して、抵抗(プロテスト)する。抗う。私たちは憲法第12条で、「不断の努力」によって私たちの自由と権利を保持する責任を自らに課しているのです。
 1970年末、オランダの国際援助組織NOVIBという団体が、社会を変えるために「あなたに出来る百カ条」というのを出しました。その第一条は、「無力感を克服すること」!これが、私たちが「平和の器」「平和の道具」となるための第一歩です。(了)

第6回9条世界宗教者会議」に参加して


広島宗平協 築田哲雄
「9条世界宗教者会議」はこれまで過去5回、日本国憲法9条の価値を世界の人々と共有し、憲法9条の精神をもとに、東アジア地域における正義と平和の世論形成を高める方法について検討することをテーマに国内外で開催されてきました。
 今年6月13日から15日まで、世界各地の諸宗教者が広島に集まり、「憲法9条による世界の平和~被爆地ヒロシマから」をテーマに「第6回9条世界宗教者会議」の本会議が開催されました。
 会議の参加者は、日本、韓国、中華主義人民共和国、香港、台湾、タイ、インド、ドイツ、オーストラリア、カナダ、英国、米国から250人が広島国際会議場に参集しました。
 かつて軍都であった「廣島」、そして原爆の惨禍から立ち上がり、反核平和を訴え続けてきた「ヒロシマ」が今回の開催地であったことに深い感慨を覚えます。
 さらには、時あたかも本会議開催日の前日、6月12日には、シンガポールで米朝首脳会談が行われ、長年にわたって厳しく敵対してきた米国と北朝鮮が、初の首脳会談を行い、朝鮮半島の非核化と平和体制構築をすすめ、両国関係を敵対から友好へと転換させるために努力することで合意した歴史的出来事があり、今回の私たちの会議を一層意味あるものへと導きました。
 戦前、私たち日本の宗教者は、各宗教の「真理」を投げ捨て、侵略戦争を正義の戦争として推進し多くの人々を戦場に送っていきました。
 そして、私たち宗教者は、「奪われたいのち」という厳然たる事実を糊塗し、「捧げたいのち」として意味付け、後に続けと称賛する過ちをおかしました。
 その上で今私たち宗教者がなさねばならぬこと、そして出来ることは唯一つ、同じ過ちを繰り返さないために、国にそして世界に連帯して声をあげることです。
 「殺さない 殺させない」「兵隊も武器も用いない」この言葉は私たちそれぞれが信じる教えの根底をなす「真理」です。そしてこの「真理」は、これまでの戦争で殺されていった数多の人たちの慟哭が、「戦争放棄・交戦権の否認・戦力の不保持」という日本国憲法第九条という形に結実したものでもあります。そして今その第九条の理念は、真の「世界の平和」を願う人たちにとって、人類の叡智の最先端であり、世界の平和を構築していくための「道しるべ」であると受けとめられています。
 ところが今まさにその憲法第九条が変えられようとしています。もし第九条が変えられれば、東アジアにより大きな「戦争」への緊張を生み出すことは明らかです。2018年、世界各国より様々な信仰を持つ宗教者が広島に集い、まず憲法第九条を生み出した原点を「被爆地ヒロシマ」において共に確かめたことは、まことに時期にあったご縁だったと思います。
 本会議の最終日、「第6回9条世界宗教者会議」の共同声明作成の論議のなかで、一人の参加者から、宗教者の会議らしい特徴を声明文に表現できないかと、問題提起があったとき、「それは何より、先の戦争において、宗教者が教祖・宗祖の教えに背き、戦争協力したことを懺悔すること、ここから始め、ここに尽きる」との発言があったことが私の心にのこります。外への批判と同時に、それを我が内に厳しく向けることにこそ、宗教者の「しるし」だと確かめたことでした。

山家妄想  八百萬神

★大和にあるお宮を訪ねた時、その古さを知る手がかりを教えられた。大神神社と石上神宮、そして談山神社を例として、なにがお祀りしてあるかを見ればよいのだと。飛鳥にある大神(おおみわ)神社の御神体は大和三山の一つ三輪山であり、天理市の石上(いそのかみ)神宮(じんぐう)のそれは七支刀といわれる七つの刃をもつ、多分、外国渡来の刀である。多武峰の談山(たんざん)神社には藤原鎌足が祀られているという。つまり人々の生活と密着し、人びとが畏怖を抱くほど厳かな自然物を神としてあがめることから発して、珍しい存在で神秘性を感じずにはおれぬ貴重な「もの」を神として扱い、はては在世中はひときわ秀でた存在、死にあたっては悼まずにはおれぬ非業な者であったなどの人物を、その魂を鎮めるために神として扱うのだという。
そのようにしてみれば富士山や浅間山(あさまやま)をご神体にする浅間(せんげん)神社は古く、天神さまで各地に馴染みの菅原道真を祀る天満大自在天神など馴染みとなる。
★九州大宰府に左遷された菅原道真は九州への途次立ち寄った各地にさまざまの事跡を残し、わが町の天神社には「手植えの松」(初代は大きな幹が社殿に収納され、境内には孫の松と伝えられるものが健在である)の言い伝えあり、左遷の地で死去のあとさまざまの異変が続発し、その怨霊を鎮めるために神として祀られたと聞くが、いまは学問の神として信仰をあつめている。
この世で権力を握った者も死後神となることを欲し、秀吉は豊国大明神となり、家康は東証大権現となった。
★わが宗派は禅であるが、鎮守を祀り毎日諷経する。その回向には鎮守である大弁財尊天に続いて、金毘羅尊天、愛宕山大権現、八幡大菩薩、春日大明神、加茂下上大明神、祇園牛頭天王、伊勢大神宮などの神々、そして町内の天神、稲荷大明神、鎮火大明神、住吉大明神、大歳大明神そして塩釜さんなどの名を挙げ、「火盗災不興 安寧魔事不成」と祈るのである。「神祇不拝」をとなえられる宗派からすればお叱りを受けるかもしれないが、明治の神仏分離令以前には同じ境内に神社と寺院が同居していたことを思えば、そう角をたてることもあるまいと思っているのである。
★明治天皇の父君孝明天皇の陵墓は京都泉涌寺の裏山にあり、泉涌寺は天皇家の菩提寺であった。代々の位牌も寺に存在していると聞く。仏教伝来のみぎり蘇我氏は崇仏、物部氏は排仏をとなえて争ったというが、聖徳太子は菩薩天子として「篤く三宝を敬え、三宝とは仏宝僧なり、それ三宝に帰せずんばなにを以ってか枉れるを直うせん」とのたもうたと伝えられている。民族の心に伝えられた信仰としては、明治以前の広い心に立ちかえるべきと思うのである。
★神様の世界も明治以来は政治の波に大きく洗われることとなる。明治神宮は現在初もうで客全国一を誇るというが、その創建は1914(大正三)年に明治天皇の皇后であった昭憲皇太后が崩御すると、翌年5月1日官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表され、全国から一万人余の国民の労力奉仕を得て、祭神・明治天皇と昭憲皇太后の鎮座祭を1920年に行った。今年はそれから満100年の記念すべき年という。初詣参拝者は祭神・明治天皇と皇后に何を祈願するのだろうか。
★京都では平安神宮が1895年、遷都を行った桓武天皇を祀る神社として創祀された。「皇紀2600年」の1940年に、平安京で過ごした最後の天皇である孝明天皇が祭神に加えられた。平安神宮では、京都を守る四神(玄武・青竜・朱雀・白虎)の御守が授与されている。平安神宮の時代祭は神宮創建を祝って始められたものであり、葵祭や祇園祭に比べると歴史は浅いが、町衆の伝統をもつ京都市民が主体となって盛り上げる祭りである。
★いっぽう次のような神社も存在している。北海道神宮はもと札幌神社。全国一の宮会より蝦夷国新一の宮に認定されている。
 樺太神社は樺太の総鎮守・総氏神とされた。日露戦争の後、樺太南半が日本領有となり、その鎮護のため、大国(おおくに)(たま)神・大己(おおな)(むち)神・少彦名(すくなひこな)命の「開拓三神」を奉祀した。明治以後の内地人の進出に従い、新しい国土開発の守護神として造営されたことが知れる。樺太はともかくとして、かつての蝦夷地は先住民としてのアイヌが居住していた。彼らの信仰・神がどのような扱いを受けたか、深刻に考える必要があろう。また、沖縄本島には、琉球王府より特別な扱いを受けた沖宮(おきのぐう)・波上宮(なみのうえぐう)・識名(しきな)宮・普天間宮・末吉宮・安里(あさと)八幡宮・天(あめ)久宮(くぐう)・金()武宮(むぐう)の琉球八社がある。安里八幡宮にのみ八幡神が祀られており、それ以外の神社では熊野神が祀られているという。「日本民族」という観点からのみでない神への信仰を考えることが必要と思うのである。
(2018・6・19)  水田全一・妙心寺派の一老僧