日本宗教者平和会議in長崎 記念講演

「非核非戦の碑の歴史と願い」②
真宗大谷派・長崎教区・信行寺住職  清原 昌也

原子爆弾災死者収骨所完成
 これは長い年月、この状態だったんです。確か昭和40年からこの状態になって安置されていたようです。長崎教区のみなさんはこの遺骨についてずっと悶々として、何度も、何度も納骨堂の建設について話し合いが持たれてきたんですけれども、50年過ぎる時まで、結局納骨堂がきちんとした形にはなりませんでした。
 このパンフレットは2冊目なんですけども、最初の1号を作る時には私はずっと携わっておったんですけども、その時に色んな資料を調べましたら、本当不思議な言葉が書いてありました。 今も見てもらっている左の写真(先月号に写真掲載)ですけども、納骨堂としては建てられてないんです。結局のところ。この右手にあります教務所と呼ばれる事務所を改築する時に付属の建物として建設契約を結んで作られたわけです。この建物の小屋と倉庫のような形で建てられた物が収骨所として使われていたんです。
 ですから、当時の図面を見た時にビックリしたんです。付属建物としてしか書いていない。納骨堂って書いてないんです。とてもその時、調べながらですね、悲しい気持ちになったのを覚えています。
 このお骨ですけれども、昭和22年から3年にかけまして、遺骨があまりにも多くなりまして、重さに耐えられず、預かっていた所では床が落ちるなどという被害もありまして、もうとにかく預かり場所が無いという事で、改築された西坂の長崎教会にお骨を預かる事になったわけです。
遺骨の納骨先
 ちょうどその頃ですね、お骨どうしようもないから長崎市の方で引き取ってくれないかという風な話があったらしいです。しかし長崎市、行政としても大変な時期であって、納骨堂を作る計画もないし、預かる所もないから引き取れませんと昭和23年の頃に長崎市から断りがあるのです。
平和記念像に納骨場所?
 平和の象徴として長崎では観光地ともなっておりますけども、平和記念像という物があります。この平和記念像は、当初、昭和28年に計画が始まるんですけれども、平和記念像を建てるにあたり、その記念像の足元を納骨堂にするからお骨を返してくださいという願いが長崎市、行政の方から入ったという資料があります。
 しかし、その平和記念像を作り始めてみると、作り方、構造上の問題で納骨堂としては使えないという事が分かり、長崎市は納骨堂にしませんでした。
このような議事録がこの教務所に残っていました。
祈りの場として
 収骨所がもうすでに何度にも渡ってたくさんのご門徒が納骨、お骨に向かってお参りをする、そういう体制がこの教区の中に出来てしまった。そういう中に今更お骨を返してくれと言われても、それが祈りの場所になるのであればお骨を市へ返す事も出来るだろうが、祈りの場所にならない様な物であるならば、お骨を返すわけにはいかないという事で、議会で否決され、返還の否決がなされた。
 平和記念像、あれは北村西望さんが作った平和を願う姿の像を作る事が既に分かっていたんでしょうね。
平和記念像が祈りの場に?
 平和記念像が祈りの場所になるのか。せめて観音様かなんかの物であるならば人々は手を合わせるだろう。しかし得体の知れない銅像になれば手を合わせる人はおらんだろうという事で、この時、お断りをしているんです。その経緯でお骨を何とか大事に預からねばならないという事があった様です。
 これまた一つ変な話ですけれども、原爆50周年ごろにですね、今度はその平和記念像の脇の方に、納骨堂らしきものが出来たんです。この時には、この教務所にはお骨を返してくれと行政は言いに来ませんでした。色んな摩擦があるわけです。
昭和30年の出来事は
原子力行政の姿
 非核非戦、今から話そうとする事とは若干異なる別の話になるんですけれども、昭和30年ごろというのは、実に不思議な、色んな事が行われた時代だという事を、みなさんご存知でしょうか。
 この昭和30年ごろに向けて面白い事が起こったのは何かと言いますと、平和記念像が完成するのが昭和30年なんです。お骨を返してくれというのが昭和28年、2年前になるんです。だから納骨堂としての準備が進んでおった。
「原子力基本法」は
昭和30年に発足
 実は、昭和30年というのは、面白い年です。原子力基本法と言われる、今の原子力行政の基本となる法律が出来たのが昭和30年です。昭和32年、この原子力行政が表で言われるようになりまして、昭和30年の2年後です。被爆者援護法が出来ます。この被爆者援護法が出来る昭和32年にはもう一つ行政の方ではこういう事があります。
 原子力委員会が発足したのは昭和32年で、1年前の昭和31年出来たものが、茨城の東海村、という事で、原子力に関する研究所が作られるんです。
 ですから昭和30年、28年頃から30年をまたいで、数年間というのは原子力に対して平和利用が騒がれる年であるのと同時です。
被爆者の口封じか
 言葉非常に悪いんですけども、「被爆者だまっとれ」と言わんばかりに納骨堂の代わりの平和記念像が出来て、原爆の援護法ができ、その後に平和利用という事を言いだしてといういう様な事ですから、なんか10年経って被爆に対するほとぼりが冷めたころには平和利用という事を言いだしたのかなあと思わずにはおれない様なんですね。そういう流れがあります。
原子力の「平和利用」?
 またこの昭和30年頃っていうのはまだ他にもあるんですけども、例えば鉄腕アトムが出来たのも昭和30数年です。もう一つ言うならば、プロ野球のあの天覧試合があったのも昭和34年です。
 ではなぜこの天覧試合の事を言ったかといいますと、原子力委員会の初代の会長さんどなたかご存知ですか。正力さん。讀賣新聞の。なんか関連あるのかなあと思いながら。実はこの原子力委員会が起こりまして、その天覧試合があった時にはですね、もう一つ実は日本初の原子力発電所の模型、原基がですね、もう完成している年なんですよ。
 これで原子力の平和利用が出来ますと公表されたのも実は昭和34年の年なんです。なんか妙にこの辺の年、いわくがあるのかなあと私の中では想像したりもしたんですけども、まあ証拠は何にもないですね。
戦争を忘れて
 原爆が投下されて10年後には、その様に行政の方も戦争を忘れて高度の経済下の成長期に入って来て、原子力も平和利用しようという風な方向に進んでいくわけです。誰も反対するほどの知識が無かったのかもしれないですね。そういう中で原子力というものが使われ始めた。
 特に、鉄腕アトムが夢の世界で、ロボットが出来るといいなあと思う様な事ですから、みなさん平和利用を本当に真剣に、真面目に考えて、危険性というのはどこか分からなくなっていたのかもしれないですね。
「非核非戦」の始まり
被爆地広島から
 ちょっと年表を進んでいきましょうか。この昭和30年頃には原爆10周年。私は知らないですが、大きな大会だったと言われています。全国の仏教青年会、これ仏青ってのは仏教青年会です。ボーイスカウト、ガールスカウトの大会が行われたと。これがいわゆるこの、非核非戦の運動の一番大きな始まりの年に当たります。
 あとはもう節目ごとにですね、昭和35年でありますとか、要するに5年刻みであったり、法事をする時の三回忌、七回忌の様なですね、そういう刻みであったり、そういう時々に法要が度々つとめられています。
 昭和40年、20周年になりますけども、昭和40年に「原子爆弾災死者収骨所完成」という風にここには書いてあるんですけれども、これがですね、先ほど見てもらったこの裏手にあったといわれる建物らしいんです。
 昭和44年には被爆25回忌の法要で、ただお骨を預かっていますという事でどちらかというと亡くなった方の慰霊という意味が非常に強い法要がつとめられてきたんだろうなあという風に思うんです。
 しかしこの先から、非核非戦というものが大きく取り上げられてくるんです。昭和58年に、もう一つの原爆の地であります広島で、この広島の地を中心としましてここから、「非核非戦」という言葉が長崎に入ってくる事になります。長崎が発祥じゃないんですね。
 当時の広島の真宗大谷派の山陽教区とは兵庫県から広島の方までかけての瀬戸内海側を指します。非常に横長の教区でありますけども、そこの山陽教区で「我ら非核非戦に集う」というそういう催しものが昭和58年、40周年の2年前に立ち上がりまして、その時の資料集の記録集が発行されまして、それがどうも長崎にたどり着いているんです。
 その資料集、とてもこれは大事な事が書いてあるぞと。という事になりまして、その当時の青年の人たちがその言葉を一生懸命吟味します。
 「非核非戦」とはどういう意味か。その資料集を基にして吟味するんです。そういう吟味した中で、長崎教区はこれから「非核非戦」という言葉を大事なものとして進んでいこうという風な機運が高まります。
 原爆の40周年になり、初めてこの40周年の法要が、「非核非戦同朋の集い」という事で名前が出てくるわけです。やっと40周年になって非核非戦という言葉が出てきます。
「非核非戦」の意味は
 この言葉の意味はいったい何なのか。反核反戦というならば分かり易いものをなぜ非核非戦と言ったのか。こういう事はですね、ずっとこれはかかわり続けてきている部分なんです。今でもこれは、なるほどそうだと頷いた方もいれば、未だに全く分からないという方もいらっしゃいます。
 今度はまたパンフレットの一番最初をご覧ください。1ページ、まあ見開きで2ページになりますけども、このページに書かれておりますのが、「非核非戦」の一番の願いというか思いというか、言葉の中から導き出された事なんです。この右側に文章が書いてあります。
 この文章は実は50周年の時の法要の中の言葉を抜き出したものです。せっかくなのでここだけはちょっと読んでみようと思います。
「核とは」
「人間の知恵なり、
人間の無明なり」
 「戦没者たちは決して敵の砲弾や原爆で死んだのではありません。戦争を聖戦と呼び美化していこうとする人間の無明。そのただ一つなる罪によってではないでしょうか。反核反戦と非核非戦。他者に働きかける反とともに、自分の内に問いかける非という言葉をもって初めて自分というものが明らかになってくるのです。核も戦も他人ごとではありません。自分自身の心の中にこそ核や戦は存在するのです」。
 これだけ聞いてもみなさん、たぶんピンと、ピンとこられないだろうと思います。 この文章は、やはり親鸞聖人の教えというか考え方というか、そういうものに私は基づく大事な真宗の言葉ではないかなあという風に実は思うんです。
 そこでまず、人間の無明という少し文字が大きくなっていますけど、この文字をまず見てもらって、その文字の左側に目を移してください。
 「核とは」と書いて「人間の知恵なり。人間の無明なり」という風に表現させてもらっています。これ1号を作った時と全くもう文章の作り方同じなんです。核というのを人間の知恵と翻訳し、人間の無明と翻訳した。
「核は」物理学、
化学の知恵
 それからあの核というのは、当時も現在も、物理学、化学の中で最高の人間の知恵の象徴だと思います。1週間か2週間ぐらいじゃないですかね。重力波なるものが地球上で観測されたという事がテレビで話題になりましたけれども、重力波とはピンときませんもんね。私も理系だったのでちょっと言わせてもらいますけど、遠い宇宙でブラックホールとブラックホールがぶつかった時にその時に出てくる振動なんです。簡単に言うと。重力波というのは、アインシュタインがそういうものがあるはずだと主張しまして、100年経った今、初めて観測に成功したんです。この観測に成功したのをきっかけで世界の天文学者が、色んな機材を駆使して重力波の観測を世界中で行いました。その結果です。もの凄い事が分かったんです。
 超新星と超新星がぶつかり合った時に起こる衝撃で、もしかすると鉄より重い重金属という物の成り立ちがそこにあるかもしれないという事が分かったんです。錬金術というのは昔から言われますが。何かと何かを上手い事組み合わせて金を作ろう。人間の知恵では金は作れなかったんです。作れなかったんですけれども、あるんだから作り方があるだろうというのが科学者の考え方です。この重力波の観測によって金やプラチナが作られる作り方というか、可能性が発見されたと言われています。物理学です。
 この物理学の初歩になったのがある意味が核なんです。原子と原子をぶつけたらどうなるか。思ってみたら、もの凄い強力な力が得られたっていうのが核爆弾になった訳です。単純な話ですね。知恵を絞って、人間の知恵ですから、こうやったらどうなるだろう。突き詰めていってやってみたら恐ろしい兵器が出来ちゃったんです。これが人間の知恵なんです。もう最先端の知恵が人を脅かすものに残念ながらなってしまったという事です。
「人間の無明なり」
 でもこの知恵を「人間の無明」なりという表現しましたけれども、人間の知恵というのは科学者にしてみれば万能だ。探求していけば必ず見つかるという風に科学者は考えるんですけども、その考え方に溺れていませんかという考え方が「無明」という表現なんです。暗い中にあって暗さを知らない者にはなっていませんか。知っている、知っていると思い込んでしまって分からない事がある事を無視してはいませんかというのが「無明」という言葉の意味ではないかなあと思います。
 私、今回ですね、この場に参加させてもらいまして、要するに軍縮っていう表現になっていたり、核廃絶とか、まあ表現になっていたりするんでしょうけれども、私が非常にこの言葉に、実は不思議な疑問を感じています。軍縮とか核廃絶とかじゃなくて、人を殺しちゃいけませんっていう言葉で良かったはずなんですよね。
戦争ルールだけでいいのか
 みなさん、戦争にルールがあるのをご存知ですか。人間の知恵、これこそ無明ですよ。戦争にルールを最近作っている事をみなさんご存知ですか。無差別大量破壊兵器である核はやめましょうっていう風に戦争の中にルールを決めました。他にも皆さんルールご存知ですか。戦争のルール。生物化学兵器は人道的に良くないからやめましょうって決めました。あと他にもあります。クラスター爆弾、子爆弾をたくさん落としても不発弾が多いので後々たくさんの子ども達が犠牲になっているクラスター爆弾はやめましょう。これも決まりました。
 あともう一つ、日本が唯一最後まで反対していた地雷もやめましょう。埋めてしまって見えなくなったものを処理するのは大変です。子ども達がたくさん手足をなくしています。やめましょうってなりました。
人を殺すことも無明
 殺すための道具をやめ始めたんです。でもどうでしょう。じゃあ銃で殺してはいいんですか。ナイフで殺すのはいいんですか。普通の人じゃなくて軍人を殺すのはいいんですか。なんでそこら辺にならないんでしょうね。人間が人間を殺す行為には変わりはないんですけれども、全部殺しちゃいけないはずなんです。
 しかし殺し方だとか、殺していい人種を別けて、殺していいよという訳です。ですから色んな大きなテロなどがあったりすると、民間人が何人巻き添えになりましたとか、別けていますけども、全然関係ないはずなんです。
「殺し方」にもルールが
 日本の国内でも似たような事、世界中でも今まであったんでしょうけども、例えば刑事事件を起こして死刑という判決が下ります。
 今、日本はどうやって死刑を執行していますか。未だに絞首刑でロープで吊るんです。ただ他の国では、苦しまない様に殺しましょうっていう決まりがありまして、毒ガスであったり、注射であったりするわけです。ただそれもおかしいでしょうという風になりました。ですから無期懲役という事で、無期刑になって死刑というのがどんどん各国で無くなっています。
 こういう風に良い悪いは別としまして、殺し方さえもルールを決めようというこの人間の自分の都合に合わせたものの考え方というのをここでは「核とは人間の知恵なり。人間の無明なり」という表現、させてもらったんです。知っているつもりで知らない事がいっぱいあるという事です。
(見出し・文責は編集部) (次号に続く)

2018年東日本大震災犠牲者追悼・原発廃止廃炉を願う


「諸宗教による祈りのつどい」のご案内
日 時 312日(月)祈りのつどい・講演
場 所 日本基督教団常磐教会
電話0246-26-2717
973-8403いわき市内郷綴町大木下10の6内郷駅下車徒歩5
■宿泊場所 湯本温泉・古滝屋旅館
313日(火)フィールドワーク
参加費全日程16,000円(現地までの交通費は自己負担)
主催「祈りのつどい」実行委員会

被爆者援護連帯募金

ありがとうございました
 日本宗教者平和協議会が募金を呼びかけ、集まった被爆者連帯募金を昨年1221日、日本被団協へ渡しました。
 原発事故避難先の楢葉町の障がい者施設「希望の杜」、仮設住宅で避難生活をされている住民のみなさんへちひろカレンダーを送りました。 
 この募金にご協力くださいましてありがとうございました。

山家妄想  伝統的家庭の再生を


〇僅か40年ほど前に新築した純日本様式の建築に、結婚した若夫婦が親と同居することを拒み、別に今風のホームを建てるというのを相次いで聞かされた。
〇結婚以来、老齢にさしかかった母親が独り住む実家とさして遠くないところにマンションを借りて入居し子どもも授かって、折りにふれて子どもの面倒を実家に住む母親に見てもらいながら、同居することだけは拒んでいた若夫婦が、新居を建築した。鉄骨の真っ四角な家に、ドア一枚の玄関が何とも異様な感がする。堂々たる木造家屋の実家に隣接して、釣り合いが取れないと思うのだが、若い者たちは地震と津波には強いのだと得意げに語っているそうである。
〇さらに、お参りしたこれも築40年ほどの立派な和風のお家で、長男が結婚していることを知らされた。隣町のアパートに住んでいるそうで、近く子供も生まれるらしい。「隣にある田圃を埋め立てて、自分たちの家を建てるというのです」と母親が語りだした。ローンを組むのにも遅くなると返済が大変なので、今でなければというのだという。三人姉妹の末娘が養子を迎えて両親と同居して子育てし、両親を見送って子どもたちもそれぞれ結婚してのことだ。ここでも地震に強い家をと付け加えているそうだ。
〇かくして大きな広い家には、やがて連れ合いに先立たれた老人が独り淋しく住むということになるのだろう。介護認定を受けて、支援や介護を他人様のお世話になるという構図なのだ。そして旅だった後に残された家は、あえなく解体されるのだろうか。本来、日本では家の広さに関わりなく、結婚しても親子が同居し、親子孫の世代を超えた家族構成が普通のことであった。生まれた孫の世話を親が手伝い、年老いた親を子や孫が介護するのが当たり前なのであった。
〇舅や姑と様々な葛藤を抱えながらも、嫁いで来た者の宿命と実家の母に愚痴をこぼしながら、20年、30年を経て尻の坐った主婦の座を確立するのが日本の女性であった。そこでは現在のような保育園に入ることができぬ問題も、老人介護の問題も起こることはなかった。姑と嫁の確執も「最後にお義母さんの『やんちゃいってすまなかった。いろいろお世話になったなぁ』の一言で、報われました」と聞くのがほとんどであった。そして、先祖祀りをはじめ家事万端が「あの嫁さんはお姑さんとそっくりになった」といわれるようになるのである。このような日本が変化したのは、いわゆる「日本列島改造計画」高度経済成長政策の進展によってである。言わずと知れた歴代の自由民主党の施策によるのである。
〇「上野は、おいらの心の駅だ・・・」という歌の流行とともに、中学卒業生の上京集団就職にみられる地方から東京への労働力集中が日本列島全体に過密・過疎問題をもたらした。はじめは山村僻地に限られていた過疎現象も、いまや地方の「都市」にまで及んでいる。古い都市の中心部は老人だけが住み、ニュータウンともてはやされた近郊の新興住宅地に若者は新居を構えた。しかし、いまやそのニューダウンも過疎化し、老齢期を迎えたかつての若者の元を子供たちは捨てて、東京や大阪などの大都市のマンション住まいを始めた。坂道の多い瀟洒な住宅の並ぶ地域は老人の移動困難という問題を抱えている。
〇わが地域でも独居老人や老人二人暮らしの世帯がほとんどを占め、わが寺の道路を挟んだ対面は空家の連続である。見事に紅葉した蔦に一面壁面を覆われ、道路に倒れ掛かって「危険」と叫ばれている塀の家も無人である。若者はいない。彼等は旧街区の周辺に広がる田圃を埋め立てて新居を構えていたのだが、中高齢にさしかかった現在、子どもたちは家を離れ都会へと向かいつつある。
〇彼等の向う大都市圏は「過密」という矛盾におおわれていることは周知のとおりである。この矛盾の解決はまさに政治・経済の課題であり、あらためて「日本列島再改造計画」とでもいうべき大プロジェクトを興す必要がある。伝統を見つめ直した日本らしい日本の再創造を始めなければ、禍根は末代に及ぶであろう。
〇先日、姑を送って大きな伝統的家屋の主婦となった女性が、「都会から嫁いできて、何も知らずできなかった自分が、お義父さんやお義母さんに教えられて何とか子育てもしてこられた。本当に感謝しています」としみじみと語り、「隙間も目立つようになってきたけれど、この家を大事に守っていきます」と話してくれたのだが、このような会話があちこちで交わされるような日が来ればと思ったことであった。(2017・1124

水田全一・妙心寺派の一老僧