バチカンで国際シンポジウム

核廃絶へ対話強調


1110日から2日間、12億3000万人といわれるカトリック信者の総本山バチカンで核兵器の廃絶と軍縮に向けた道筋を考えようと「核兵器のない世界と統合的軍縮への展望」をテーマに、国際シンポジウムが開催されました。
 今年7月7日、国連で「核兵器禁止条約」が採択されました。バチカンは、9月に核兵器禁止条約に最初に署名・批准した国の一つであり、今回のシンポジウムは、核兵器廃絶・軍縮をテーマとする国際レベルの会議として、国連の条約交渉会議後初めてのものです。
 トランプ米大統領のアジア歴訪のなか、北朝鮮の核開発と同大統領の威嚇・脅迫などの緊迫した状況のもとで開催されたシンポジウムには、ノーベル平和賞受賞者をはじめ国連など国際機関や国、市民社会、宗教界の代表など約300人が参加し、日本の被爆者代表として日本被団協事務局次長の和田征子(まさこ)さんが出席し、フランシスコ・ローマ法王と面会し、「ヒバクシャ国際署名」を手渡し、署名をよびかけるとともに、「原爆を生き延びて」と題して証言しました。
 会議で法王庁のパロリン国務長官・枢機卿は、「核兵器の脅威に対する対応は、相互の信頼に基づく集団的で協調したものでなければならない」と述べ、「その信頼は、対話でのみつくりだせる」と強調しました。
参加者との謁見でフランシスコ法王は、「広島や長崎の被爆者らの証言が、次世代への警告の声となることを願っている」と核廃絶を訴えるとともに「核兵器使用の脅しも、保有そのものも断固として非難されないといけない」と核保有国を厳しく批判。「核兵器は見せかけの安全保障を生み出すだけだ」と批判し、核保有国に廃絶に向けた取り組みを促しました。

2017年日本宗教者平和会議in長崎

「非核非戦の歴史と願い」

    真宗大谷派・長崎教区 信行寺住職 清原 昌也


 台風のなかようこそ

 みなさんこんにちは。ようこそ大変な天候な中、長崎に足を運んで頂きました。ありがとうございます。
 私も台風の被害を受けた一人でありまして、私自身の事から紹介させてもらいますと、自坊は長崎県内ではあるんですが、橋でやっとつながっただけの一番西の端っこの島に住んでおりまして、昨日夕方の強風で私、寺に戻れませんでした。たまたまこちらの方にいたんです。それでどうしても帰らなくてはいけませんで、朝一番に寺に戻って着替えと今日の資料を持って朝から戻ってきたところでした。一晩中、橋が強風のため通れなかったんです。

 私の自坊は佐世保軍港

 その島といいますのは、崎戸島と言いまして、今から40年ほど前まで炭鉱があった島で、場所としましては、佐世保の港の一番外側の島なんです。
 未だに、アメリカ軍の基地に、大きな空母が入って来るのです。原子力潜水艦が入ってくるですとか、そういう事になりますと私が住んでいる島には、20人から50人ぐらいでしょうか、陸上自衛隊の方が船の監視のために島にやって来るんですね。

 潜水艦の姿に不安

 潜水艦が沖を通っていく時ほど気持ち悪いものはないです。普通の船ならみなさん、なんとなく風景が思い浮かぶと思うんですけども、潜水艦が沖を通るとどんな風に見えると思いますか。
水平線、海からですね、黒い四角い部分だけが浮かんでですね、ちょうど四角い壁が沖合をスッと横にずれるように動くんですよ。とても気持ちが悪いんですね。これが度々、家にいますと見受けられます。ですから、なんか戦争について、未だに、不安で、不安でたまらないというのが私自身の正直な感想です。

 私の経歴はキリシタン?

 今日みなさん、色んな地方から、色んな宗教者の方がお集まりですけれども、私も少し不思議な経歴を持っていまして、私の先祖さんはですね、「隠れキリシタン」です。そういう土地柄なんです。外海町、黒崎。今長崎では教会群を世界遺産にという活動になってますけども、その教会群の近くにですね、実家がありまして、8代遡ると「隠れキリシタン」なんです。非常にそれも不思議に感じます。

 非核非戦との出会い

 今こうして、非核非戦についてお話をさせて頂くことになっておりますが、お寺に生まれた訳でもなく、小さい時から周りはどちらかというとカトリック信者が多い土地柄なんです。そういう中で生まれ育ちましたし、その「隠れキリシタン」という事もずっと心のどこかに残っておりましたし、何よりもこの非核非戦に触れるきっかけを作ってくれたのは実はカトリックの神父さんに後押しされてなんです。
 非常に不思議な事なんです。長崎市内に海星高校というミッションスクールがありますけども、そこの神父さんの一言が私を突き動かしたんです。
 どういう事であるかと言いますと、長崎市内の小・中学校では必ず平和学習というのが夏ごろに行われます。そうしますと、原爆資料館に足を運ぶことになるんですね。今は非常にきれいな資料館になっていまして、展示物も見易くなっていますけども、以前の古い資料館はとても恐ろしい場所でした。生々しいパネルがたくさん展示してありまして、とても怖かった印象があります。
 おまけに、私が小学校2年生の時の担任の先生が原爆症と言われる白血病で亡くなりまして、小学校5年生の時にその先生のお見舞いに行って、お葬式にも行って、お葬式は浦上の教会でした。その時のショックがきっかけで私、資料館に入ることが出来なくなっていたんです。学習に出かけては行くんですけども、その先生の事と資料があまりにも激しく脳裏に焼き付きまして、中に入ると必ず階段の踊り場に行って吐き気の収まるのを待つ。みんなが帰る頃にもう一緒に帰って来るという日々がずっと続いておりました。
 高校生の時に、その神父さんが私にこう言いました。これは確か現代社会かなんかの授業中だったと思うんですけども。こういう事を言うんですよ。
「色んな嫌な事が世の中にはあるけれども、それに対して見ないふりをする、知らない顔をするというのが一番よくない。手を差し伸べることが出来なくても、見る事だけは出来るでしょう」と。この一言がきっかけとなりまして、やっと資料館に足を運ぶことが出来る様になりました。見る事だけは出来るでしょう。無視はしちゃいけない。知らないふりはしちゃいけない。知らない事はもっと悪い。そういう事だったと思うんです。

 長崎教区の歩み

 それで足を運ぶようになりまして、せっかくですからみなさんこの非核非戦のパンフレットに沿ってお話はしていきたいと思うんですけれども、非核非戦とともに長崎教区の歩みという事で大きな年表が出てまいります。これは原爆が投下されましてからこの非核非戦の碑が出来るまでのおおよその長崎教区の歩みというものが、ここに並べられておるんですね。
 私が昭和46年生まれの46歳ですからたぶん一番若いんです。でも実際にですね、私の同年代の長崎市内の大谷派の僧侶では学生の頃からかかわっている人がいませんから、意外と同年齢からしますと私が古くからかかわっています。



 原爆50周年を機に

 資料の1992(平成4)年原爆50周年に向かってというのがあって、原爆40周年、非核非戦同朋の集いっていうのが書いています。
 私この、同朋の集いから参加の始まりなんです。街を歩いて行進している写真が掲載されていますけれども、たぶん私が、この一番後ろの方に写真の中に写っているはずなんです。
 この行列に参加したのが私の始まりです。中学3年生の時で、歩み始めたきっかけとなります。しかし、この時も資料館の中にはまだ入れなかったんです。高校2年生の時も資料館に入れなかったんですね。この時から私は長崎の非核非戦というこの言葉に触れてきたという事を今回改めて確認させて頂きました。
 私もそこから今の自分が形成されてきたという風に考えておるわけです。

 遺骨の収集

 1945(昭和20)年8月9日の11時2分、長崎に原爆が投下された。これが事の始まりとなります。
 次の1946(昭和21)年原子爆弾殉難者追弔法要厳修。追弔法要が行われますこの時に、お骨が集まり始めております。 実際原爆投下直後から、身寄りを探してたくさんの方が市外からたくさん入ってくる訳ですけれども、お骨を拾うどころでは無くて自分の身内が生きているのか、死んでいるのかを探すのが精一杯だった状態のようです。
 ですから被爆者手帳と言いまして、被災した方が、長崎市内のある特定の範囲の中で、被爆者手帳というのを持っています。実際に直接被災された方と後になりましてから爆心地付近に身内の者を探しに来た方も被災者として、被爆者として登録されています。
 これ一応確認、よく覚えておいて欲しい所なんです。直接被爆した人とその後に入ってきて被爆した人。こういう2種類の被爆の形がある事を覚えておいて欲しいと思うんです。

遺骨の保管場所は

 最初は身内を探すために。そしてやがて、あまりにも哀れな惨状に、遺骨を拾わずにはおれない人たちが出て来ます。21年の3月6日。半年ほど経ってからですが。教務所の呼びかけで遺骨の収集が始まるという風に資料には残っています。別にこの大谷派の人達だけが拾っているのではなくして、色んな方々がもうすでに遺骨を収集し始めていたという事が、その他の、他の資料から推察することが出来ます。
 この遺骨、拾ったのはいいのだけれども、焼く場所も保管する場所も無かったというのが、色んな証言の中に出て来ます。最近確認した資料ですと、この教務所から、みなさんから見て右後ろの方になるんですが、あの勝山小学校という小学校が、当時救護所となっていました。たぶん爆心地から一番近い救護所がこの勝山小学校の救護所ではないかなという風に思います。
 一番高い場所が今の長崎教会、少し下にあるのが教務所の跡地です。
 長崎説教所は直接爆風が当たる様な所に教務所がありますけども、現在の教務所はすこし山陰になっています。それよりももう少し山陰になった所に勝山小学校があります。
 ですからこの原爆というのは直接熱風、放射線、光や熱が当たって亡くなった方もおりますし、その後の爆風によって吹き飛ばされたり、その吹き飛ばされた建物によって潰されるなどをして亡くなる方があるんですけれども、すこし山陰になるだけでこの熱風や放射線や爆風というのは和らげられているんでしょうね。ですから勝山小学校という所がそんなに距離としては離れていないんですけども、救護所となっていました。しかし救護所にはなっているんですけれども、たくさんの爆心地付近の方が足を運んできます。連れられてきますので、この勝山小学校で救護を受けた方の大半が1週間以内に亡くなられていかれたという風に証言には載っています。

 遺体の山を荼毘に

 小学校に集められたのはいいんですけれども、結局はそこは遺体の山になるわけですね。で、その遺体の山がありまして、その遺体の山を今度は生身ですからそのままにすると真夏の暑い時で、腐っていきますので火葬したいと思う。しかし原爆で吹き飛んでしまって燃やす物もありませんから、焚き付けになる木も少なかったんでしょうね。配給による灯油をどこからともなく頂いてきて、その灯油で御遺体を焼いたんだという風な証言が出て来ます。
 そうやってお骨を焼くんですけどももう何十人、何百人、何千人もの御遺体を一緒に焼きますから、どれが誰のだか分からない状態になるわけです。そのまま分からないまま自分の身内の骨として拾って帰る方もいらっしゃったんでしょうけれども、たくさんの遺骨が勝山小学校に放置されます。
 とうとう置く場所が無くなって、まあ色んな所にですね、引き取り手を求めて紛糾される方が出てくるわけですけれども、その中の一部分も今の収骨堂の中に入っています。

 教務所に運ばれた遺骨

 今度はパンフレットの真ん中のページ。非核非戦の碑についてという書かれたページの左から2番目の写真ですね。ここに左右に木箱が置かれております。この木箱の状態で今の非核非戦の碑が完成するまで保管されておりました。安置場所は違っていますけれども、この木箱のまま安置されていました。この教務所の呼び掛けで集めた遺骨以外のお骨がどれくらい集まってきたかと言いますと、最終的にはですね、26箱が安置されていた様ですけども、その内の十数箱が他の場所からこの教務所に預けられた物だという風に証言の中で出て来ます。
 この真正面、ご本尊の方を見てもらっていいでしょうか。風景が似ていると思いませんか。いまの建物の形が似ています。これ実はですね、はっきりとした事が私、確認取れてはいないんですけども、今写真の中にあるこの安置所はですね、まだ西山に建物がある時の安置所です。その後でGHQからの要請があったんだという風に証言の中に出て来ますけれども、移転するように言われて長崎教務所は、昭和30年ごろにこちらに移転になっています。

 遺骨の移転

 その時にこの建物、新築ではないんですね。若干改築を加えて移転、移設されているわけです。この写真と現在の本堂の風景、非常に構図が似ています。この使われた材木というのは、元々その西坂にありました説教所と教務所の残材を使って仮設にお寺が建てられておりますので、この辺に残る、見えている木はその時の残材だと思われるのです。
 だからこれ70数年前に被爆した材木なのかもしれないんです。何度となく建て替えの話もあるんですけど、未だにこの状態のままなんです。もうここに集っているだけで私たち被爆遺構の中に身を置いている様なものです。
 その後昭和30年に本堂から、移転されて収骨所です。(左写真)この本堂の裏手側は今も墓地になっていますけども、墓地との間の少しの隙間にお骨が安置されるようになった。お骨の箱は見えませんけれども、真ん中のお飾りの後ろに布が張ってありますが、この布で隠された部分に26箱の木箱がありました。〈次号に続く〉
(見出し、文責は編集部)

核兵器は人間の尊厳奪う


被爆者・和田征子さんが証言

 1歳10カ月で長崎の爆心地から2・9キロの自宅で被爆した和田征子(まさこ)さんは、幼かったため当時の記憶はありませんが、母から聞かされた当時の様子を証言しました。
 和田さんは、核兵器禁止条約が前文で「核兵器の使用の被害者(ヒバクシャ)の受け入れがたい苦しみ」に心を寄せていることに言及。あの日、原爆は「理由もわからず瞬時に命を奪い」、生きながらえた被爆者の苦しみ、それは深く、今なお続く苦しみを与えたと述べ、愛する者の死、生き残った罪悪感、原因不明の病気、生活苦、世間の偏見や差別、あきらめた多くの夢など「きのこ雲の下にいた者に、被爆者と死に、また生きることを強いるものでした」と語りました。
 爆心地から山を越え火から逃れ、アリのような行列のような人々、着衣もほとんどなく、髪の毛も血で固まった人たち。隣の空き地では遺体の火葬が毎日続きました。和田さんは、「人間の尊厳とは何か。人はそのように扱われるために創られたのではありません」と訴えました。そして、「核兵器は、爆風、熱線、そして放射能の被害を無差別に、広範囲に、長年にわたってもたらす非人道的な兵器」であり、「核兵器が再び使われれば、同じ苦しみを世界中が負うことになる」と厳しく警告。日本被団協が1956年の結成以来、「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意」で歩み続けてきたことに触れ、「被爆者は語ることによって、あの時に引き戻されるつらい努力を続けてきた。今、重い、さび付いた扉がようやく少し開いた」と述べ、「核兵器は正義ではない。廃絶しなければならない」と訴え、そのうえで核兵器禁止条約の採択を評価し、核保有国や、核の傘のもとにある日本などに条約への署名を呼びかけました。

「マル腰」の強さ


西念寺住職 青木敬介


 歴史上、戦争を放棄し、軍備を捨てた国・民族が五つあった。――たった五つというなかれ。
 人間の歴史は、せいぜい5千年余。その歴史の中味といえば、ほとんど戦争ばかりであった。しかし、逆に言えば、平和を構築する上で、我々が手本とすべき国・民族が五つもあったということである。
 まず初めは、紀元前3世紀後半から3世紀前半におけるインドのマウリア朝第3代のアショカ王。
 南印カリンガ国を攻めた時の悲惨な場面を見て、「殺すなかれ、殺さしむなかれ」という釈尊の教えを思い、戦争を放棄し、以後、紀元前320年のアレキサンダー東征まで、平和を守った。
 次いで、北アメリカ、オンタリア湖南岸の先住民イロカイ族。
 1500年ごろ、あらゆる武器を捨て、不戦を宣言した。その宣言の一部はUSAの憲法にも残る。
 続いて、1648年、永世中立国を宣言したスイスも立派。その次が、第二次大戦でアジア諸国の侵略をやった日本だが、負けて痛い目にあい、世界一の憲法を持った。たった5年で再軍備をやり、骨抜きになった。
 最後は中米コスタリカだが、1949年以降、一人の兵も、一台の戦車も持たぬ憲法を制定し、今もそれをきちんと守っている。
 その「憲法12条」に、「恒久的制度としての軍隊は廃止する」とうたっている。しかも、ただ武器を持たないだけでなく、環境・平和の両面で、世界をリードしている。たとえば、お隣のニカラグアやエルサルバドルの内紛にも介入して解決させたし、今や国連の「核兵器禁止条約」の発起国である。
 これは、武器を持たない「マル腰」が、外交問題でも相手方は緊張を取り去り、余計な警戒感を与えない、ということであり、外交の一番大きな成功要因である。
 菅官房長官は、〝馬鹿の一つおぼえ〟のように「抑止力」「辺野古唯一」をくり返すが、「辺野古」の巨大基地は抑止力にはならない。
 「抑止力」とは相手国の「攻撃力」との単なる、そして、際限のない軍拡競争である。行きつく先は「核戦争」という愚かなことになる。某国のミサイルが、辺野古の新基地だけに命中するとは限らない。周辺住民も共にミサイル、核との攻撃目標にされるだけだ。つまり、日本や沖縄に米軍基地は不要ということだ。

山家妄想

個人情報保護の風潮に疑問


★個人情報の保護がやかましく言われだした。マイナンバーなど下心があってはじめられた情報については、特段の保護する措置がなされることは当然であるが、よく意義も分からぬままで情報保護が叫ばれていることが多い。街頭のあちこちに見受けられることが多くなった「監視カメラ」、犯罪の捜査に役立つとあって、抵抗感もなく利用が拡大されているようだが、「共謀罪」の成立・施行と相まって人権侵害の恐れは拡大していないか。注意が肝要だ。わが寺にもセキュリティ機器を扱う会社から電話がよくかかる。防犯カメラを設置する勧めである。有効に作用させるには数台が必要で費用もかかるのだが、勧めに応じるものも多いらしい。
★各種の名簿の作成も個人情報保護と絡んで問題になることが多い。学校の生徒住所録や同窓会名簿、職員録などの作成が困難となり、発行はしたものの書いてあるのは名前だけで住所・電話番号等連絡に必要なところは空白というものさえある。わが教区の寺庭婦人の会議でも、会員名簿作成が問題となったそうである。新しく就任した役員が名簿に記載されている電話番号が問題と指摘した。個人情報だというのである。結局、個人情報保護の観点から載せないと決まったという。
★これを聞いておかしいと思った。今まで載せられていた電話番号は、所属寺院のものであったはずで、個人の携帯電話の番号が載せられていたということは聞かない。携帯電話は確かに個人のものであり、その番号を個人情報として秘匿しても差し支えはない。しかし、寺院の電話番号は「公的」な法人のもので個人のものではない。寺に所属する寺庭婦人がその番号を秘匿しても、寺院名簿によってすぐにわかるものであり、周知されるように積極的に公表している寺もある。時流に乗って、わが身の浅薄な知識をひけらかす所業に過ぎぬと思われてならぬ。さらに勘ぐれば、公的な寺院の電話番号も「個人」のものと考えて当然と思っている姿には、寺をも私物視していることの一つの表れではないかとさえ思えるのである。
★かつて、元教師の面識のない人間から電話で拙著の送付を頼まれて送ったが、着報もなく月余が過ぎたので、着いたかどうか尋ねたことがある。「自分は人にものを送っても、着いたかどうか尋ねるなどはしない」といって、本を送り返してきた。さらに「自分の個人情報はすべて破棄してもらいたい」と付け加えた。名前と住所、電話番号ぐらいだが、それをどのように悪用するというのだろう。悪用されて困るような有名人でもあるまいにと、思ったことである。各種集会の出欠を問うはがきにも「個人情報は連絡以外には使いません」と、わざわざ付記してある。何か、そのようにすることが流行のような感じさえするのであるが、具体的にちょっとした迷惑をこうむる以上の、深刻な被害に遭うことが多くなっているのだろうか。
★「今だけ、金だけ」と並んで「自分だけ」というのが最近の風潮だというが、現在の隣人や地域社会との関係を拒絶する姿の一つの表れなのかもしれない。最近は登校中の小学生たちに対して「おはよう」と朝の声掛けをしても、きょとんとしていることが多い。多分、知らない人に声をかけられても無視しなさいという指導が行き届いているのであろう。さびしくなるのである。集団で黄色い旗を持った上級生に率いられて登校しているのだが、通行のマナーを考えるでもなくぞろぞろと歩いていく姿には、縁起でもない例えだが屠所の羊を連想してしまう。横断歩道に立つ先生らしき人も、挨拶を返す人は少ない。さすがに地域のボランティアの大人からは返事が返ってくる。★子どもたちは中学へ進学すると、大きなカバンを背負って三々五々登校するのだが、彼らは「おはよう」と声をかけると「おはようございます」と返してくるようになる。成長した姿のあらわれなのだろう。土日に登校する姿は、たいてい体操服だ。クラブ活動に出かけるのだ。「きをつけて、頑張れよ」「ハイッ」と大きな返事が返ってくるが、クラブはたいてい吹奏楽部かバドミントン、サッカーとテニスだ。想像している以上にクラブの数は極端に少ない。施設と顧問に原因はある。女子の使えるテニスコートはたった一面、一年間球拾いと素振りだけだとさびしそうに語った子もいる。吹奏楽の顧問が転勤になって、時々校外から指導に来てくれるといったことも聞いた。校内には指導できる先生がいなくなったのだ。先生の勤務の厳しさとともに、生徒へのしわ寄せに対する手立てを考えることは、学校の枠を超えた課題である。
★個人情報の保護と大きく叫ばれるのと比べて、学校の現状や教育の課題は多くの人たちに問題として意識されることが不足していると思われる。子供たちの未来という視点を超えて、日本の将来を左右する問題として意識化することが必要と思うのである。

(2017・1010
水田全一・妙心寺派の一老僧