2016年日本宗教者平和会議 in 東京

「宗教者の平和運動をめぐって ―課題と展望(試論)―」最終回

 浄土真宗本願寺派法善寺前住職、武蔵野大学名誉教授  山﨑 龍明

 親鸞は、自我のこころが人間を迷いに引き戻すというところから「他力」という教えを説きました。「他力」というのはご承知のとおり、他人の力ではありません。真理を悟った阿弥陀仏の教えの力、教えのハタラキを「他力」というのですが、親鸞という人が、「自力」を捨てたのはいったい何故か。「他力」という教えを称えたその理由は、それは武勲を立てて、武勲を離れる、自分の功としない、これ誠に日本の大和心だ。武勲を誇るのは自力の者であるという、これは「自力の者」である。だから、親鸞は「他力」をおとりになったのだ、ということが枚挙に暇がないほどあります。
 その本を書いた先生に、私が1962年に大学に入学して習いましたけど、戦後そういうことは一切おっしゃらないのです。仏教の根本は民主主義だとおっしゃっていました。責任とって欲しいと思いませんか。
 それが、戦後責任だと思います。戦後この考えが否定も肯定もされずに仏教教団で行なわれてきたということを、自分の課題としてきました。

法然、親鸞の教え
 親鸞の『教行信証』には、鎌倉時代、念仏弾圧によって法然の弟子の4人のお坊さんが死罪に、8人のお坊さんが遠島、流罪になるんです。念仏を信じてはまかりならんと。何故、その弾圧事件がおこったのでしょうか。後鳥羽上皇の女官が後鳥羽上皇が熊野に行幸しているときに、法然の門下の美男、美声である住蓮、安楽というお坊さんの庵にいって教えを聞いて、深く傾倒して無断外泊してしまった。無断外泊というのは、夜通しその教えに耳を傾け、念仏していたのでしょう。帰ってきた上皇の逆鱗に触れて念仏弾圧事件がおこったという考え方があります。
 その住蓮、安楽という坊さんが首を切られたときに、首を切られた後に声高らかに「南無阿弥陀仏」念仏したという伝説があります。
 法然の教えは、本来危険思想だったんです。これを忘れてしまうと、本質を取り違えるんじゃないかと思っております。法然の教えは、当時から見たら、修行、戒律を必要としない、念仏一筋で誰もが救われるという一種平等思想がありました。それは、あってはならない教えであったという意味でも、本来危険思想だったのです。
 法然のなかには、そういうものが多くあります。例えば、人間は穢れている。特に女性は男性より穢れている。女性差別やタブーの横行、それに対して、法然はこう答えます。もし、女性が穢れているんだとするならば、その女性から生まれた男だって同様に穢れていると言わなければならない。そんなことはない。『一百四十五箇条問答』という文献には、こういう弟子との問答があります。
 法然のような阿弥陀仏の前に横一列に並んだ人間関係、などというのは許しがたいものであることは想像できるのじゃないでしょうか。
 それが、「知らしむべからず、寄らしむべし」という封建道徳です。国民にすべて知らせてはいけない。隠すべきことは隠す。これがいつの時代も権力の姿です。
 法然、親鸞の教えは国家にとってある種、危険な教えであった故に、念仏弾圧事件が起こったのです。そういう仏法の教えが、次第に国家にとって安全で有用な宗教になっていく訳です。
そこから大教団が出来てくるわけですよ。これは私どもの課題であります。
 戦争と日本仏教、「皇国教学」のところで指摘しておきましたが、戦時教学指導本部や戦争責任論と同時に、戦後責任論、戦後を生きる私たちがそれをどうきちんと検証し、総括していくか、いかなければならないかということを考える必要があると思います。

宗教者(仏教者)の平和運動
 私が以前からずっと考えておりますのは、「こころの平和論」という表現です。これははなはだ失礼かもしれませんけれど、こころが平和になれば世の中も平和になるんだという考え方があるんですよね。
 公害問題などで、私が若い頃に水俣病の患者さんの追悼法要などをやっている時に、公害を言うんだったら車なんかに乗るべきでない、というような極端な議論がありました。その本質はずいぶん違うと思うのですが。
 例えば、ユネスコ憲章前文に、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」とあります。一人ひとりがこころの平和のとりでを築かなければならない。それは間違ってないと思うんです。それをもっと掘り下げると、具体的にどういうことなのか。戦争とか平和というものを考えるときにまず考えなければならないのは、私たちがいま生きている社会の仕組みだと思ってるんです。社会の構造をきちっと洞察するということがないと平和だとか戦争の問題についてはっきり見えてこないのではないかと思っています。
 失礼な言い方かもしれませんが、こころの平和論、あるいはこころもちを変えることによって世の中が平和になるんだ、ということに対して私はそうではないいのじゃないかと反論をさせていただいています。
 ある意味、こころの豊かさということで、可能性があるかも知れませんけれども、限界性というものが同時にあるのではないかと考えます。
 『歎異抄』(親鸞編)のなかに、回心、宗教学では「えしん」と言いますが、コンバージョン。信仰を持つということはこころの方向が転換されることだということが示されます。その書物の中では、教えに生きるものは、教えに生きながらやっぱりウソをついたり悪いことをすることもある。そういう人はそれを反省して、その都度回心。こころを改めなければ救われないという議論があったようです。
 つまり、自己反省です。論語に「われ日に我が身を三省する」という言葉がありますように。そうしなければ救われないという人に親鸞は、いや信仰というのはそういうものではない。  親鸞は、「回心(えしん)ということ、ただひとたびあるべし」と言います。親鸞が、「回心ということ、ただひとたびあるべし。その回心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと」というのは、日頃、どうせ人間に生まれたのだから、美味しいものを食べて、いい生活をして、幸せにならなけりゃ生まれてきた甲斐がない。つまり、日頃、「日ごろ本願他力真宗をしらざるひと」というのは仏教も、宗教もそんなものとんでもない、いま私が幸せならそれでいいのだという思いに生きていた人が、教えとの出会いを果たして、いままでの生き方では本当の自分の人生を生きられないではないかという。「もとのこころをひきかえて」、そういう出会いによるこころの方向転換、それが回心というものなんですよ。だから、生涯においては一度あることなんだという。その都度、悪いことをした時に反省する、内省のこころではなくいのちの根本的な方向転換なのだということです。
 世俗にある私たちが、その世俗の誤りに気づいて、世俗をきちんと見届ける知恵といいましょうか、そういうものに恵まれることが親鸞の回心ということでした。そういうことを、「世俗の相対化」と申しておきました。世俗というものを相対化していく。世間を絶対化しないということです。
 仏教には、「世間」と「出世間」という言い方があります。世間というのは、この私たちの世界であり、出世間というのはいわゆる出家するとか、山に入るということです。出世というのは、名前が知られるようになるとか、有名になるとか、地位を占めたというのが出世です。仏教の出世というのは出世間のことですから、世俗を超えるということが出世、出世間なんです。世間というのは世俗そのもの。迷妄なる迷いそのものの娑婆世界のことです。
 そういう意味で、欲を捨てて、山に登ったり、修行したりするということ。そういう修行する方法は非常に高く見られます。私は自分で考えるのですが、どちらかというと仏教者は世間をどこかで軽蔑しているところがありはしないか。それは世間のことだから、坊さんは関わるべきことではないとか。高尚なことを言うわりには、結構粗末な人がいます。
 いろんなお寺によばれていくと、そこのご住職が、うちの檀徒は何も仏教のことについて知らないから難しい話はしないでください、と言われますが、一番知らないはそのご住職じゃないかと思うこともあります。そういうところにも私たち自身が身につけた驕りのようなものを感じるのです。
 親鸞は、「非僧非俗」と言いました。念仏弾圧の時に、親鸞は僧籍を剥奪されます。俗人になります。藤井善信(よしざね)の名を貰って、僧でなくなるわけです。そのことを、『教行信証』のなかで「しかればすでに僧に非ず」と言っています。当時の法律違反者として、称えていけない念仏を称えて弾圧されたわけですから、僧じゃないわけです。僧じゃなければ俗でしょ。俗でなければ僧という二元体制ですから。「しかればすでに」というのは、あの弾圧事件によってということです。私はすでに僧侶でなくなった。これが、非僧です。同時に親鸞は、非俗と言っているんですね。非俗、頭の上から足の先まで俗世を生きているのだけれど、どっこい、こころのなかでは阿弥陀仏の知恵(真実)をいただいて生きているのだから、単なる俗ではないということです。
 親鸞は、「姓名を賜りて遠流に処す」と書いています。152年後に生まれた本願寺の蓮如という人は、「俗名を賜って」と書写しています。
 親鸞は「俗名」と使ってないのです。非俗ですから。しかし、蓮如という人は、俗名を頂いて島流しになったと。これは蓮如の大変な見識違いだと思います。親鸞が知ったら怒ると思いますよ。親鸞が、わざわざ「姓名」をつけられて、私は流罪になった、というのを蓮如が「俗名」を与えられて、と書いています。形は僧侶ではないが、こころのなかでは、深い阿弥陀のうながしによってこの世俗を生きているのだ、非俗そのものなのだという宣言です。
 親鸞の宗教的特質というのは非僧非俗の精神のなかにあるのではないかと思います。
 お寺で社会の様々な問題を発言すると、お寺にはこころの癒やしを求めて来るのだからそういう話は聞きたくないと直接言われたこともあります。うちのご門徒にはそういう話はしてもらったら困るというご住職が多いのじゃないですか。大人ですから、聞きたいか聞きたくないかは、その人が決めたらいいじゃないですか。
 以前、三国連太郎さんが「親鸞」という映画をつくりました。ひどい映画だといわれました。いい映画だったんですよ。親鸞賛美の映画と全然違いますから。僕は、三国さんから台本をいただいて参加させていただきました。ただ、映画館にいったら、5回行きましたが、ほとんど観客が入っていないんです。ホンモノというのは面白くないんですね。うちの娘が帰りに、「いい映画だったね」というものですから、小遣い上げちゃいました。
 最初のシーンが凄惨なんですよね。その頃は、そして生きている人間が死んだ人間を食べてるような時代です。800年前というのはああいう時代だったんですよね。最後のシーンは、着ている衣を親鸞さんが大空に投げつけるんですよね。これが、全国の真宗僧侶のひんしゅくを買ったといわれています。「お袈裟をなげるとは何事だ」と。こういうものによって人間の値うちがきまるものじゃないですよという三国さんのメッセージなんです。
 昨年8月の20日、私は呉に参りました。そのお寺のご住職は、仲間の方々と一生懸命、教科書問題に取り組んでいます。広島は、真宗王国です、安芸門徒ともいわれていました。しかし、バッシングされる。やっぱり人間、落ち込みますよね。でも、教科書の内容が酷すぎると取り組んでおられる方です。私は、少しでもそういう阻害されている方々の力になれたらと思っています。
 多くに人々に、阻害されたら自分のやっていることは間違っているのかなと落ち込みかねないですよね。やっておられることは実に尊いと思いますよ。いまの教科書は酷いですよ。過去の真実を覆い隠し、その雰囲気が国内にまん延しつつあります。私は絶望はしませんが、残念至極ですよね。
 あなたがこういうことに取り組んでおられることはすごいことじゃないですか、ということをお話してきました。
 宮崎のお寺では、お寺で門徒の方々と座談会をやったときに、社会の問題、中国の問題、北朝鮮の問題など、いろいろ問題が出たということを寺報で知りました。素晴らしいと思いました。婦人会、ご婦人のなかで話題になったというのです。
 仏教はこころの問題、こころの解放、癒やしのためにあるのであって、社会、私たちの身近な現実の諸問題になどに、仏教者、宗教者は関わるべきではないという考え方は私は根本的に間違っていると考えます。好むと好まざるとに関わらず私たちは社会的な存在ですから。私が社会的存在であることを否定しようとしても、社会は私を切り離しはしない、組み込まれている社会的存在です。そういうなかで自分自身のスタンスを持つことはとても大事なことではないかと思います。
 私たちの教団から『平和に関する論点整理』というレポートがでました。内容は全然立派ではありません。全国に「念仏者九条の会」の仲間がいっぱいいます。そういう人たちにことごとく全国公聴会で批判されました。どういう学者が平和についてどうだとか、そういうことばかりを整理しているのです。これを読んで、全国の1万余の僧侶は勉強しなさいという立場なんです。
 私は、これは1周遅れのランナーだと思うんです。いま、この国が抱えている問題に対して親鸞の教えに生きる仏教者が何を発言しなければならないのか書いていない。仏教者としての視点が示されていません。安保も、基地も共謀罪などや原発の問題も。私は「もんじゅ」の頃から原発問題を考えてます。「もんじゅ」に「ふげん」ですよ。どれだけ迷惑しているか、菩薩が。教団としておかしいじゃないですか。原発などに対して発言できない。ちゃんとした姿勢をだしてくださいというと、帰ってくる答えは、「教団にはいろんな人が所属していますから」、というのです。
 いろんな方のほうを向いていて(世俗)、仏法の方には向いてないのですよ。教団幹部(前ご門主は別)は、だから、あなたのような極端な考え方を教団がとったら教団はつぶれます、と。つぶれるかどうか判りません。もっとよくなるかも知れません。少なくとも社会的信用は増幅するでしょうと私はいうのです。
 しかし、今頃、論点整理などしている段階ではないんです。30年の40年も遅いと思いますよ。だけど、教団は、得々としているのです。東京の公聴会で痛烈に批判しました。「あなたはそういうけれど、まとめるのに苦労しました」と。苦労するのは当然じゃないですか、教団のトップなんですから。
 たしかにそういうさまざまな運動をしたり、口にしたりしますと阻害されるという部分が仏教教団にはまだまだ多いですよね。そうであるがゆえに、進めていかなければならないと思っています。
 私たちの「念仏者九条の会」というのは、高齢の方が当初から多いですね。それは、身をもって危険を感じておられるのでしょう。現在、会員は千人ぐらいおられますが、そういう方の発言は、説得力をもっています。
 こういう活動をつづけていくことによって、宗教者による平和運動の展望が開けてくると思います。いのちを抑圧するものは何であれそれは反宗教である。そして、それはまた反いのちであるという宗教者の自覚を持ちたいと思うのです。そういう一点で私たちは、多くの人びとと連帯することが可能であると信じております。
 差別、貧困、飢餓、憎悪、戦争などの根源にある自我迷妄心への凝視とそれを乗り越える超克。社会、政治の相対化と宗教的自律、こういうことを経典「般舟三昧経」「菩薩戒経」には、「国王に向かいて礼拝せず」という。国王不礼、出家したものは国王にむかって礼をしなくていい。その後にまた、「あやしげなものを祀ってはいけない」(鬼神)と経典にあります。これは人間の根源的自律ということにある意味つながってくるのではないかと思います。

創価学会について
 最後ですが、1969(昭和44)年に『創価学会を斬る』という本が出版されました。著者の明治大学の藤原弘達さんという方は、生きてるうちは大したことないと思ったのですけど、亡くなってみるとあの人は大した人だなと思いました。失礼ですけど。
 池田大作さんを「お題目を唱えるヒトラー」と言ったのです。創価学会が政党をつくったら日本はとんでもないことになるということを言った本なんですよ。50年近くも前に、そう言ったのです。「私は、この宗教、あるいは党が憎いからいっているのではない。実に、これは危険極まりない」と書きました。だいたいトップが、生きてるのか死んでるのかも国民が知らないというのは非常に不健全ですよ。この本のなかで言っています。「題目を唱えるヒトラーのような人を頂くそういう政党が日本の政治を牛耳ったらとんでもないことになる」。
 私は、はっきり申しますけれども、やはりこの国を本当に悪くしているのは公明党だと思っています。自民党と組んでつぎつぎと世紀の悪法を通過させています。公明党が連立をやめたら、この国は少しは方向が変わると私は思っています。
 今度の選挙でも、創価学会の真面目な青年たち、本部に戦争法反対の署名を提出したりする青年信者たち、非常に健全ですね。しかし、ただ一つ気に食わないのは、「今の公明党はおかしい、本来のものじゃない」といいます。公明政治連盟から公明党になったわけでしょう。そういう彼らが、無原則に池田大作さんを神格化しているのです。彼らが言うのは、池田さんは「仏様」なんですよ。いま、いずれにしても全国の選挙区で大体2万票から3万票という、当落に濃密に関係する票を創価学会は持っており、それを自民党がもらって当選しているという現実を私たちは見ておく必要がありますね。
 このごろは、公明党の山口代表はかなり居直って、昔は公明党は自民党の「下駄の雪」と言われていましたが、「下駄の鼻緒になりました」といいます。「昇格」したと思っているのです。ですから、真面目な意味で、公明党の動向というのをきちっとしておかないとこの国はどんどん悪くなるだろうなという思いを強くしております。
 門徒総代の超高齢の方が、「住職。そう言う話しはやめてくれ」「身の危険だ」と心配してくれます。ありがたいですね。いのち頂いている間は、言うべきことをきちんと言うという姿勢を私は貫きたいと思っております。
 ありがとうございました。

京都宗平協など5団体
「共謀罪」の撤回を要求


 京都宗教者平和協議会、世界の平和を求める京都宗教者連絡会、日蓮聖人門下京都立正平和の会、京滋キリスト者平和の会、日本キリスト教婦人矯風会京都部会は連名で3月31日、安倍首相に「『共謀罪』法案の閣議決定に抗議し、撤回を求めます」との文書を送付しました。
 声明は、人権蹂躪との批判が広がるなか、閣議決定を強行したことに抗議し、「話し合いや相談したことをもって処罰することは、憲法が保障する内心の自由や思想信条の自由を侵害するものです。『組織的犯罪集団』については、恣意的な判断で捜査当局が認定することができ、市民団体はもとより、私たち宗教者にとってかけがえのない信仰・教理にまで踏み込まれる危険性があります。また宗教団体・教団までもがいつの間にか捜査対象とされ、日常的な監視が横行するなど深刻な人権侵害、基本的人権の蹂躪を招きかねません」と指摘。「戦時下、反戦平和を願い、時の政府がすすめる国策に疑問を抱き、抵抗する政党や労働組合や自由主義者はもとより、多くの宗教教団・宗教者も徹底的に弾圧されました」。宗教弾圧の再来を許さず、国民の権利を根底から奪う共謀罪法案の撤回を求めるとともに、安倍政権による「戦争する国」、憲法を否定する国づくりの暴走を許さず、信教の自由、思想・良心の自由など基本的人権を守るために奮闘する決意を表明しています。

 東京・関東キ平
「共謀罪」法案廃案を要求

 東京・関東キリスト者平和の会は4月17日に都内で総会を開催し、国際基督教大学の稲正樹教授(憲法学)を講師に「共謀罪」について学び、声明「共謀罪法案の撤回と廃案を強く求めます」を採択。
 声明は、「共謀罪は、犯罪を行うことを合意しただけで犯罪が成立したと断定して、犯罪の結果が発生することはおろか、その準備行為もなされていない段階で処罰するもの」であり、「政府は、共謀罪法案は『テロ防止』目的の法案であり、『テロ防止』を目的とする国際組織犯罪防止条約を批准するために、共謀罪を創設することが不可欠だと言っていますが、これは国民をだますもの」であり、「日本はテロ防止のための国連の13の主要な条約をすでに批准して国内法化も完了」していると述べ、「テロ防止とは何の関係もありません」と指摘。 さらに、「戦前の治安維持法の成立時においても、同法は一般の国民を取り締まりの対象にするものではないということがくり返し語られていました」「天皇制国家体制の維持のために治安維持法が猛威を振るった時代が、形をかえてすぐそこまできているのではないでしょうか」と述べ、監視社会をもたらし市民的自由を窒息させる共謀罪法案の成立を断じて許すことはできませんと述べ「戦争する国」、憲法を否定する国づくりの暴走を許さず、信教の自由、思想・良心の自由など基本的人権を守るために奮闘する決意を表明しています。

山家妄想  核兵器全面禁止条約締結交渉


★「核兵器全面廃絶につながる、核兵器を禁止する法的拘束力のある協定について交渉する国連会議」が第一回を終えて、次回の6月に予定されている会議で条約案を持ち寄り審議することになった。早期の締結が期待されている。世界の核非保有国の大半(110カ国以上)が参加し、さまざまのNGO組織も参加して発言の機会を与えられた。日本の被爆者組織も「ヒバクシャ国際署名」などを携えて参加した。
★残念なのは米ロをはじめとする核保有国はすべて参加せず、世界の世論に背を向けたことであるが、最も恥ずべき態度をとったのは日本政府である。日本政府は「国連会議」の初日に出席し発言したが、「現実の安全保障の観点をふまえずに核軍縮を進めることはできない」「核保有国が参加していない」などとの理由で反対の主張をしたという。
★「世界で唯一の」ということにはビキニの被爆者を考えると問題があると思うが、実戦で使用された原爆の被災国であり、高齢の被災者を抱え、また父祖の被曝による後遺症発症のおそれを抱える2世3世の若者のいる日本が、アメリカの核の傘に入っていることを理由に会議に参加しなかったことは残念である。いままで核保有国と非保有国の橋渡しをするなどというもっともらしい口実をつけて、明確に核廃絶の立場にたってこなかったのであるが、それは実は山家妄想  核保有を認めるものであったことを暴露した。
★しかも日本政府はフクシマの後も原発再稼働を進め、消費済み核燃料の再処理によってできるプルトニウムの蓄積は、いつでも核保有国化する危険をはらんでおり、またそのプルトニウムが第三国に渡る危険もなしとは言えないのである。
★このような危険な状態の現在、会議に積極的に参加した日本の被爆者代表の発言は参加者に多大の感銘を与えた。また「核軍縮・不拡散議員連盟」の一員として参加した日本共産党志位委員長の活動も大きな共感を得ている。例えばマーシャル諸島国連代表部参事官は「日本と共通の被曝の経験があります。(中略)私たちはあきらめません。核兵器の惨状を知っている国民とともに、日本国民とともに頑張っていきたいと思っています」と語っている。また、自国が参加していない国の議員たちも「次の総選挙で勝利し、禁止条約に署名したい」(イギリス・労働党・影の内閣・平和軍縮大臣=ハミルトン下院議員)「政府がこの会議をボイコットしたことは、多くの国民に衝撃を与えました。だから、私は参加しようと考えました。ここで話し合ったことを帰国してからの活動に生かしたいと思います」(カナダ リンダ・ダンカン議員)などと語っている。
★会議では、かりに核保有国の参加が、当面得られなかったとしても、賛成する諸国の政府によって核兵器禁止条約を早期に締結することの意義が確認された。「核兵器禁止条約」の締結が世界の人々の多数の希望であることが確認され、オーストリアの トーマス・ハイノッチ軍縮大臣の言う「オーストリアでは核兵器廃絶はすべての政党が支持し、憲法でも核兵器禁止をうたっています。今度の会議は最初の一歩です。今後、一つ一つ具体的措置を積み上げていきます。化学兵器や生物兵器では禁止条約を実現しました。核兵器でできないことはありません」の認識が、世界の多数の国において共有されたといえるのではないか。
★ローマ法王庁(バチカン市国)国連代表部・サイモン・カサス神父も「(志位委員長の)要請文の立場は、理性的なもので、よく理解できる」と答えているが、あらためて日本の宗教者のこの会議に対する関心度は如何なものかと考えるのである。とくに、伝統的な教団がこの会議に関して意思表示など、何らかの対応をした形跡があるだろうか。多数の檀信徒を組織して、釈迦をはじめ祖師方の不殺生をはじめとする戒律を説く活動を旨とする僧侶たちが、画期的な歴史的意義をもつ会合に注目しなかったとは信じたくない。★政府が不参加を表明していることを理由に黙して語らぬとすれば、宗教者としての立場を放棄したとそしられても仕方があるまい。ことは「非人道」兵器にかかわる問題であり、人類のみならず地球の未来を左右する問題なのである。各教団が、次回会合にむけて積極的な取り組みがなされることを期待したいのである。 (2017・4・18)  水田全一・妙心寺派の一老僧