日本宗教者平和会議in東京 記念講演

「急変貌・大増強する日本の基地」 最終回

内藤 功 弁護士

たたかいの基本と沖縄の教訓
 憲法の「主権在民(前文、1条)」「恒久平和(前文、9条)」「基本的人権の尊重(11、12、13、97条)」「議会制民主主義(前文、41、62条)」「地方自治(92条)」の5原則と、この条文をありのまま適用すれば、基地は絶対に許すことはできないし、安保条約は憲法の条文と絶対に両立しない、廃棄するしかないということです。
 基地問題に立ち向かう上で最大の力、たたかいの基本は、この憲法を「武器」に国民の広範な団結、そして地方自治体を味方につけて、一つひとつたたかって勝ち取っていく。それを全国に網の目のようにして、そして日米安保条約廃絶に向かって少しずつ少しずつたえざる前進を続けることだと思います。
沖縄の教訓を私なりにまとめてみたいと思います。
 当面は、沖縄の辺野古新基地建設を阻止する、それをめぐる裁判を含めた状況についてであります。
 県知事選挙で翁長知事が当選しました。翁長知事の最大の選挙公約は、辺野古の埋め立て、新基地建設は絶対に許さないというものです。
 仲井眞前知事がおこなった辺野古の公有水面埋め立てという承認決定を自分が知事になったら違法だから取り消して、美しい海を守るというものです。これが、全県民的な支持を受けた訳です。
 「オール沖縄」とはなにか。2013年1月の「建白書」、当時、41すべての市町村長、議長が合意して安倍総理に突きつけた「建白書」の精神、普天間基地へのオスプレイ配備撤回と即時閉鎖・撤去、県内移設を許さない、辺野古の新基地は許さない、この点で一致しています。
 県知事選挙後の選挙でも、名護市長選挙、県議会議員選挙、衆院選での4小選挙区すべてでの勝利、そして参院選で現職大臣に10万票の差をつけて統一候補の伊波洋一さんが当選しています。
 この埋め立て承認取り消しをめぐるたたかいが、今日の最大の焦点であります。まず、埋め立て承認の「取り消し」と「撤回」と、二つの方法があります。「取り消し」と「撤回」は少し違います。
 「取り消し」というのは、前の知事がやった行政処分が法律に違反しているから取り消すというものです。「撤回」というのは、前の知事がやった処分が法理的に違法ではないとしても、今の状況から見て埋め立ては県全体の公益からみて許されないから将来に向かって効力を失わせる、というのが「撤回」です。
 翁長知事は、この二つのうち、「取り消し」を先にやった訳です。つまり、仲井眞前知事がやったのは、地方自治法とか、公有水面埋め立て法とか法律に違反している違法だから取り消すということを知事に当選した直後に、自分だけの判断ではなく、法律家と自然科学者、環境問題専門家などによる有識者会議の報告書を受けた上で、慎重に決定した訳です。
 これに対して、安倍政権は、福岡高等裁判所那覇支部に翁長知事の処分は違法であり、翁長知事がやらないならば政府が代わって埋め立てを執行するという代執行を求める訴訟を起したのです。このような訴訟では、普通は、簡単に裁判所は政府の言うとおりに出すのですけど、県民の世論と翁長知事が法廷において堂々と主張された琉球王国の万国津梁の歴史から説き起こし、第2次大戦の沖縄地上戦の実相、沖縄県民の被害と惨禍、米軍の土地強奪、祖国復帰運動にかけた県民の願い、いかに新基地によって辺野古の自然がいかに破壊されるか、この法廷における陳述が圧倒したのですね。
 そして、裁判所は1月29日に双方に和解を勧告しました。和解勧告の文章が重要で、一つは、このまま行くと裁判の繰り返しで、国が全部勝つとは保障できない、と裁判所が言ったのです。もう一つは、国と県が円満な協議を通じて一致点を求め、その一致点にもとづいてアメリカに要求すれば、アメリカも協議には応じてくれるだろうという意味のことまで書いています。
 私は、この和解勧告文は率直に評価します。この結果、双方が裁判を取り下げて、9月16日の判決までの約半年、工事が一時中止されました。これ自体大きな勝利です。
 しかし、政府の方は、辺野古が「唯一の解決策」ということでもう一度、是正勧告を4月に出してきた。そして協議には応じない。県が何もしないと称して、県の不作為違法確認訴訟というものを提訴したのです。その後、判決までの約半年の間に、裁判所の態度はガラッと変わったんですね。9月16日に、那覇の裁判所がおこなった判決は、これはあの和解勧告を下した裁判長と別人と思うほどの不当判決なんですね。この背景に何があったかはまだ判りません。一つは、判決はこう言っています。「国防、外交上の事項は国の本来的任務である」。だから、「国の判断に不合理がない限り国の判断が尊重されるべき」である。
 「普天間の危険性を取り除くためには、辺野古埋め立てしかない」というのがこの判決の結論です。アメリカと安倍政権のいうとおりの判決だったのです。日米ガイドラインの言うとおりの判決だったのです。環境破壊という不利益や新基地反対という民意を考えにいれても違法と認めるには至らないという判決であります。
 さらに、判決は、「普天間の被害は基地の閉鎖で改善されなければならない。沖縄にいる海兵隊はすべてを県外移転はできない。県内の普天間の代替施設が必要である。県内には辺野古のほかには移転先は見当たらない。よって辺野古に建設する以外にない」と政権のいうとおりの判決を恥ずかしげもなく書いたわけです。これに対しては、最高裁に上告して、たたかいはまさに、これからですが、最高裁に我々は幻想はもてません。同じ判決がでる可能性も率直にいって高いと私は見ております。翁長知事もその判断は甘く見ておられないと推察いたします。
 私は、もう一度この判決文を読み直しまして、政府の軍事的な主張までそのまま受け入れてしまった「政府・軍隊追随判決」だと思うんですね。私自身は、この種の事件を中心にやってきた弁護士ですが、ここまで政府を百パーセント以上支持をした判決は、はじめて見ましたね。
 そもそも、地方自治と民主主義とは何たるか、さらに県民の被害、これから受けるであろう被害、県民の願いということをまったく考慮に入れていない判決だということです。
 しかし、我々は、このような不当に屈しない。その根拠はなにか。現地における、辺野古における、東村高江における、沖縄全体におけるたたかいの前進は拒めない。それから、今後、もし最高裁の判決を受けて政府が工事を強行してきてもいろいろな対抗手段がある。
 まず、県民のたたかいはもちろんですが、県知事の権限、名護市長の権限があります。さっき言いましたが、取り消しと撤回は違います。かりに取り消しは負けたとしても知事は県民全体の利益を考えて、将来にむかって埋め立て処分を「撤回」する権限があります。撤回する権限が厳としてあるわけです。翁長知事もしばしば、「撤回についてはどうか」と聞かれると、撤回はもちろん視野にいれているということを言明しています。
 そのほか、今後、米軍と防衛省はいままで県の承認を得た基地建設の計画を変更せざるを得ません。その一つ一つの変更の許可申請をしなければならないわけで、それについて許さないという権限。それから、サンゴ礁を破壊する、それには許可がいる。それを許さない権限もある。それを裏付ける県民のたたかい、それから、全国の沖縄を支援する運動、全国の基地反対運動との連携などのたたかいがカギを握っていると思います。
 憲法の精神と地方自治、民主主義の真髄というものをいま原点からつかみ直して、そして運動を進めていくというところに勝利の道があると思います。
 これらの沖縄のたたかいこそが、全国のどこでも通用する基地反対、基地をなくせというたたかいの原則であると私は思っております。
(10月24日)

追  記  
 12月13日、海兵隊のオスプレイが墜落しました。事故原因の特定もないまま、6日後の19日に飛行再開。1月6日には空中給油も再開。安倍政権は、米軍の口頭説明を鵜吞みにして容認しました。
 12月20日、最高裁は、辺野古埋立に関する判決を出しました。安倍政権は、タイムリーな最高裁判決を最大限に利用して、2日後の12月22日、辺野古の工事を再開。米軍、安倍政権、最高裁が連携しての相次ぐ暴挙に、沖縄の怒りと戦いの火は一層広がっています。
 9月16日の高裁那覇支部の判決は、日米政府の言い分どおりの不当判決でしたが、最高裁判決はさらにそれを全面的に追認した不当判決です。最高裁判決は言います。「普天間の使用状況、日米交渉の経過、普天間住民への深刻な影響、普天間の危険除去が喫緊の課題」と言うのです。那覇支部判決と表現は異なっていますが、新基地容認の論旨は全く同じです。憲法にかかわる重要裁判なのに、口頭弁論さえも開かず、書面審査だけの判断。しかも年内工事再開に間に合わせた拙速の判決です。しかし、翁長知事は、これに屈せず、新基地建設を許さないことを「県政の柱」として、あらゆる知事の権限を行使するとの「不退転の決意」を表明しています。断固支持します。2018年の知事、市長選挙を視野に、沖縄と全国の連帯を強めましょう。

「宗教者の平和運動をめぐって ―課題と展望(試論)―」

浄土真宗本願寺派法善寺前住職
武蔵野大学名誉教授  山﨑 龍明

 ただいまご紹介いただきました山崎と申します。本日は、表題のタイトルにあるとおり、大変な大事な問題でありますけど、私の思っていることを少し皆さまの前でお話させていただきたいと思います。
 どこからお話を申し上げたらいいか、大変迷いました。本日は、2枚のコピーをお手元に配らせていただきました。レジュメの順序で、与えられた題について、宗教者とどのように平和の問題にかかわっていくのか、或はかかわっていくべきであるのかについて、仏教者としてお話させていただきたいと思います。
宗教者という立場について
 私が高校生の時に、ベトナム戦争がありました。大昔ですね、1960年代ですから。寺に生まれた私は、その時に、高校生として大変未熟な頭のなかで、こんなに大変なことが行われているときに、日本の仏教者はなぜ何も発言しないのだろうか。高校生ですから、もう50年も前ですから、大変純粋だったんですね。何も発言しない。
 しかし、当時、「北爆」と言ってましたが、大変悲惨なニュースが流れてくるのですけど、仏教者は何も言わないというのはどういうことかというのが、私の最初でありました。その後、ご承知のように世界でさまざまな対立や戦争がありました。そのなかで、宗教者としての証しを私たちは、宗教者としての存在証明というのでしょうか、宗教という立場について大上段にふりかぶった言葉でありますけれども…。
 私は、WCRPという組織がありまして、それは、世界宗教者平和会議と申しまして、その日本委員会の平和研究所の所長をしておりますけれども、世界のあらゆる宗教の方々が、加盟しておりまして、そこで平和の問題を論じております。そこには、なかなか難しい問題もあります。必ず言われるのは、それぞれの宗教をこえて、ひとつになって平和の問題をということですが、私はそれは無理だと思うのです。
 それぞれの宗教・宗派をこえてひとつに一致するのではなく、それぞれの信仰者の証しとして、それぞれの立場で、そして平和とは何か、戦争とは何か、こういう問題に取り組んでいくという姿勢が私にとってはピタッとくるように思っています。と言いますのは、大所帯ですから、ちょっと極端に言いますと、神社本庁も入っておりますからね。「日本会議」の人もおりますから、平和の問題を問題としながら、何となくなぁなぁで終わってしまう。究極的なところまでいきますと、喧嘩になってしまうほかありませんから。これをなんとかクリアできないかということで私は考えますけど、大変難しい問題でございます。
 にもかかわらず、私は宗教という立場から、言葉は適当ではないかもしれませんが、私は何によって、何を根拠に立っているのか、ということですよね。私は大変恐縮ですが、このレジュメを見ていただくと仏教そのものになってしましますけど、私はいつ頃でしょうかね。皆さんご承知の日本を代表する近代の政治学の大家の丸山真男さん、その息子さんがNHKのテレビに出ておられました。その映像にリビングが映っていました。リビングに「真理立国」という言葉ありました。真理によって国をたてるという。これは、丸山さんのお父さんの真男さんが大事にされた言葉だと。この言葉を調べましたら、クリスチャンの矢内原忠雄さんの言葉だということが判りましてね。真理によって国をたてるということが最も大切なことなんだ。つまり、人ではないんだということではないかと。真理とキリスト教では申します。我々の言葉で申しましたら、永遠の真理である、ダルマ、普遍的真理であります。自ら法に帰依し奉る。お前は何によって立っているのかというと、自ら仏に帰依をする、真理を悟った仏陀に帰依をする。その真理の内容である教えに帰依をする。そしてその教えを実践するグループ、仏教では僧伽(サンガ)=仲間といいますが、その三つのもの以外を根拠として生きてはいけないというのが、仏教者の根本的な問題としてあるわけです。
 それでは、お前たちはそのとおりにこの三つに生きているのか、と言われると実は心もとないということがありますけれど、基本的にはその立場。その立場に立つと、私たちの国家とか民族というものが、当然その前では相対化されるのではないでしょうか。間違ってもそうしてものを絶対化しない。
 キリスト教的社会主義者といわれる木下尚江の言葉に、「最大の迷信は、それはすなわち国家崇拝である」という有名が言葉がありますよね。国家を崇拝するというのは最大の迷信なんだということです。迷信というのは、迷いごころと書いてますから、そのことにおいては、「真理立国」ということにつながるのではないかと・・・。
 そんなことから、私たちが宗教者であるというのであるならば、私はどういう場に立って、何を根拠として生きているのかということを明確にしていかなければならないんではないか。そこから、私は、世間とか社会とかいうものが見えてくるのではないかということを一つ申し上げたいのであります。

「積極的平和主義」
 皆さんは、ガルトウング・ヨハン氏の有名な「積極的平和主義」についてご存知のことだと思います。
 「平和」というのは、戦争がないという状態ではない。戦争がなければ平和だという考え方もありますが、ガルトウングさんはそうではない。戦争がない、それがイコール平和ではなくして、ガルトウングさんが「積極的平和主義」と呼ぶのは、すべてのいのちが尊厳あるものとして敬われる世界、それが平和という世界なのだというのです。戦争のあるなしには関係がない。ですから、「非平和」というのは、そうした尊いいのちが阻害される世界、いのちがいのちとして扱われない、いのちが踏みつけられる、そういう世界が「非平和」なのだというのです。
 私たち日本の平和主義は、憲法前文と第9条の平和的生存権、「戦争放棄」、「戦力不保持」、「交戦権の否認」、これが平和主義です。第9条の三原則は、積極的非暴力平和主義の立場です。
 「積極的平和主義」というのを身近なものにしたのが、安倍首相がこの言葉を使ったからです。だた、皆さんもご承知のとおり、その「積極的平和主義」の内実は、意味はまったく異質なもの、違うものであることを私たちは忘れてはならないという議論がだいぶ前にありました。
 1889年の「大日本帝国憲法」と現在の「日本国憲法」との比較です。
 「われらは、全世界の国民がひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有する」。これは、現在の憲法の前文であります。
 「日本会議」の根本的主張というのは、明治憲法への回帰、日本国憲法を認めないというのをはっきりとした姿勢が出るわけであります。これは、ご案内のとおり、元々は「生長の家」の総裁であった谷口雅春さんの団体の青年部の幹部が「日本会議」の役員をやっています。その人が起したのが、「日本会議」の始まりであります。国会議員の約300人位が「日本会議」に関わっており、安倍内閣の19人の閣僚が何らかの形で「日本会議」に関わっています。そういうことも、私たちはきっちり検証し、考えておかなければならないと思います。

アミダ仏(如来)の48誓願
 阿弥陀というのは、「無限の生命」=真理という意味ですが、すべての人が等しく救われる国、浄土をつくろうとたてられた阿弥陀仏の48の誓願。その中の第一の誓いが「私が仏の悟りを得ようとしたときに、私の国に地獄・餓鬼・畜生の三つの世界があったら、私は仏にはならない」と。これを第一の誓いとして後、47の誓いが出ています。
 私たちは、この「地獄、餓鬼、畜生」というのをどういう世界のことをいうのかということを考えますと、「地獄」というのは殺戮、殺しをこととして一日も休むことのない世界、「餓鬼」というのは、私が尊敬する大谷派の児玉暁洋先生が「無限成長の罠」と指摘されましたが、餓鬼というのはご承知にようにどんな状況にあっても満足することのできない状態、満たされない不平不満の中に生きていることですから、「もっともっともっと」ですよね。ですから私は、安倍さんというのは、「餓鬼の虫」だと思っているのですよ。何でもかんでも、経済が上手くいけばそれで文句ないだろう、みたいな。私は良く言うのですが、昨日も三鷹で講演があり、皆さんにお願いしたんです。もし皆さんの中に、安倍さんに親しい人がいたら私に紹介して欲しい。 そして、15分でいいから会わせてくれないかと。私、安倍さんに説法したいことがあるんだと。そうすると、皆さんは、「それは無理でしょう」と言うんです。私は安倍さんのことを良く知っているのですが、向うは全然知りませんから。
 「無限成長の罠」と児玉先生が教えて下さいましたが、安倍さんはどこまでいっても欲望の僕になっているわけですよね。私は、政権だけでなく、我々国民一人ひとりもそういう「無限成長の罠」に捕らわれてしまっているのでは・・・。でなければね、いまの政権はおかしいよっていう声がもっと大きくなってもいいと思うんですよ。それがないということが私たち自身をやっぱりそういうところにおしこんでしまっているのでは、と反省をさせられるところかと。
 「畜生」というのは、ひとり立ちできずに、力あるものに依存し、全体主義的に、一人の人がワァーと声をかけるとわき目もふらずにサァーといってしまう、と。経典のなかに、仏陀が歩いておられると動物の一群が一目散に、まさに脱兎の如くにウワァーと走ってくる。釈迦が一番前にいた動物に、あなたはなぜそんなに血相をかけて走っているのかと聞いたら、耳を劈(つんざ)くようなドカーンという大きな音がした。これは宇宙の終わりだと思って私たちは逃げているのです、と答える。経典の一部にあります。それなら、ホントにそうなのかどうかあなた方が昼寝をしていたところに行ってみようではないかといって戻ってみると、そこには一抱えもある大きなマンゴーの実が落ちていたという話なんです。
 宇宙の終わりではなく、その音を聞いて、こりゃあ大変、宇宙の終わりだ、逃げなければならないとなってしまう。それは、「原因をさかのぼって真理を探求する」という説法になるわけです。畜生の世界というのは、そういうであると一般的にいえます。(4月号に続く)

3・1ビキニデー「宗教者平和運動交流集会」の
沖縄からの報告は相馬由里さん 抗議船「平和丸」船長

2月28日(火)3・1ビキニデーが開かれる焼津市で日本宗教者平和運動交流集会に沖縄から相馬由里さんが特別報告をします。

沖縄新基地・辺野古緊迫
埋め立て工事再開

 2月5日数隻の作業船団が辺野古・大浦湾に到着しました。
 安倍政権は10日の日米首脳会談に向けて、新基地建設の進展を誇示するため、護岸工事に伴う汚濁防止膜を固定する大型コンクリートブロックを228個を積載。5日まで臨時制限区域を示すフロート(浮具)の張り出しを完了しました。
 工事は3か月程度で完了の見通し。これが終われば本体工事である護岸工事により大浦湾の破壊が顕著になります。翁長県知事はあらゆる手段で中止を求める決意を表明しています。
 相馬由里さんから「異常な事態が強行されています。漁船の航路まで締め出すなど無法が行われています。カヌー抗議には以前より強行に排除に海自が来ています。助けていただきたい気持ちです。当日グッズなど持参します。支援をお願いします」と電話で語っています。


2017年東日本大震災犠牲者追悼・原発廃止廃炉を願う
「諸宗教による祈りのつどい」のご案内
2017年3月13日(月)~14日(火)

日程・プログラム 
 3月13日(月) 
祈りのつどいと学習会
集合場所 湯本温泉・古滝屋旅館
電話0246-43-2191
(JR常磐線 湯本駅下車 徒歩5分)
〒972-8321 いわき市常磐湯本本町三函208
 3月14日(火) 
フィールドワーク(楢葉町・宝鏡寺、原発・津波被災地訪問)
 参加費  
*全日程参加17,000円(含む宿泊・懇親会費・バス代・弁当代・被災者支援)現地当日参加者 つどい参加費1,000円、被災地訪問3,500円(バス・弁当)

山家妄想
民衆レベルの友好増進を

★最近の日中両国国民の意識状況は、相手に対して好意をもつよりも嫌悪感ないし敵意を持つものが圧倒的に多いのだそうである。両国の間に位置する朝鮮(韓国・北朝鮮)に関しても同じような状況にある。しかしながら、東アジアの歴史を顧みるとき、圧倒的な文明先進国・中国を中心にして友好的な関係が継続されていた。さまざまな思想・制度を含めて文物の伝来、当然のことながら人物の交流は枚挙にいとまがない。紛争や戦争については「元寇」と「倭寇」「秀吉の朝鮮出兵」くらいのものである。「一衣帯水」の関係と呼ばれるにふさわしかった。
★1868年明治維新以来、様相は一変する。年代は省略するが、台湾出兵、日朝修好条規調印、日清戦争(台湾領有)、日露戦争(朝鮮併合)、第一次大戦 対華21か条要求、満州事変、「シナ」事変、太平洋戦争そして敗戦である。不断の戦争である。その実質が日本による侵略戦争であったことは、いかに自存自衛の止むに止まれぬ戦争であったと強弁しても、国際的に理解をえることはできないであろう。
★満州国建国(「日本のというより、関東軍のロボット政権」と、かつて高校で使用した資料日本史は解説する)。皇帝は清王朝最後の皇帝溥儀が執政となるが、実権は日本の関東軍司令官が握る。安倍総理の尊崇する岸信介はナンバー二であった。盧溝橋事件に始まる宣戦布告なしの戦争を、日本は「シナ事変」と呼ぶが、全面的な侵略戦争であったことは間違いない。戦争の過程で残虐な虐殺などの非人道的行為が発生することはあるが、華北戦線における「三光」作戦や平頂山事件、南京占領後の「南京虐殺」などといわれる事件は、自らを「皇軍」と呼び破邪顕正の正義の軍隊と称した天皇の軍隊・日本軍の所行としては、あってはならぬことである。
★問題はその犠牲者の数などではない。事件の存在そのものが赦されるべきものではないのである。事件の存在そのものに対しての、衷心からの謝罪からことははじまる。「従軍慰安婦」問題についても同様である。歴史事実を踏まえるとき、近代における日中関係は、日本の中国に対する軍事的進出を背景として稙民地化を意図したものが基本であるということは否定できないであろう。この事実を認めることから、ものごとは始まるのである。
★わが寺では、元旦以来お勤めしてきた修正会の満散法会を三日に檀家の方もお招きしてお勤めする。正月三が日は遠方から帰省する子どもたちの家族を迎えて、久しぶりの水入らずの日を過ごす家庭も多いので、お参りの数は多くない。地元よりも遠方からおいでになる方が多く、毎年一家総出で幼い子供も交えて参詣される家庭もある。しかし幼児は当然のことながら成長し学齢となり、やがては成人し就職すれば寺参りも卒業される。
★毎年まだ若い父親と一緒にお参りに来ていた娘さんが、県下でも数少ない高校美術科に進んで、毎日楽しくて仕方がないといった表情で話してくれたのは、昨年末のこと。また作品を見せてくださいと依頼したが、新聞の地方版に卒業生も参加して、その高校の作品展が開かれたと報じられた。一年生も授業で制作した作品を展示したというから、彼女の作品も出展されているはずだ。新年最初の月参りの時「お父さんがお参りしてくれてありがとう」というと、母親が「実は帰省していまして・・・」という。
★彼女は韓国人である。でも、そのことをわからせないような日本語をこなしている。「ソウルのお母さんは元気でしたか。お国でも正月には親戚が集まるの?」と尋ねると、「向こうでは旧正月が大事。でも私は帰れないので、娘の休みの正月に帰ってきました。親戚回りをして挨拶してきました。」と答えた。「あなたが日本人と結婚していることで、差別されたりすることはないの?」と聞くと、「私がのんびりしているのかもしれないが、感じたことはない」の答えに、ちょっと安心する。わが教団がエッセイ集と謳う教化雑誌「花園」を毎月渡しているのだが、「読める?」と聞くと、「ひらがなは大丈夫、漢字は娘に教えてもらっている」という健気な答えが返ってきた。当然のことながらハングルに比べて日本語は難しいという。
★実は私の寺の檀家には、彼女の他にいま一人外国人の奥さんがいる。彼女は中国人である。「ニィ ハオ」と挨拶すれば「こんにちは」と返ってくる明るい女性である。僅か50軒を少し超えた小さな寺の国際結婚の現状に、民衆レベルの友好関係は確かに進んでいる実感を持つとともに、その実感を全国民的規模に広げる努力の必要を痛感するのである。そして、政府レベルでの軍事力を背景にした大上段に振りかぶった外交姿勢の時代錯誤なありかたを、情けなく哀れと思うのである。(2017・1・20)
(日中友好協会兵庫県連合会 前会長・臨済宗の一老僧 水田全一)