日本宗教者平和会議in大分 記念講演

記念講演
「戦後70年・戦争観と現代責任」③
中島三千男(元神奈川大学学長)


安倍総理の「戦後70年談話」をどうみるか(前号からの続き)
 内閣総理大臣談話(安倍談話、2015年8月14日)を通底している歴史観は基本的には「自存・自衛、アジアの解放のための戦争」観です。例えば、明治維新から日露戦争に至る歴史過程については、「(欧米諸国の)植民地支配の波は、19世紀、アジアにも押し寄せました」。それに対して日本は「独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配にもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と言っています。また、1930年代以降の歩みについても「世界恐慌が発生し、欧米諸国が植民地経済を巻き込んだ経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立観を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。」「日本は次第に…〈新しい国際秩序〉への〈挑戦者〉となっていった」としています。ここでもアジア太平洋戦争といわれる戦争の責任を基本的には欧米諸国に置き、日本の「自存・自衛の戦争」という側面を滲み出し、また「挑戦者」という表現に、アジアを代表して欧米列強の支配に抗した戦い、「アジアの解放のための戦争」であったという歴史観をすべり込ませているものです。
 また、この談話には従前から話題になっていた「村山談話」の4つのキーワード「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「お詫び」を全てちりばめながら、それらは日本の過去の具体的な事実としては曖昧化され、また戦後の村山談話などで表明されたことを紹介する形で間接的に触れられだけで、安倍首相自身の言葉としては述べられておりません。例えば、従軍「慰安婦」の問題にしても「20世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷付けられた過去を、この胸に刻み続けます」と一般論、他人事のように触れられているのみです。むしろ、対米従属のもと、安倍首相の考える、現在の中国やロシアの対外政策を念頭においた「積極的平和主義」を正当化するものとして述べられています。
 先の4つの語彙を入れて、近代日本の歩みを述べよという試験問題に対して、安倍さんの談話のような解答をすればこれは及第点は取れませんよね。文脈の全く違うところに「侵略」とか「植民地支配」等の語彙を入れているのですから。
 このように安倍談話の本質は、1995年に出された村山談話などを曖昧化するところにあるわけですが、しかし他方で大事なことは、安倍首相が本音として持っている、村山談話等を東京裁判史観としてそれを否定する歴史観をはっきりと打ち出せなかったという点です。「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました」、「こうした歴代内閣の立場は揺るぎのないものであります」と表明せざるをえなかったのです。さきの、「挑戦者」の行ですが、ここでもすぐ後に「進むべき進路を誤り、戦争への道を進んでいきました」と述べ、また「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実」「この…事実を噛みしめるとき、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じえません」という感情を吐露した文言を各所に散りばめざるを得なかったという事です。
 この点に関連して、この安倍談話が保守の人々や少なからぬ国民に一番受けたのは「あの戦争に何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という下りだろうと思います。当日のNHKニュースでもこの下りが強調されて報じられました。しかし、安倍談話では、そのすぐ後に「しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」とも述べている事です。
表面的には、こうした両義性を持っていることが、安倍談話が比較的好感を持って、内外に受け入れらた要因だろうと思います。
 そして、表面的には、こうした両義性で取り繕わざるを得なかったは、先ほども言いましたが、国際的な批判、あるいは国内においてもこの2~3年間、とりわけ戦争法案の中で盛り上がっていった新しい国民世論の形成があったと私は思っています。

「右派」の論調

 こうした安倍談話の特徴は、「右派」の側の論調にも見て取ることが出来ます。一番厳しい批判をしているのが、歴史学者の伊藤隆さんですね。政治的には安倍首相の応援団の一員ですが、安倍談話は基本的に東京裁判史観を払拭できていない、むしろそれを踏まえた談話になっていて、あれは間違いであると言っています。
 しかし、多くの「右派」の論者たちは安倍談話を支持しています。しかしそれらを良く読んでみますとそれは政治的な評価をしているのですね。これらの人たちは、安倍内閣の登場を天から与えられた「千載一遇」のチャンス、戦後レジームの転換を実現できる絶好のチャンスだと考え、何があっても安倍内閣を継続させ長期政権にするということを最大の眼目にしています。第一次安倍内閣(2006年9月~2007年8月)が失敗したのはそこですよね、「右派」の側がかなり厳しい批判を行ったんです。靖国も参拝しなかったではないかとかね。そのこともあって第一次安倍内閣はつぶれたわけです。その二の舞を踏んではいけないということで、「右派」の側は安倍政権に対して、彼らからしてみれば、がっかりするような、いいかげんな談話なんだけれども、上出来だというかたちで褒め称えるのです。安倍内閣を支えるということを意図的に行っているんですね。政治的な賛成であるのです。例えば西尾幹二さんもはっきり言っていますね。政治的にはあれでよいと。そして「総理、どうか戦後75年に、もう一度本物の安倍談話を出して下さい」(『正論』11月号)。と言っています。 でありますから、この談話はある意味では妥協の産物であります。これからも「右派」の側とわれわれの側との歴史認識をめぐる綱引き、たたかいは続くのです。今、その第一段階が終わったにすぎないのです。

私たちの課題

 いよいよ「私たちの課題」というところに入っていきます。今まで三つの戦争観とかあるいは安倍談話の評価については、皆さんにとってはある意味ではわかりきったことであったかと思いますが、これから述べる「私たちの課題」という点は、皆さんにとってはあるいは異論があることかと思います。私自身も専門家ではありませんので、ひょっとしたらあとで修正することがあるかもしれませんが、現在、私が考えていることを述べさせていただき、締めくくりとさせていただきます。
 まず第一に、歴史観とか戦争観を考える前に私たちが考えなくてはならないものは、どの国もその被害・苦難の歴史とその克服、それからの立ち上がりがその国の物語になるということ、このことをしっかりと認識する必要があるということです。これは良いか悪いかは別問題ですよ、しかし実際問題としてどの国々も、苦難・大きな打撃に対しどう乗り切ってきたか、どうたたかってきたかという、ここがその国なりその民族の物語であるということです。ここを私たちはしっかりと理解しましょうということです。
 日本の場合は、戦中・戦後、私たちは大変な苦難を経験しました(被害者・犠牲者としての戦争観)。しかしこの苦難、廃墟から立ち上がり高度成長を行い今日の日本があるのだという物語を作ってきているわけですが、これは外から見ますと疑問にもなるんです。例えば一番はっきり言っているのは、去年2014年、これは朝日新聞にも載っていたものですが、イスラエルの高官の発言として、「日本による侵略行為の報いであるにもかかわらず、『ひとりよがりの追悼式典』、原爆の追悼式典とか、8月15日の式典あれは何だ。」と。「自分たちが仕掛けた戦争でそんな結果を生んだのでしょう。」
というようなことをイスラエルの高官が言ったんですよね。まあ、イスラエルの高官に言われる筋合いはないと思うんですが。でもさすがに今の日本政府は厳しいですよね。戦争観とか侵略、それに対するちょっとした報道に対してもすぐに行動を起こします。この時もイスラエル政府に抗議をしました。当時イスラエルの宣伝相であったと思いましたが、この人はすぐにイスラエル政府から更迭されました。
 また、シンガポール、あそこに、セントーサ島でしたっけ、戦争博物館がありますが、そこに入ると、当時の戦争がどこで終わったかというと、あの壁一面に飾られた巨大な原爆のキノコ雲の写真…あそこで終わっているんですよね。あの巨大なキノコ雲、アメリカの原爆投下によりシンガポールは解放されたという、この戦争観です。
そんなことを考えていくと、今度のユネスコの世界記憶遺産登録の件でもそうです。南京大虐殺を記憶遺産にするのはとんでもないということを言いながら、一方ではシベリア抑留についてはやっているわけです。これについてはロシアの外務省が抗議をしましたよね。日本政府はダブルスタンダードを行なったのです。中国に対しては議論の余地があるところをなぜ一方的にやるんだと言いました。ロシア政府はまた同じことですよね。あのシベリア抑留については、そもそもなぜあのような悲劇が起きたのか。それは中国を侵略してあなたたちが満州国をつくって攻めてきた、そこが発端ではないですかということでしょう。だからそれを一方的に記憶遺産としてやったのはおかしいと。まあ、どの国も自分たちの国の被害、苦難、そこが物語になっていくということです。
 それでは、中国や韓国や北朝鮮にとって被害、苦難というものは何かというと、これは言うまでもないということです。植民地支配や侵略であるということです。
 そこで例えば尖閣諸島の問題でも、日本の多くは、あそこは中国は今まで何も言わなかったのに1970年ごろに、急に石油が出できたから自分たちの領土であると言い始めたということが一般の「神話」です。多くのマスコミなどでも取り上げられています。しかし、最近の朝日新聞の記事がおもしろいですね。当時は中国ではなく台湾の国民党政府でした。台湾の国民党政府がアメリカや日本に対して尖閣諸島を日本の領土にすることについてはかなり早くから反対・抵抗を行っているのです。中国や台湾に言わせれば、尖閣諸島はいつ日本の領土になったのかということが言われます。あれは1895年1月です。この時期は日清戦争の最中、日本がもう少しで勝利する(4月、日清講和条約調印)、その時に日本はたくさんの島々を占領します。だから中国側にとっては、日清戦争の結果その過程で日本の領土になったんだという認識です。この主張が正しいかどうかわかりませんが、そういう感情が起きるのは理解できると思います。日清戦争の最中ですから。
 それから竹島でもそうです。あれは日露戦争の最中です。バルチック艦隊がやって来るということで、対馬海峡を通過する艦隊を早く発見するために望楼を作るために、1905年1月から2月にかけて、竹島を日本の領土として編入したのです。バルチック艦隊が来る直前のことです。日露戦争の時には、韓国は日韓議定書や第1次日韓協約(1904年8月)によって、韓国は軍事的制圧下に置かれていますから、韓国政府によれば、あれはもう戦争の最中であなたたち日本は力により奪ったのだろうということです。そういう感情というものを理解した上で、つまり日本のアジア侵略の歴史をはっきりさせた上で、日本の主張を展開していく必要があるのではないかと考えています。反核、非核の運動も宗平協の皆さんはすでにしっかりやっておられますが、日本のアジア侵略の問題をしっかり踏まえた上で行って、初めて世界的な広がりを持つことができるということですね。

「日本の尊厳、誇りを取り戻す」

それから、「私たちの課題」の二番目ですね。実はここ、これからが私の一番言いたいことです。自信はありませんけれどもね。「どうしておまえが『愛国心』を言うのか」とすぐ批判を受けそうな話になりますけれども、私は、安倍さんたちが言っている、愛国心、国を愛するとか、日本の尊厳、誇りを護るであるとか、これらのことを安倍さんたちに独占させてはならないと思っています。むしろ安倍さんたちの言動、行為こそそうしたものを汚している、辱めている、そして、私たちこそがそうしたものを担っているのだ、安倍さん流に言えば「日本の尊厳、誇りを取り戻す」ということを、私たちは強く主張していかなくてはならないのではないかと思っています。  (次号につづく)

(文責、見出しは編集部で行っていますの講演者の責任ではありませんのでご理解ください)

韓国への遺骨奉還 ― 北海道・広島・韓国の絆

浄土真宗本願寺派僧侶   吉川徹忍

朱鞠内ダムと高暮ダム

 1980年5月から、北海道北部にある朱鞠内ダムの山奥深い笹薮で殿平善彦氏たち僧侶を中心に地元住民や高校生・市民による朝鮮人強制労働・たこ部屋労働犠牲者の遺骨掘り起し運動が始まった。この年の10月以来、殿平氏は来広のたびの講演で遺骨掘り起しの経過報告をした。殿平氏の依頼で、北海道から平和学習に来る子どもたちを受け入れた。李実根さん(広島県朝鮮人被爆者協議会会長)との出会いもプログラムに組み込んだ。日本の侵略・植民地支配による朝鮮人被爆者の闇に隠れたもう一つのヒロシマを学んだ。李さんも北海道各地での講演と子どもたちとの再会、朱鞠内での冬の日韓ワークショップに参加するなど、日本・在日・韓国の若者たちとの親睦を深めた。
 私も朱鞠内や浅茅野での掘り起しに参加してきた。若者たちは日本人と在日朝鮮人・韓国人の歴史理解・認識の違いや対立をはらみながらも共同作業に取り組んだ。土中から姿を現した遺骨と出会う中で、闇に埋もれた歴史の「真実」に共に立ち会った。追悼と平和への誓いのコミュニケーションが生まれた。友情と民族和解がにじみ出た瞬間だった。
 1976年9月、殿平氏らが朱鞠内で犠牲者の位牌を発見した1年前の1975年9月、中国山地奥の高暮ダム(現庄原市高野町)に初めて李さんは調査に入った。戦時下、朝鮮人が強制労働させられ、多くの犠牲者を出した地。悲惨な実相と日本の戦争責任、地元住民の温かい民族を越えた「連帯」の記憶を継承し、平和と民族和解を築きたいとの願いを李さんは抱かれた。 1989年7月、『高暮ダム・朝鮮人強制労働の記録』が地元の学者・教師・マスコミ関係者によって発行された。1991年10月、朱鞠内ダムに民族の和解と友好の「願いの像」が建立され、除幕式には私も参列した。翌年殿平氏が広島別院で報告講演をした。1年後の1993年9月、李さんはダムの堰堤そばの湖畔に「朝鮮人犠牲者追悼碑」建立を願い、広く県民に募金を呼びかけた。市民はもとより、街頭募金などに取り組んだ広島高校生平和ゼミナールの中・高校生や広島朝鮮初中高級学校の生徒たちも協力した。
 1995年7月22日、「高暮ダム朝鮮人犠牲者追悼碑」除幕式が地元住民、在日朝鮮人を含め約150人の参列者で営まれた。地元の中学生や高校生平和ゼミ、朝鮮学校の生徒たちも、「平和の誓い」を述べた。以来ほぼ毎年、「高暮ダム追悼碑前祭」が高暮地区住民の協力で催されている。碑前祭の挨拶で時々李さんは、朱鞠内ダムでの掘り起しや「願いの像」への連帯の思いを語られる。

広島から韓国へ

 2015年8月30日「高暮ダム追悼碑前祭」から約半月後の9月16日。北海道から韓国への朝鮮人強制労働犠牲者115体の遺骨奉還に合わせて、「遺骨奉還追悼法要・広島」が浄土真宗本願寺広島別院で約90名余の参列の中、輪番導師の下でしめやかに執り行われた。殿平師は講演で、これまでの取り組み経緯を説明。参列者の平和の願いが書き込まれた手作りの灯籠に囲まれた遺骨に、全員で手を合わせた。鄭炳浩氏(漢陽大学教授)と韓国の遺族による挨拶から、遺骨奉還を機に日韓が一層手を取り合い、21世紀の平和のために一緒に努力することの大切さを学び合った。
 高暮ダムの取り組みを私と高暮の田中五郎氏(庄原市議会議員)が報告。高校生平和ゼミの生徒たちは「平和の誓い」、朝鮮学校の生徒たちは「追悼の文」を発表、教え子の大学3年生は中・高校時代の高暮ダム学習体験の思いを語り、東アジアの平和と友好のために過去の歴史事実を継承する決意を述べた。参列者の中には、駐広島韓国副総領事や総連代表と民団団長の方々の姿もあった。
 翌17日、広島から私も代表団に加わり、訪韓した。18日、釜山では市民に見守られる中、同行した僧侶たちとご遺骨を前に追悼法要の読経をした。19日、ソウル市庁舎前大広場で、大追悼式(葬式)が多くのソウル市民の前で盛大に挙行された。韓国の仏教・キリスト教や民族宗教など多様な儀式が営まれた。私たち僧侶も浄土真宗式のお勤めをした。韓国・朝鮮文化に依拠した個性豊かな音楽による歌や演奏による表現、ソウル市長のしみじみとした挨拶の中に、異郷の地で不本意に亡くなったご遺骨を、ハン(恨み)と悲しみの中にも温かくお迎えしようとする思いがこもっていた。
 殿平氏の演説の一節が特に大広場に感動を広げた。前日の日本の国会で憲法違反に当たる「安全保障法制(戦争法案)」の強行可決に触れた。「若者よ、銃の代わりにスコップを持とう。未だ掘り起こされていない朝鮮人強制労働犠牲者の遺骨を!」。
 20日、私たちはご遺骨と共にソウル市立の追慕公園(パジュ市)に向かった。遺族を含めた100名余りが参列した。一人ひとりのご遺骨を納骨している間、私たち僧侶は真宗のお経「正信偈」をあげた。翌21日、心温まる思いと大きな課題を背負って帰国した。

 過去を見すえた希望

 70年目にして北海道で犠牲になったご遺骨は、札幌(別院)・東京(築地本願寺)・京都(西本願寺)・大阪(津村別院)・広島(別院)・下関、そして関釜連絡船と、強制連行の逆コースをたどり、10日間かけて祖国の地にお返しされた。今回、遺骨奉還の旅に参加させていただきお勤めをしながら、戦争責任は終わってはいない、「いのち」の尊厳さは未だ回復されていないと問われているようだった。歴史・人権の掘り起しの課題はこれからも続く。真摯に過去と向き合おうとする宗教者や市民・若者たちによる連帯のこの試みにより、昨今の厳しいナショナリズムのからむ政治状況下とはいえ、東アジアにおける民族の壁を越えた共感と共生の新たな出発点に立てたのではないだろうか。
 ちなみに私は1998年8月、韓国での「日韓共同ワークショップ」で10数名の日本・在日・韓国の学生たちを引率して、19歳の時北海道の炭鉱に強制連行された古老への聞き取りのため忠清北道に向かった。日本への不信は根強く、「この中に日本人がいる」と言われ、固く口を閉ざされた。若者は自分たちの実践を、私は高暮ダムでの李さんや地元住民と日朝の生徒たちの取り組みを報告すると、古老はやっと過酷な労働と未補償への怒りの思いを語ってくれた。今回の訪韓では19日、私はソウルの建国大学の学生2人から「高暮ダムと追悼碑」について質問され、インタビューに応じた。この取り組みは感動をもって受け止められ、韓国国内へインターネットで紹介してくれた。
 今改めて、1951年生まれのテッサ・モーリス・スズキ氏(オーストラリア国籍)の言葉を受け止め噛みしめる。「過去の侵略行為を支えた偏見も現在に生き続けており、それを排除するために積極的な行動に出ない限り、現在の世代のなかにしっかりと居すわりつづける。そうした侵略行為をひきおこしたという意味では私たちに責任はないかもしれないが、そのおかげで今の私たちがこうしてあるという意味では“連累”している」。
 このたびの行事の中に、国境を超えた交流と歴史を共有して継承し、平和と民主主義・人権を学び、東アジアの民族和解を構築しようとする若者たちが育っていることに希望を見る。

山家妄想

「さる・猿・申」の年
★今年の年賀状には猿にちなんで、さまざまな言葉が並んでいる。テレビでは東照宮の極彩色「三猿」がクローズアップされた。左甚五郎の作と伝えられ、世界にも紹介されている。「三猿」の由来は「論語」に「礼にあらざれば見ることなかれ、礼にあらざれば聴くことなかれ、礼にあらざれば言うことなかれ、礼にあらざれば動くことなかれ」とあり、悪いことを「見ザル、聞かザル、言わザル」という教えとして、八世紀に天台宗の留学僧が日本に伝えたという説があるそうだ。
★天台宗比叡山の鎮守日吉大社の神使が猿、日吉大社を本尊とする山王信仰が庚申信仰と習合し、庚申信仰の青面金剛(インドのビシュヌ神)の足下に三猿を添えることが多くなったという。わが寺の隣寺の庚申堂にも「三猿」が鎮座している。
★論語にはもともと「動かザル」があり四猿になるはずであるが、「言わざると 見ざる聞かざる 世にはあり 思わざること いまだ見ぬかな」(沙石集)とあるごとく、動かざる・思わざるは形象表現が困難な故に「三猿」となったのであろう。
★しかしながら、今年の賀状はいささか様変わりである。たとえば「見ザル、言わザル、聞かザルを返上して、もっとエンパワーメントしたいものです」などと「三猿」を否定するものが多い。加古川革新懇のチラシには双眼鏡を構えた猿、携帯マイクでしゃべっている猿、耳に両手を当てて聞き耳を立てている猿のイラストが描かれている。わたしも「三猿は徳にあらず人間を滅す」(人間は「じんかん」と読み人間社会のこと)と書初めした。
★思うに昨年来の美国(「美しい国日本」というが、中国では米国をこう呼ぶ)属州日本総督アベ某の言動を看過することができぬ衝動が、いまなお日本国民の魂を揺さぶっている証左であろう。属州総督アベは歴史の真実・世界の大勢・日本国民の生活実態を見ず、憲法学者・元法制局長官・元最高裁長官などの忠言・澎湃として湧きあがった若者やママたち日本国民の声を聞かず、そして「戦争法」の本質を言わず、「三猿」を決め込んだ。
★しかも「礼にあらざれば動かず」は知ってか知らずか、大企業経営者をお供に連れて大名行列よろしく原発・武器セールスに世界を駆け巡った。彼の外交音痴ぶりを如実に示したイスラエル国旗の前での発言が、中東を舞台にして友好活動に挺身している日本ジャーナリストの生命をテロリストに差し出すことになったことも、記憶に新しい。
★憲法に基づき野党が要求した臨時国会召集を黙殺し、ようやく申年を迎えて開かれた通常国会においても、彼の発する言葉は論語に言う「礼」、それは最も重要な道徳観念のひとつであるが、礼を外れること甚だしいものである。まさに質問する議員、それはとりもなおさず幾万の国民を代表した者なのだが、それに対する一片の「礼」もない「言うこと勿れ」と戒められて然るべきものである。
★猿にちなんだことわざを探してみると、犬猿の仲、猿の尻笑い、猿も木から落ちるなどが思いうかぶ。いずれもあまり良い例えではないから、新年のあいさつに不向きである。「大いに胡猻(ここう)の生鐡(さんてつ)を咬むに似たり」(猿のように齧ることのできない鉄を噛む―愚かなことだ)、「神箭三匝(さんそう)して白猿 號す」(矢が逃げ回る猿を追いかけて当った―まさに神業)、「猿霜枝を繞り一夜啼く」(飢えた猿の悲痛な鳴き声)などと、禅語の句集を見ても、猿は気の毒な存在である。
★高僧がよく揮毫されている語に「猿抱子帰青嶂後(猿は子を抱いて青嶂(せいしょう)[衝立のように立ちふさがる山]の後(しりえ)に帰る)」がある。「子」は猿の子どもと解してもよいし、木の実と読んでもよいが、これだと愛らしい猿の姿が浮かんで微笑ましい。
★通常国会も、与野党は如何に厳しく対立しようとも、犬猿の仲ではなく、ともに理性ある人間として誠意あふれる言葉のやり取りに徹してもらいたい。それが言論の府のあるべき姿である。もちろん、このあるべき姿に反した昨年の政府与党の蛮行は決して許されるべきものでないし、既成事実の上に立って「改憲=憲法改悪」に突き進むたくらみも許されるものでない。
★「猿に烏帽子」「猿猴にして冠す」などは、その人柄にふさわしくない服装や言動のたとえであるが、小選挙区制の矛盾によって多数を得たことを忘れたかのごとく、賢(さか)しらげに振舞う属州総督を彷彿させるものである。
仏教経典の律蔵にある寓話に、猿が水にうつる月を取ろうとして溺死したというのがある。「猿猴 月を捉う」というが、身の程を知らぬ望みをもてば、失敗することを言う。無邪気な猿にしても無知による行動は身を滅ぼす。ましてや道理に反する言動を常とし、真理をわきまえず歴史の教訓に学ばない輩の未来が如何なるものか、あきらかである。
★申年の夏は二千万の力を結集して酷政を転換させ、属州日本を「美(うま)し国、日本」に取り戻さなければならない。

(2016・1・18) 水田全一・妙心寺派の一老僧