2015年11月号

2015年日本宗教者平和会議in大分を開催
記念講演「戦後70年・戦争観と現代責任」

 本年度の日本宗教者平和会議は、初めて九州の地、大分県宇佐市で行われました。戦後70年の節目を迎え、私たち宗教者は戦後責任をどう果たしているのか、改めて、戦前・戦中の宗教界の事実を検証し、問い直す機会を得るべく10月26日(月)、27日(火)、28日(水)の3日間の日程にて大分県に結集をしました。
 初日は、宇佐市を会場にして全国各地から54人が参加しました。
 会議は岸田正博日本宗平協副理事長の進行で進められました。

荒川理事長が挨拶
 主催者を代表して、荒川庸生日本宗平協理事長は、今国会での戦争法案強行採決の経過にふれ、「朝日川柳」の『戦後に生まれて、戦前に死する』の句を紹介し、この戦争法が実際に運用されない取り組みが必要であることを述べました。そして、沖縄、辺野古での新基地建設反対についてのたたかい、また、川内・伊方等原発の再稼働を許さないたたかいと連動して進めていくことを呼びかけました。

中島三千男氏が講演
 平和会議プログラムの最初は、神奈川大学元学長の中島三千男氏から、『戦後70年 戦争観と現代責任』のテーマで記念講演がありました。中島氏は、1960年代末から70年代初めにかけて、ベトナムの宗教者との連帯運動に参加したこと、また、氏の名前の由来は、生年のサイパン島玉砕者数にかかわること等々の紹介がありました。戦争を通じて近現代史を学んだ経過を述べ、現在を生きる私たちの課題として、『戦争観と現代責任』というテーマの設定に至ったことを語りました。
 そして、20年程前から、国家神道、国家と宗教との関係についての研究を行い、戦前・戦中に海外に建立された神社の実態についての報告がありました。北はサハリン(樺太)から南はパラオ諸島、東南アジアの各地等々1600もの神社が建てられたことの事実は驚きでした。そして、戦後、その跡地がどうなっているのかを調査した神奈川大学のグループの実践も紹介されました。(詳しくは、中島氏著「海外神社跡地の景観変容」神奈川大学評論ブックレット編)
 冒頭、中島氏が強調されたのは、日本人の三つの戦争観。1、被害者・犠牲者としての戦争観…対米戦争・「太平洋戦争」で表される空と海との戦い。2、加害者・侵略者としての戦争観…アジア地域での戦い・「アジア・太平洋戦争」で表される陸上(暮らしの場)での戦い。3、自存自衛、アジアの解放のための戦争観…欧米対アジア・日本の図式、「大東亜戦争」で表される、欧米支配からの独立をうたう戦い。それぞれの戦争観が論じられてきた背景、そして、この三つの戦争観が複雑にからみ合いながら展開している現実が報告されました。
 そして、原発問題・秘密保護法・戦争法のたたかいの中で、新しい潮流ができつつあることも紹介され、戦後70年をめぐる今夏の安倍首相談話をどう見るかの観点で講話が続きました。安倍首相自身は、前述の戦争観では、3番目の、「自存・自衛 アジアの解放のための戦争観」の旗手であり、その戦争観に固執する筆頭者であることは言うまでもないことですが、「積極的平和主義」の欺瞞と矛盾に満ちた言動に対し、私たちのこれからの課題として認識していくことの大切なことを、具体的な事例を挙げて論じました。
 「日本を取り戻す」(安倍首相)…こんな表層的な「愛国心」は本当のものではない。愛国心の言葉そのものを汚すものである。過去の自分たちの行為に正面から向き合う姿勢を築き上げてこそ本物の「未来志向史観」、未来を切り拓く史観の実現であるという視点に参加者一同大きな共感をいただいた講演でした。

シンポジウム開催
 続いて、「戦争する国づくりを許さない宗教者の想い」―戦後70年 戦後責任と宗教者の役割―をテーマにしたシンポジウムが行われました。シンポジストには、長久寺徳瑞師(真宗大谷派長久寺前住職)、久峩良修師(曹洞宗裕国寺住職)、榎本栄次師(日本キリスト教団世光教会牧師)の3名、コーディネーターは林正道師(日本宗平協常任理事、真宗大谷派)が勤め、まず各師の宗教的立場からの報告・問題提起がありました。
 長久寺師は、かつて中国が漢字を簡略化することに対して、仏教の教学が危うくなることへの警告を発したこと、人は言葉で考えることにより語彙を発展させるべきであると述べました。また、師の自坊は、大分で初めて空襲を受け、艦載機の破片や機銃掃射の跡が本堂に残っていることを伝えました。軍国少年として育ち、特攻隊員が出撃する時の「酒を酌み交わす格好よさ」は人間の感覚を麻痺させてしまうこと。それ以来格好いいことはさせないの念を持ってきたことを語り、私たちが平和を願いながら進んでいく際の一視点として、常にこれでいいのかという自問をしながら活動をしていく示唆の一端を述べました。
 久峩師は、戦中(昭和16年)生まれ、4歳の時熊本大空襲にて終戦、戦中戦後の苦しかった記憶の中での大変な体験をもとに、貧しさのどん底から僧侶になった経緯を語りました。幼少時の爆弾投下時の光景…その怖さは、畑の真ん中で子どもを抱えた母親が、「一緒に死ぬのよ。」と叫びながら震えていた状況下の報告からも伝わって来ました。
 何とか助かった、生きのびたという安堵感から戦後の一歩が始まっていったこと、そして、もう二度と繰り返してはならないという実感のもとに、仏教の不殺生戒を学び、九条の会や反戦・平和の会、宗平協の活動に参加していることを報告しました。
 榎本師は、北海道在住時、恵庭・長沼事件に関わった体験から学んだことを宗教者の立場から報告・提起しました。「私の平和運動は、良い牛を作ることです。」(恵庭裁判の被告、野崎さんの言)を紹介し、実際にその土地で生きている者の暮らしを守るために動いているかどうかが原点であると述べました。宗教者はまず、人のいたみを共有し、困っている人・弱い人を助けましょうと語り、現安倍政権がなそうとしていることは、国民を守るために何も働いていないという事実を突き付けました。平和運動のスタンスとして、「命張ります。」と切り出した学生に対し、「命張らなくていい、切手張ればよい。」と返した榎本師の言葉が印象的でした。
 コーディネーターの林師から、会場フロアーからの参加者発言・質疑が促され、多くの参加者から各地の状況報告や活動の実態も交えながら、各シンポジストへの質問や感想が述べられました。その後、最後にまとめとして、各シンポジストの3師より発言があり、宗教者の果たす役割についての提言として締めくくりました。

アピール提案・討議・採択
 「戦争する国づくりを断じて許さない」「戦後70年―宗教者の戦争責任の反省に立って」のアピール文の提案があり、参加者の討議の後、拍手をもって採択されました。

河崎俊栄師より閉会挨拶
 日本宗平協代表委員の河崎俊栄師より、戦争する国づくりを許さないという一点で、この会議で学んだことを生かし、私たち一人ひとりが自分たちの住む地域で平和へつながる活動として継続していきましょうという呼びかけのもとに、初日の平和会議を終了しました。

交流・懇親会開催
 平和会議終了後、宇佐市内の同会場で30名の参加者によりにぎやかに懇親会が行われ、全国各地や地元大分県の参加者共々に活動報告と交流の機会が持たれました。九州で初めての開催になった今回の平和会議が、今後の宗平協の活動の新たな展開につながっていくことを期しました。

平和資料館など調査学習
 平和会議2日目は、平田崇英さん(本願寺派・教覚寺住職)のご案内で、宇佐神宮と東西本願寺の別院拝観の後、宇佐市立平和博物館(仮設)を見学しました。宇佐には1939年10月に、艦上爆撃機・艦上攻撃機の練習基地として、海軍航空隊が置かれ、1945年2月からは特攻の練習・出撃基地となりました。宇佐航空隊の歴史を示す説明や遺品・遺物の他、展示室中央には原寸大のゼロ戦模型(映画『永遠の0』の撮影に使用)があります。階段上から見る操縦席の狭さに、この機が特攻兵にとっての棺桶であったことを思わされます。宇佐から出撃した人間爆弾「桜花」の十分の一模型も展観されています。また、宇佐他の空襲の記録映像(米軍撮影)を視聴できることも、戦争を知る上で大きな役割を果たしています。その後、市内に保存された掩体壕(史跡公園)と、航空隊の跡を見学しました。稲田の中に通る道路は元の滑走路です。踏切の名前(航空隊踏切)も、落下傘庫も保存されています。
 「平和は具体的な形で展示することができません。戦争の道具を使って、それらに平和を創る意識を喚起する言葉を語らせなければなりません。」平田さんのこの発言に、私たち自身の戦争と平和を見つめる視点と思想が試されていると感じました。

日出生台演習場の調査学習
 3日目は真宗大谷派・見成寺本堂で日出生台演習場の実態について、浦田瀧二さん(NPOローカルネット日出生台)からお話を伺いました。年間360日近く陸自の演習があり、そこに約1カ月程米海兵隊が演習に来ます。米軍演習は1999年から始まり、今年三月には、国際的に非難されている白リン弾や、照明弾も使用されました。また、米軍の事前説明は一切なく、公開訓練から報道関係者が除外され、秘密化・危険化が進んでいます。米兵や装備の輸送に民間の運輸・港湾労働者も動員され、平時に有事が組み込まれる状態が作られつつあります。
 その後は、日出生台演習場へ移動し、4900ヘクタールの演習場を見下ろす高台で、そこで牛飼いをされている衛藤洋次さんから説明を受けました。 ここでは6~7キロを飛ばす大砲の実弾演習がおこなわれています。生活の中で演習が自然な状態になっているため、反対の声は上げにくいとのことです。演習場に面する家は移転補償の対象です。高額で国が農地と宅地を買い取り、高齢者がその代金を持って都会に移住する形での過疎化が進んでいます。決して楽観はできない状況ですが、「私にとって平和を創ることは、友達を作ること」という衛藤さんの言葉には、武器よりも強い人と人との絆・連帯の重要性を思わされました。 (小野和典、冨田成美記)


戦争する国づくりを断じて許さない
戦後70年―宗教者の戦争責任の反省に立って

 戦後70年の今年、私たち宗教者は、戦争か平和かという歴史的な岐路に立たされ、広範な平和を願う国民とともに、「安保関連法(戦争法)」に反対する歴史的なたたかいの一翼を担い、二度と戦争をしないと誓った日本国民の痛切な思いがこもった憲法9条を守り、生かすために各地で全力を尽くし、その取り組みを交流し、さらに決意新たに取り組みを広げようとここに集いました。
 歴代内閣の憲法解釈を覆し、日本をアメリカとともに「海外で戦争をする国」につくりかえようとする安倍自・公政権の憲法の平和主義、立憲主義、そして民主主義を破壊するこの暴走に対して、「殺し、殺される」日本への逆行を絶対に許してはならないと、仏教、キリスト教、新宗教などの教団、団体が戦争法反対の声を上げ、具体的な行動に立ち上がり、諸階層とのたたかいと共同を広げてきました。
「戦後レジームからの脱却」をめざす安倍首相が8月に閣議決定した「戦後70年談話」は、戦後50年にあたって侵略戦争と植民地支配への痛切な反省とこころからのお詫びを表明した「村山談話」の立場を投げ捨て、自らの言葉で謝罪することをせず、国際的な信頼を失墜させるものでした。安倍政権は、侵略戦争を肯定・美化する歴史観に基づき、戦争を反省しない言動をとりつづけています。
 安倍内閣が拘泥する靖国神社は、過去の侵略戦争を「自存自衛の正義のたたかい」、「アジア解放の戦争」などと過去の日本の侵略戦争を美化し、A級戦犯を合祀する施設です。この靖国神社の「秋の例大祭」に、安倍首相は「真榊」を奉納し、岩城光英法相と高市早苗総務相が参拝しました。古来からの自然との共生観に基づく神道を否定し、国家への忠誠を強要する国家神道の精神装置としての靖国神社の浸透を看過することはできません。この背景には、「新憲法制定」や靖国神社への首相参拝の「定着化」などを掲げる改憲右翼団体の「日本会議」の存在があります。
 戦前・戦中をとおして、侵略戦争に協力・加担した深刻な歴史をもつ宗教者として私たちは、その深い懺悔・反省にたって、戦争法の行使など安倍自・公政権が推し進める「戦争する国」づくりを許さず、戦争法の廃止、憲法9条を守り、信教の自由、政教分離原則の擁護、侵略戦争を美化し肯定する歴史の逆流の台頭を許さないために奮闘するものです。
 「核兵器とも原発とも人類は共存できない」は宗教者としての基本的命題です。川内原発2号基を皮切りに強行されようとしている原発の再稼働を断じて容認することはできません。原発ゼロ、核兵器廃絶のために引き続き奮闘する決意です。
 「殺すな、殺されるな、殺すことを許すな」という共通の教えに固く立ち、引きつづき戦争法、原発再稼働と相通ずる沖縄・辺野古の新基地の建設強行に反対する沖縄県民・宗教者と連帯し、翁長知事の辺野古埋め立て承認取り消し支持、「人殺し」のための米軍新基地建設阻止のために全力で取り組む決意を表明するものです。

                       2015年10月26日      2015年日本宗教者平和会議 in 大分

北海道宗平協結成50周年を迎える

 11月7日午後2時から、札幌北光教会を会場に北海道宗教者平和協議会結成50周年記念講演会と、レセプションが開催されました。講演会には240人を超える参加者があり盛況でした。 日本文学の研究家で、小林多喜二の著書でも有名な、シカゴ大学名誉教授ノーマ・フィールドさんの講演に先だつ開会セレモニーは、僧侶3人による声明、つづく聖歌隊による讃美歌合唱とパイプオルガンと、宗平協ならではの演出で会衆を引きつけました。 その後、沖縄・靖国・遺骨返還・福島原発などの宗教者の取組みが、4人の報告者によって報告されました。
 ノーマさんの「今、いかに本気に『平和』が語れるか」と題する講演は、今日のアメリカや日本に見る、ひそやかな「全体主義」の蔓延に抗して、人々がいかに感性を磨き、かけがいのない命を守るための連帯を保ちうるかを問うもので、時を見すえた、示唆に富む内容でした。
 午後5時半開会のレセプションは、食の安心・安全にこだわり、オール北海道産の食材を使用した料理と飲み物で50人以上の参加者が楽しく交歓のときを過ごしました。

辺野古の埋め立て土砂を送るな

                                     播磨灘を守る会 
                                     本願寺派・西念寺前住職   青木 敬介

 一昨年2013年5月27日、「環瀬戸内海会議」事務局からの電話で、沖縄・辺野古基地埋め立て用土砂(岩ズリ及びバラス)の採取地を沖縄防衛局が決めたらしいと言ってきた。その採取地が、瀬戸内海と九州各地ということであった。
 辺野古新基地のはなしは、普天間飛行場の閉鎖の代替地(中味は決して代替地でなく、軍港まで備えた巨大基地)として、1996年に米国防省が示してきた場所で、初めから沖縄の人々が反対し、いち早く監視テントを設けた場所である。(2010年10月、当会の糸満での「平和会議」でも現地へ行った)。沖縄県民の「辺野古基地反対」の運動は、その後も力を増し、たとい自民党の議員でも〝反対〟を言わねば、当選できないことになった。
 ところが、辺野古反対で当選したはずの仲井間前知事が、2013年末に〝腰痛〟で東京の病院に入院した時、菅官房長官に「沖縄振興費増額」の毒入りアメを食わされて、埋め立てを承認しそうな兆候があり、同じ時期に、埋め立て用土砂採取(奪取)場所を沖縄防衛局が発表した。瀬戸内海では、私の住む村のすぐ前に見える小豆島東端であり、山口県周南市黒髪島と防府市向島、新門司港南の山々であり、熊本県は天草の御所浦島、長崎県の五島列島の椛島、鹿児島県の佐多岬、そして同県奄美大島は住用村、徳之島の各地で、合計2100万立法メートル(東京ドーム17個分)という膨大な量である。しかも、それぞれに国立公園であり、生物多様性の豊かなところであり、天草は古代の化石が発見される島でもある。
 一方、名護市辺野古・大浦湾は沖縄本島で激減しているサンゴ礁がまだ豊かに残っており、絶滅危惧種のジュゴンの餌場であり、赤海亀の産卵場がある実に大切な海域である。
 つまり、土砂(バラス)を奪われる側も、美しい景観をぶち壊されたり、奄美住用村集落のように、住民生活に危害が及ぶところさえある。埋め立てられる方も、貴重な生態系をまるごと滅ぼされる。二重の環境破壊であり、ましてや人殺し用の巨大設備を造ることに、私らは否応なく加担させられることになる。
 2013年12月24日、私らは急遽、沖縄に飛んで(その日、仲井間前知事が帰沖する予定だった)、「辺野古埋め立てを承認しないように」という要望書を手渡そうとしたが、彼は帰って来ず、やむなく糸数慶子議員のお世話で知事公室長らに会い、「くれぐれも県民大多数を裏切らないでくれ」と要望書を手渡した。しかし、27日、帰沖した仲井間前知事は早速「辺野古埋め立て承認」を発表し、80%以上の県民の願いを裏切った。もちろんこの件は、東京の環境省、防衛省にも、同日事務局を通じて首都圏在住の会員のみなさんが、申し入れをしてくれたのだが―。仲井間前知事は〝腰痛〟で入院したのではなく〝腰砕け〟だったのである。
 25日は、約3000人の沖縄県民が県庁を二重に取り囲んで「知事は裏切るな」「辺野古新基地拒否」の声を、雨模様の空に突き上げた。
 その後の事のなりゆきは、沖縄防衛局の辺野古・大浦湾のフロートによる囲い込み、20トン~40トンのアンカーブロックの投入。キャンプ・シュワブのゲート前での連日の座り込み。シーカヤックでの抗議行動、対する警察と海上保安庁の暴力的な取り締まり。それまで一切記事にしようとしなかった内地(ヤマトンチュー)の新聞、テレビのマスメディアも、触れざるを得なくなったのだ。
 私ら「環瀬戸内海会議」「播磨灘を守る会」もじっとしておれず、」「命(ヌチ)ですか、戦世(いくさゆ)ですか」というリーフレットを造ったり、署名活動を、奄美の人たちとはじめたりしていたが、5月に入って、右に述べた各地の住民団体や個人に呼びかけ「辺野古土砂搬出反対全国連絡協議会」を5月31日、奄美大島・名瀬で結成した。当日、その協議会に加盟を表明した団体は、「門司の環境を考える会」をはじめ7団体。やがて、6月には、「北九州連絡協議会」、7月になって、「熊本県天草九条の会」の呼びかけで「熊本県連絡会」「長崎県沖縄連帯実行委員会」などが続々と結成された。
 その間、環瀬戸内海会議の阿部悦子・共同代表のめまぐるしいほどの各地加盟団体との交渉は、すばやく効果的なものだった。
 また、沖縄でも、この大和(ヤマトンチュー)での動きに呼応して、県議会で「県外からの土砂持込み規制条例」を制定するなど、外来動植物、特にアルゼンチンアリ(凶暴性強く、サトウキビを食う。福岡、山口、広島などで繁殖)の侵入を防ぐため、土砂搬入にブレーキをかけた。
 そして、この10月13日、翁長現知事は、「辺野古埋め立て」承認を取り消した。政府は、それに対し国交省に命じて「行政不服審査請求」を行うというが、筋が違うだろう。この法律は、〝権力も金もない庶民が、国や行政に不服を申し入れる〟ための法。中央権力が、末端の地方行政を訴えるのは、それこそ法律違反だろう。私らはとことん、人殺しのための基地のない沖縄を望み、沖縄の人々を支援する。

山家妄想
靖国神社へ参拝する内閣

 第三次安倍内閣が発足した。驚いたことに自民閣僚の全員が靖国派だという。
 安倍総理(日・神・靖)麻生財務相(日・神)高市総務相(日・神・靖)岩城法務相(神・靖)岸田外務相(日・神)馳文科相(靖)塩崎厚労相(日・神・靖)森山農水相(神・靖)林経産相(日・神・靖)石井国交相(公明)丸川環境相(神)中谷防衛相(日・神・靖)菅官房長官(日・神)高木復興相(神)河野公安・行革相(神)島尻沖縄・北方相(日・靖)甘利経再相(日・神・靖)加藤一億活躍相(日・神・靖)石破地創相(日・神・靖)遠藤五輪相(神・靖)
※(日:日本会議国会議員懇談会 神:神道政治連盟国会議員懇談会 靖:みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会に所属)
★時あたかも靖国神社は秋季例大祭を迎えた。安倍総理は参拝することは控えたが、真榊を「私費で」奉納し、高市総務相・岩城法務相は昇殿参拝した。他に副大臣を含む70余名の国会議員が集団参拝した。彼らはこもごも「国のため尊い命を捧げられた御霊に感謝する」ためなどと己が行為を合理化する。
★神社本庁は「神道は日本人の暮らしの中から生まれた信仰といえます。自然の力は、人間に恵みを与える一方、猛威もふるいます。人々は、そんな自然現象に神々の働きを感知しました。また、自然の中で連綿と続く生命の尊さを実感し、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きとして捉えたのです。そして、清浄な山や岩、木や滝などの自然物を神宿るものとしてまつりました」と説明する。この説明に異議はない
★やがて、特別な力を持つと考えられる品物(石上神宮の七支刀など)や偉人など実在の人物(談山神社・藤原鎌足や天満宮・菅原の道真など)も神様としてまつられる。ところが近代になって、明治天皇が明治神宮に祀られ、海外での征討軍の司令官で死亡した宮様を祭神として祀り、台湾神宮や満州の建国神廟とするなど、政治的意味合いの強い神社が出現した。他に南洋神宮などもある。
★なかでも靖国神社は特異である。維新戦争の戦死者のうち「官軍」の戦死者のみを祀る東京招魂社として創られ「朝敵」の死者は祀らなかった。第二次大戦敗戦後、それらも祀るようになるが、それは別殿においてであり、本殿には皇族軍人二人の死者と一般国民の戦死者を入魂した二つの鏡が別々に置かれている。一般国民(韓国・朝鮮出身の戦死者も含めて)の魂は一つの鏡に納められているから、分祀することはできないと拒否することになる。
★敗戦前は陸軍省の管轄する別格官幣社であった。戦死者は毎年おこなわれる招魂祭において合祀された。戦場において、餓死を含む非業の死を遂げようとも「天皇陛下万歳」と叫んで死んだと美化され、「靖国の神」となって天皇に親しく拝礼される名誉に浴すると、遺族にも思い込ませた。敗戦後は一宗教法人として存続したが、厚生省から与えられた名簿により祭神を合祀している。極東裁判でA級戦犯として処刑された七人も「昭和殉難者」として合祀されてもいる。
★このような歴史を考えれば、祀られている人々がどのような思いを抱いて亡くなっていったか、少なくとも一様でなかったであろうことは明らかであろう。その思いに心を致すことなく「国のため尊い命を捧げられた御霊に感謝の誠をささげる」などのステレオタイプの言葉を発し、これ見よがしに群れを成して参拝するなどは真に死者を悼むものとは受け取れない政治的行為である。
★ましてや境内には遊就館(最初は「額堂並びに武器陳列場」と呼んだ)なる施設を持ち、その玄関ホールには実物の零戦を展示し、日本会議・英霊にこたえる会企画の「私たちは忘れない」と、日本の戦争に「感謝と祈りと誇り」を呼び起こす映画の上映などしている。この神社の存在が意図するところのものが明らかに示されている。
★この靖国神社が表現し、主張する歴史観・思想に共感する人たちに独占・組織された政権が導く私たちの国の未来に、大きな危惧を抱くことは間違っているだろうか。隣国の中・韓国民と手を携え北東アジアを平和な地域とするために、この政権の一日も早い退陣を実現せねばならない。 (2015・10・22  水田全一・妙心寺派の一老僧)